キイストンの最大の強みである社長ネットワークを活かし、ビジネスモデルを少しずつ変化(進化)させています。
これもコロナ禍で、もがき苦しんだからこそ生まれました。
常にチャレンジーを恐れず新しい試みしながら進化させ、一方でコツコツ継続していくと必ずチャンスは出てきます。
そんな意味で2024年度はとても大事です。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
キイストンの最大の強みである社長ネットワークを活かし、ビジネスモデルを少しずつ変化(進化)させています。
これもコロナ禍で、もがき苦しんだからこそ生まれました。
常にチャレンジーを恐れず新しい試みしながら進化させ、一方でコツコツ継続していくと必ずチャンスは出てきます。
そんな意味で2024年度はとても大事です。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ぼんた 代表 齋藤敏幸氏登場。
本文より~福井県は観光名所もある豊かな県だが、福井で事業をしていると、地方ならではの悩みもあるそうだ。今回、お話を聞いたのは、福井県で人気の飲食店を複数経営するぼんたグループの代表、齋藤敏幸さん。
齋藤さんに聞いて初めて知ったが、福井県は有効求人倍率が、日本でトップらしい。トップと言っても、事業者からすれば喜べないほうのトップである。
とにかく人手不足らしい。飲食店といえば、学生のアルバイトが定番だが、大学生の数がそもそも少ないそうだ。そんななかで、齋藤さんはどのようにして飲食店を経営しているのだろうか。
インタビューはそんなところから始まった。
「じつは、2017年に串カツ田中のフランチャイズに加盟しています。社員が2人で、週休2日制って、ほんとかって思って。やりかたがあるんならそれを知りたくて」。
2020年にはリンクアンドモチベーションの、モチベーションエンジニアリングも採用している。効率性と同時に属人的に偏ることがない組織づくりも重要な課題だったからだろう。
ところで、このような組織づくりをめざす背景には齋藤さんが飲食ではなくアパレル出身ということも挙げられるのではないか。
では、そのあたりも深く聞いてみよう。
「私は1978年、生まれです。少年野球をやり、中学からテニスです。ごく普通の少年でした。中学3年生の時に父親が他界します」。
大きなショックだった。「長男として家を守っていかなきゃいけない」と思ったと語っている。だからではないが、芸能人をすることになった。
「芸能事務所のオーディションを受けたのは、高校3年生の頭ですね。合格して、芸能事務所に入りました。月1、夜行バスに乗ってレッスンに通っていました。もちろん、進学も就職もしなくてよくなります」。
高校時代には30~40人に告白されたと言っている。なんともうらやましい話だが、それはそれでたいへんだったにちがいない。
ともかく、高校を卒業したことで芸能生活がスタートするのだが、じつは、その年の夏には福井にもどっている。「芸能人が帰ってきた」とさわぎになった。
「福井がいなかってことを表すような現象ですよね。とにかく、ぼくもちょっと格好つかないと思って、当時、キムタクさんのビューティフルライフがこちらでも大ブレークしていて、アパレルだったら恰好つくんじゃないかと」。
<それでアパレルを始めるわけですね?>
「そうです。きわめてシンプルな理由ですね。福井のセレクトショップで4年はたらきます」。才覚があったんだろう。すぐに店長になっている。
4年後、齋藤さんは独立を果たす。
「父親の保険金1200万円使って開業しました。当然、親戚一同はもう反対です」。失敗したら高級車買ったと思ってあきらめるといって押し切ったそう。
「商売の怖さをまったくわかってなかった。開業すれば、なんとかなるっていう浅はかな考えも、頭のどこかにあった気もします」。
結論からいうと、失敗はしなかった。ただ、借金、まみれになった。
「会社員の時に、300万円をセールスしていたんで、その感覚で仕入れをして、スタートするんですが、初月から150万円しかセールスできず、買い取りだったもんですから、返品もできません。2ヵ月でキャッシュが尽きます」。
高級車1台分が消えただけでは済まなかった。撤退もままならない。資金を追加していかないといけない。
「母親に150万円、消費者金融に400万円」と齋藤さんは苦笑する。
「取扱ブランドが爆売れして、ピンチを脱します。仕入れもだんだんとわかってきたので、調整しながら、そうですね、2年くらいかけて返済できました」。
借金を返済したことで、気分は落ち着いたが、心はざわついたままだった。「いつどうなるかわからない」。そのことが頭から離れなかったそうだ。
「軌道に乗りだしたこともあって、ショップ数を拡大したかったんですが、ブランドにルールがあって、それ以上のオープンが認められませんでした。だからといって、単独のショップでは不安が募るばかりだったんです」。
<だから、飲食を始められたんですね?>
「そうですね。飲食の知り合いがいたりしたもんですから、絶対、飲食というより、たまたま飲食だったというイメージですね」。
「たまたま」というから、軽いイメージで聞いていた。だから、投資額を聞いて驚いた。なんでも、30坪、50席。スケルトンからで、ざっと投資額2000万円。
「ダイニング・バーです。26歳の頃。また、借金をするわけですが、それは怖くなかった。何にもしないというのが怖かったです」。
<いかがでしたか?>
「おかげ様で、アパレルのお客さんがついてきてくれて」。アパレルと飲食はたしかに親和性がある。ハイセンスのショップなら尚更。
「コンパとか、結婚式の二次会などでも、ひんぱんに利用いただいて」。
繁盛する。だが、まだ心はざわついている。
28歳、齋藤さんは郊外型の個室居酒屋をオ-プンする。100席の大型店。投資額は3500万円。その後もオープンを重ね、2024年現在、「ぼんた本店」をはじめ、8店舗のオリジナルブランドとFC店、ほかに福井医大のキャンパスでもランチを提供している。
スタッフの数も、もちろん、多くなる。
「アパレルとちがって飲食は驚くことばかりでした。アパレルショップはホワイトだったんですが、飲食は長時間労働でへたをすると休みもない。はたらいている側の笑顔の奥を知っていますから、お客様のたのしそうな表情をみると、そのギャップに驚くしかありませんでした」。
なにがどうなっている? 飲食人は熱量で動いている。でも、そうなんだろうか。
「飲食は人がつづかないでしょ。アパレルの時は、だれも辞めなかったのにどんどん辞めていく。もう、経営者の私が無理になって、いわゆる働き方改革を決行します」。
「もちろん、私は料理をつくれないし、居酒屋ではたらいたこともありません」。だけど、一般常識があったと齋藤さんはいう。だから、飲食の常識ではなく、一般の常識をものさしにして福利厚生や労働環境のレベルをつぎつぎアップデートしていった。
もちろん、戦略も齋藤さん流。「アパレルショップっていうのは付加価値をお客様に伝えるのが仕事なんです。そのノウハウを居酒屋に応用します。単純な例を挙げれば、『からあげ』じゃなく『ジューシーからあげ』というネーミングにするだけで、印象もかわってくるでしょ。それに、ジューシーなほうが旨い(笑)」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にFood Innovators Holdings Limited. 代表取締役社長CEO 久保田恭章氏登場。
本文より~久保田さんは1975年5月22日生まれ。
学生時代から不動産事業に興味を持ち、卒後、中堅の不動産会社に就職。同社で勤務した2年間、トップランナーとして走りつづける。
セールスマンとして、高く評価された実績をもとに、大手外資系保険会社に転職。
「当時、スターだったのが、ソニー生命のアイアンマン先輩(仮称)です。私は、アリコジャパンというアイアンマン先輩とは違う会社でしたが、アイアンマン先輩のことを知らない人はいませんでした。そのアイアンマン先輩が起業するという話を聞き、私も創業のメンバーに参加させていただきました。私は、アイアンマン先輩の下でファイナンスを勉強したかったんです」。
<それが、フューチャークリエイトですね?>
「そうです。私が26歳の時の話です」。
天才的な営業マンだったアイアンマン先輩が、創業したフューチャークリエイトは、のちに店舗流通ネットとなり、名証セントレックスに上場している。
<創業当時の話を聞かせてください>
「創業時は私を含め従業員は数名。ほぼアイアンマン先輩1人のワンマン企業といったイメージでした。売上もアイアンマン先輩1人であげていました」。
「周りは、アイアンマン先輩があげてきた契約に追われるんですが、私は、少し違いました。ファイナンスをしたかったので、アイアンマン先輩に相談します。すると『やりたければ、やれば』といった冷ややかな回答でした。ただ、『やれば』と言ってはいただけたんで(笑)」。
<1人で始められたのですか?>
「結果的にはそうですね」。
<いかがでした?>
「私がはじめて2ヵ月経った頃です。冷ややかだったアイアンマン先輩が、興味津々に聞いてくるんです。『久保田ちゃん、どうやってんだ?』って」。
話を聞くと、そりゃ、アイアンマン先輩も気になるはずだ。
7月から事業を開始して、9月には400万円の利益をあげている。「年末まで2,000万円の利益をあげ、200万円のボーナスをいただきました」と久保田さんは笑みを浮かべる。
ボーナスの額云々より、アイアンマン先輩に認められたことが誉だったにちがいない。
フューチャークリエイトは、2004年、創業から4年のスピードでセントレックスに上場している。マーケットの評価も高く、初日には値がつかなかったそうだ。
当時のビジネスの一部を、噛み砕いて説明していただいた。
「たとえば」と、久保田さん。
「5店舗を経営している会社があったとします。5店舗のうち、2店舗は黒字だけど、残りの3店舗が真っ赤でマイナスを計上していたとします。銀行は融資しますか?」。
<…難しい気がします>
「そうです。資金があれば、真っ赤な店舗を処理することもできるんですが、融資を受けられないから、それもできない」。
<手詰まりですね?>
「そういうわけです。でも、私たちは違います。銀行さんにはどう映っているかわかりませんが、私たちにすると黒字の2店舗は宝です。その黒字の2店舗をいったん買い取らせていただいて、スケールにもよりますが4,000~5,000万円をお支払いします。すると、それを再生の資金に充てていただくことができます」。
<買った店舗はどうするんですか?>
「買い取った店舗は、サブリースとして、もとの会社にお貸しして運営委託するというスキームです。だから、表面上は何もかわらず営業をつづけることができます」。
久保田さんによれば、その黒字店が、運営の問題で赤字を叩きだすようになっても、フューチャークリエイトには資産が残るからリスクも少ないそうだ。
話を聞いて、マーケットが評価したのは、このような事業モデルがあったからだと思った。従来の融資とは異なる、Win-Winのファイナンススキームである。
「2004年、上場したあと我々のビジネスは、さらにアップデートします。今度は、企業を買収して子会社化し、バランスシートを軽くするなどして、その会社を上場させるというスキームをつくります」。
ともかく、新たなスキームができ、久保田さんはその事業の担当役員に任命される。
実は、その第一号案件が、のちに久保田さんが代表を務めることになる「株式会社フーディーズ」だった。
第一号案件を進めるため、合計7,000万円を投資。うち2,000万円は、担当役員の久保田さん個人の資金だった。
「担当役員だからということでね。その増資が完了したのが、今も覚えていますが、2005年の5月17日です」。
「だが、インパクトでいうと、その翌日のほうが大きい」と久保田さん。「その翌日、アイアンマン先輩が逮捕されるんです」。
<まるで、ドラマみたいな話ですね?>
「そうですね。私にしても、寝耳に水です。詳細はわからないです。ただ、そうなった以上は、迷惑をかけないよう、フーディーズから身を引くしかないと思っていました。当時の社長さんにも、そうお話ししました。でも社長さんは逆に『私は久保田さんを信じてこの話にかけた。だから、久保田さんがいる限り、グループのままでいい。このまま進もう』と」。
「そこまで言われたらね」と、久保田さんはいう。行動は早い。翌6月には店舗流通ネットの役員をやりながら、フーディーズの共同代表に就任する。
久保田さんが、フーディーズの経営に注力するなか、店舗流通ネットでは多士済々なメンバーの思惑が交錯する。
久保田さんが知らないうちに、店舗流通ネットはファンドに売却されてしまった。役員の1人から声がかかる。「久保田さん、どうするの?」と。
「どうするって言われてもね。私は全然知らなかった。私以外の役員たちが決めたんです。株価もダダ下がりでしたし。ファンドを起爆剤に、もう一度ということだったんでしょう」。
「彼の質問は当然、私自身もそうですが、フーディーズをどうするのかということ」と久保田さん。
道はそう多くない。ただ、店舗流通ネットに残る選択肢はなかったのではないか。
「そうですね。それはない。私は、所有していた店舗流通ネットの株式をすべて売却し、その資金で、店舗流通ネットが所有していたフーディーズの株式をすべて買い取りました」。
総額、いくらだったんだろう。
ちなみに、久保田さんは「昭和50年生まれで、最初に四季報に載った」と笑う。「あれが、29歳でしょ。そして、フーディーズの株式をすべて買い取ったのが31歳。わずか2年だからびっくりしますね」。
<まるでジェットコースターですね?>
「まだまだ話は今からです」と、久保田さんは笑う。
「店舗流通ネットから株式を買い戻して、新体制でスタートしたのが2006年です。その時、フーディーズのメインブランドは『刻』でした」と久保田さん。
1年程度で、投資回収が可能なパッケージだった。
「わかっちゃいたんですが、スケルトンで『イベリコ豚の専門店』といった格好いい店をやってしまうんです。はい、大失敗です」。
「ベンチャーキャピタルにも出資いただいていたんで、損はさせられなかった」と久保田さん。
「その時、パソコン関連の会社から、ベンチャーキャピタルの出資分を買い取ってくれるという話があり、いったん、その傘下に入ります。ただ、様々な会社を子会社化する一方で、本体の経営がうまくいかなかったんでしょうね。子会社の整理が始まります。うちにもすぐに『でていってくれ』と(笑)」。
<それは、きついですね?>
「ですね。年末までと言われて、余裕がありませんでした」。
<どうされたんですか?>
「知人が日本振興銀行グループ社長をやっておりましたので、日本振興銀行の会長をご紹介いただきまして」。
「お会いした時、会長は私のビジネスモデルを絶賛してくださるんですが、それ以上、話が進まない(笑)。1回目が『いいね』で終わり、2回目もそんな感じで、12月の期限が近づいてきます」。
あまり興味ない本を読まない久保田さんだったが、この時ばかりは会長の著書を読みあさったという。
「3回目の時に、ストレートに『どうすれば、日本振興銀行のグループに入れていただけますか?』と」。
会長は、その一言を待っておられたんだろうか。はじめて久保田さんの役員報酬についての条件を示され、久保田さんが一番下のランクからお願いいたしますと言うと、久保田さんの前に、会長の右手が差し出されたそうだ。
シェイクハンド。
久保田さんは今もその時の感覚を忘れてはいない。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
キイストンは初期から食べログの正規代理店やってますから代理店歴は長いです。
そんななか、この9月15位からなんと11位になりました。
代理店としてそんな位置にランクされるとは全く考えてませんでした。
これもスタッフのおかげ。
誇らしい!!
「飲食の戦士たち」が1,000連載突破したので、ロゴの変更します。
スタート時は“戦士”を強調したため、ちょっと暗いイメージがあるのでイメチェンします。
どのタイミングで変更するか思案中。こちらは社長である私の一存で決めます!!
次の世代にバトンタッチする流れを作っています。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社かんなん丸 代表取締役社長 野々村孝志氏登場。
本文より~「小学校は8クラスくらいだったかな」と野々村さんはいう。遠い昔の話である。野々村さんは、コロナ禍に白羽の矢が立ち、2022年9月に「かんなん丸」の代表取締役社長に就任されている。
株式会社かんなん丸とは埼玉県を中心に「庄や」などの飲食店を展開し、東証スタンダードに上場している外食企業である。主力は「庄や」のメガフランチャイジー事業だが、2018年にオリジナルブランドの「大衆すし酒場じんべえ太郎」をリリースしたほか、女性専用AIパーソナルトレーニングジム「ファディー」のフランチャイジーに加盟するなど、飲食以外の事業にも参入している。
今回のインタビューは2024年6月に行ったので、野々村さんが代表取締役社長に就任されてからはやくも2年ちかくが経っている。
冒頭の通り、小学校の話をすると「もう遠い昔の話ですね」と言いながら、その昔の話をしてくださった。「私は、大阪の住之江出身です。大和川という大きな川があるんですが、そのちかくの市営住宅で暮らしていました。小学生の時には、クロールで府や市の大会に出場しています」。
<運動神経がよかったんですね?>
「でも、中学になってバレーボールを始めるんですが、9人制が6人制になって、剣道に転向しました。どうしてってですか? 背丈が、ぜんぜん高くならなかったんです(笑)」。
<勉強のほうがいかがでした?>
「割りといいほうだったんじゃないかな。塾にも行っていましたしね」。
当時は、塾に通っているこどもは少なかったはず。経済的にも恵まれていたんですね?と話をふると、「じつは、その頃、親父が勤めていた会社が倒産しているんです。でも、私らに心配はかけまいと思っていたんでしょうね」。
塾を辞めることもなかったそう。ちなみに、お父様は、普段あまりものを言わないが、「怒らせたら怖いタイプ」だそう。野々村さんはどうなんだろう。
「私が、中学3年の時に札幌オリンピックが開催されて、TVでアイスホッケーを観て、あれに惹かれて、たまたまですが、アイスホッケーのある高校に進みます。ただ、『そもそも練習できるところがない』という話を聞いて入部することなく、断念しました」。
<それでラグビーですか?>
「そうなんです。ラグビー部の練習を観ていて、友達もやるというので一緒にラグビー部に入部します。昔から、ある意味、主体性のないタイプだったんでしょうね(笑)」。
「たまたまですが、私らの代がつよく、府大会でベスト8まで進みました。私のポジションは、フォワードです」。
「進学校だったが、校則が緩く、私服をいいことに学校を抜けだしたこともある」と笑う。1970年代、少年たちが今よりずっと自由だった頃。
「ただ、そんなことをやっているもんだから、勉強がおろそかになって、大学受験は全落ちです」。
しかも、予備校も2校、落ちている。
「なんとか堺にある予備校に受かって、浪人生活がスタートするんですが、今風にいうと、浪人生のあるあるで、マージャンを覚えてしまって(笑)」。
<それはまずいですね?>
「ほんとにそう。それでも、なんとか、合格できました」。
<慶応義塾大学ですよね?>
「そうです。関西の大学も合格したんですが」。
<もちろん、ラグビー部ですか?>
「ハイ、そうです。最終的に1.5軍くらいで、レギュラーにはなれませんでしたが、貴重な体験だし、なによりいい思い出ですよね」。
ラグビー部の地方出身者は、「日吉の寮とだいたい決まっていた」と野々村さん。「夏に山中湖に合宿に行くんですが、地獄の合宿と言われていて、徹底的に鍛えられます」。
肉体も精神も。
「朝6時に起きて1時間走って、昼の練習、夕方の練習と3部制でした。今となっては、やり抜いたことが、自信にもなっています」。
「2年の秋くらいに肩をけがして、3年生の半分くらいは棒に振った感じ」とちょっと悔しそうにいう。
「就職は大阪にもどる予定で、大阪ガスに内定をいただいていたんです。でも、サントリーにいたOBから、ささかやれるんです。『サントリーに来たら、酒がただで飲めるよ』って」。
<反則級のお誘いですね?>
「そう。それと、サントリーにはラグビー同好会があって、ちょうど部をつくるタイミングだったんです。だから、私もじつは創部のメンバーの1人なんです」。
「17時半まで仕事をして、19時から練習、そういうスケジュールでした。私は、入社後、物流部に配属されます。輸入の通関業務を3年間経験しました。ラグビーは5年間つづけます。創部したばかりだったので、いちばん下の3部からスタートです。3部になると、同好会も多くて、私はウイングだったもんですから、けっこうトライをあげています」。
応援もたくさん来るので、モテたと、野々村さん。じつは奥さんも、そのときラグビーを観戦し、黄色い声援をあげておられたそうだ。
「ラグビーを辞めてから、六本木の会員制のナイトクラブに出向します」。130坪くらいあったというからかなり広い。営業はPM6時~AM3時迄。野々村さんの肩書は、「常務取締役総支配人」だった。
在籍したのは、1986年から7年間というから、いちばん日本が熱い時を知っている。
「ナベプロとサントリーが共同経営しているようなクラブで、芸能人や政財界の方がよくいらっしゃいました」。
バンドの演奏があり、演奏が始まると、ダンスホールで、ダンスが始まった。
「このとき、経理や会計を叩き込まれた」と野々村さん。
野々村さんは、いう。
「1000円だったチップが、バブルで1万円になり、その後、500円になった」と。まさに、バブルの前後を経験している人の一言だ。
「会員は3000人くらいいらっしゃいました。私は、常務取締役総支配人です。サントリーから唯一の出向者でした。おかげでご挨拶程度ですが、大企業の社長さんや、今や大企業の社長になられている当時は部長クラスだった方々とか、著名な政治家や、芸能人の方々と、お話もさせていただきました」。
若干29歳。そこだけなら、贅沢な経験だ。
ただ、苦労もした。
「50代のマネージャーと何度もぶつかりました」。ただし、それも含めていい経験だったにちがいない。
<そのあと、ダイナックにも出向されていますね?>
「そうです。IRや経営企画がメイン業務でした。結局ダイナックには、11年いたのかな」。野々村さんに、人生で大変だったのは? と質問すると、ダイナック時代を挙げられた。
「ダイナックにも、古い体質が残っていました。私は、なんとかしようと取り組むんですが、バックヤードですから、そこから営業を含めた全体を改革するのが、大変でした」。
じつは、このときに転籍をしている。
「様々な改革を進めるなかで、常務になりました。上場も進めていたんですが、上場するのに常務の私が出向者だとまずかったんです」。
サントリーを退職し、ダイナックの専務となっている。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ハンク・ディーシー 代表取締役 朽木敬之氏登場。
本文より~宮崎県と首都圏で、和牛王国・宮崎の和牛を使ったハンバーグ店を展開する株式会社ハンク・ディーシーの朽木敬之氏。彼を紹介する前に、まずは彼の父親である朽木昌博氏について少し触れておきたい。
宮崎県出身の昌博氏は東京大学を卒業後、大手都銀でバリバリの銀行マンとして活躍した人物だ。高度成長期を経験し、若い時から30歳までに独立することを決めていた昌博氏は、29歳で銀行を退職。会社の元同僚だった妻とともに宮崎へ帰郷した。「これから伸びるのは、飲食か塾経営のどちらかだろう」と考え、宮崎にアメリカンダイナーをオープンした。
飲食経験は皆無で料理も接客もまったくの素人だったが、元銀行マンだけあって数字にはめっぽう強かった。アメリカンダイナーでは差別化が難しいと判断するやすぐさま業態転換し、長男の敬之氏が誕生した翌年の1983年に、地元宮崎が誇る和牛を使ったハンバーグの専門店を開業する。それが霜降りハンバーグと宮崎牛ステーキの店『平家の郷』だ。
敬之氏が小学生のころには、『平家の郷』はすでに県内でよく知られる店に成長していた。上場も視野に入れていた父は、直営店に加えFCも積極的に募集。最盛期には宮崎をはじめ鹿児島や福岡、熊本、兵庫、そして和歌山などに十数店舗を展開する規模にまで成長していた。
テレビをつけると『平家の郷』のCMが流れ、幼いころから「お前はここを継ぐんだぞ」「いつか東京に出すからな」と言われ続けていた敬之氏は、自分が家業を継ぐことを素直に受け入れた。特に反抗期もなく、親の商売を身近で眺めつつ育った敬之氏だが、忘れられない光景が一つあるという。
「ある日、会社の会議をちらっと覗く機会があったんですね。すると従業員の人たちが父にむちゃくちゃ怒鳴られていて。いつも僕に良くしてくれる優しい人たちが頭ごなしに怒鳴られている様子に、子供ながらに本当にびっくりしてしまいました」。
威厳があって数字に強く、コスト意識が飛びぬけて高い父。敬之氏によると、昌博氏の経営方針はまさに『ザ・昭和のワンマンスタイル』だったという。敬之氏はその後、父を尊敬しつつも父とはまた違った経営者の在り方を模索していくことになる。
東京進出の夢を繰り返し聞かされながら育った敬之氏だが、高校卒業後は慶應義塾大学の法学部に入学した。なぜ経営学部ではなく、法学部だったのだろうか?
「僕が高校のころ、うちはあるFC店との訴訟問題を抱えていました。業績が良かったにもかかわらず、FC契約を破棄したいと言ってきたんです。看板もメニューも変えるから契約違反にならないと言っていたのに、実はまったく同じことを続けていた。それで高等裁判所までいったりして、大変だったんです」。
最終的には勝ったものの、その時に憧れを抱いたのが弁護士という職種だったという。先の例にとどまらず、1986年にイギリスで起こったBSE(いわゆる狂牛病)や、1996年のかいわれ事件など、子供のころから飲食業の難しさを肌で感じてきた敬之氏だからこそ、異業種に憧れたのかもしれない。
ところが、いざ法学部に入ってみると、まわりの同級生たちの頭の良さに圧倒されることに。
「こいつらと勉強するのは嫌だなって思ったんですよね」。
敬之氏は弁護士の夢をあっさり捨て、経営者になる道を進む決意をする。元のさやに納まったという訳だ。
1年生の時の教授との口論をきっかけに、大学へはほとんど行かなくなった敬之氏。父から「マックにはオペレーションシステムのすべてが詰まっている。バイトをするなら、マクドナルドから始めろ」と言われ、とりあえず働き始めたものの、接客がやりたかった敬之氏はわずか3か月で辞めてしまった。その後は居酒屋やカフェでアルバイトをしたり、当時まだ学生団体だったベンチャー通信にも加わって、自ら教育した学生を企業に派遣するという仕事にも携わっていた。
「ベンチャー通信にいたのは1年半くらいです。ほかのベンチャー企業の社長に会う機会も多かったし、ここで学んだことは大きかったですね。家業に就く前には、ベンチャー企業もいいなって思っていました」。
大学4年時代にあるベンチャー企業の創業メンバーの社員として働いていたこともあり、「卒業したらこのままここで働けばいいか」とも考えていたそうだ。
「でも卒業する直前に、父から『東京に出店の予定がある。お前に任せるからやれ』と言われたんです。ベンチャーの仕事が面白かったし一度は断ったけど、『ほかに人がいない』と。それでベンチャー企業のほうは3月末に辞めて、卒業と同時に親の会社に入りました」。
彼が入社した時には、すでにもう1年半先までの出店計画が出来上がっていて、4月の八王子一号店を皮切りに、新店舗を3か月ごとに開業していくという多忙な日々が続いた。
順風満帆に見えた『平家の郷』の東京進出。しかし1年を過ぎるころから、既存店の売り上げに陰りが見え始めた。オープン景気後に売上げが落ちることはままあるが、いつまでたっても下降線のまま。気が付けば東京の店はすべて赤字になっていた。
新店舗の立ち上げに追われていた敬之氏は、宮崎から派遣された社員たちに既存店の運営を任せていた。ということは、宮崎のオペレーションに問題があるのだろうか?
「業態としての完成度が完全に低すぎたんです。チェーン店を目指していたのにオペレーションの完成度は低いし、社員教育もなってない。僕はうちのハンバーグはどこよりもおいしいと自負しています。でもいくら美味しくても、オーダーから提供まで30~40分もかかっていたら…ねぇ?」。
会社としては過去最高の売り上げを記録したにも関わらず、3期連続の赤字に陥った株式会社ハンク・ディーシー。入社時の社長室長という肩書きから常務取締役へと昇進を遂げていた敬之氏は、自ら店長として現場に立った。
「もうそれから、社内会議ではいかにコストを下げるかという話しかなかったです」。
店長に依存していたオペレーション形態を見直し、不採算店舗は容赦なく切り捨てていった。父からは「もっとコストを管理しろ」と指令が飛んでくる。削れるところは1円でも削れ、とにかく切り詰めろ、と。
「当時はそれが嫌で嫌でしかたがなかったですね。お客様の満足を得るために最低限お金をかけないといけないところがあるだろうとあれこれ提案しましたが、ほとんど却下されました」。
商品には自信がある。でも経費はかけられない。だったらオペレーションを徹底的に見直し、サービスの質を上げていくしかない。
コスト管理とオペレーションの改善を続けた結果、数年後には売り上げも回復。社員たちに仕事のノウハウや従業員への想い、叱咤激励などを毎日伝え続けていった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
気が付けばこのブログも17年続けています。
ブログ立ち上げてからは「飲食の戦士たち」を少しでも知ってもらおうと続けてきた結果、「飲食の戦士たち」も16年、1,000連載突破しました。
また、キイストンもリクルート卒業後1992年10月22日に設立し、もう直ぐ33年目に突入します。
“継続は力なり”続けてると凡人の組織でも認められていきますね。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジェイアール西日本フードサービスネット 代表取締役社長 貴谷健史氏登場。
本文より~1987年、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化によって生まれた6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などからなる「JRグループ」。各旅客鉄道会社とも中核は鉄道だが、鉄道事業以外にも不動産事業、物販・飲食・サービス事業など多種多様な事業を展開している。
そこで、今回ご紹介するジェイアール西日本フードサービスネットについて同社の概要を伺った。
まずは、JR西日本グループの事業規模というか関連事業について教えてください。
「母体は、北陸地方から関西や中国地方をカバーし福岡まで至る約5000㎞の鉄道網を運営するJR西日本です。グループ会社は165社、うち連結子会社61社で構成され、連結売上高は約1兆6千億円です」。
―具体的には、どんな事業を展開しているのですか?
「コンビニ、お土産屋、カフェ、百貨店などの物販・飲食事業や不動産、駅ビル・ショッピングセンター等の開発・運営、ホテル・旅行などの旅行関連事業などです」。
―こうした多岐にわたる事業のなかで飲食部門を運営しているのが、ジェイアール西日本フードサービスネットなんですね。
「そういうことになります」。
―具体的には、どんな事業内容なのですか?
「5つの事業を展開しています。具体的には『からふね屋珈琲』などのカフェ事業、『麺家』『博多もつ鍋やまや』などのフードサービス事業、駅弁販売や洋菓子店『デリチュース』などのリテール事業、山陽新幹線における車内サービスを行う列車事業。さらに食に関わるテナント事業も展開しています。(2024年3月16日から山陽新幹線におけるサービスの内容を一部変更し、車内販売はグリーン車のみとなっている)
また店舗数は約170店舗で、一例を挙げると新大阪駅には23の「駅ナカ」店舗がある。ターミナル駅には複数の店舗が営業していることを勘案すると、その多さが推測できる。
こうしたJR西日本の駅構内で飲食業を開発・運営する企業を率いる貴谷氏は、どんな人生を歩んできたのだろうか。
「島根県松江市の生まれで、二人兄弟の次男です。実家は食品容器や飲食店の副材料などの卸を営んでおり、幼少期より飲食業には親近感がありました」。
―子どもの頃から剣道をしていたと伺いましたが……
「そうなんです。父親に言われて始めました。しかしながら、特段才能があったとも思えないし、全国でも超一流レベルの才能を持つ人物がその仲間にいたので、付いていくのがそれなりにしんどかったですね」。
「結局は、小学3年生から始め大学まで続けました。単純計算で4+3+3+4ですから14年間ですね」。
中学に入学してからも剣道部に入部したのだが、本人としては剣道一筋、剣道一直線ではなくテニス部に入ろうと思っていたと言う。
「兄がテニス部にいたんです。その姿を見ていたのでテニス部に入りたかったのですが、周りが許してくれずに、結局、剣道部に入部し三年間を過ごしました」。
―高校に進学してからも剣道を続けたとのことですが、剣道が好きだったから?
「好きとか嫌いとかではなく、中学校で剣道部に入部したことと同じで周りが剣道部以外に入部することを許してくれなかったんですよ。その結果、年に3日休みがあるか無いかの部活中心の青春時代を送ることになってしまいました」。
高校時代、念願のインターハイ出場を団体で果たす。そして大学進学。
進学したのは、“杜の都”宮城県仙台市にキャンパスを持つ、一昨年創立115年を迎えた東北大学の経済学部。
「東北大学を選んだのは、『研究第一主義』という少し浮世離れしたコンセプトに惹かれたこと、先生のご意見も踏まえつつ、何かあっても泳がず歩いて実家に帰れる場所ということでした」。
「また数ある学部のなかから経済学部を選んだのは、松江市は県庁所在地ですが、ご多聞に漏れず人口と市内中心部の商業機能の疲弊、衰退に見舞われており、こうした地方都市の惨状を見るにつけ、活性化していくためには経済を知らなければならないと考えたからです」。
今度こそテニス部に入ろうと思ったのだが……。そうは問屋が卸してはくれなかった。またしても剣道部。
「結局、高校時代の剣友全員、剣道に夢中になりすぎて浪人したんです。2日に一度くらいの割合で友達から『剣道を続けろ!』的な内容の電話があり、入らないとまずい、地元に帰ったらハブられると思い結局剣道部に入りました」。
小学校から大学までの貴谷氏の過ごした時間は、剣道と共に在り、剣道抜きには語れない。ただ、必ずしも前向きではないものの剣道を通して学んだことが、多々あったと語る。
―どんなことを?
「まずは明確な目標を持つこと。現実的ではありつつも多少無理目な方が良いのかもしれません。優勝するためにはスポーツ専門の学校に勝たなくてはなりませんが、進学校でしたので周囲の誰もが勝てるとは思っていません。しかしながら、勝負に勝つために弱いながらも考えるんです。どうすれば勝てるか、自身の得意技を磨くとともに団体戦における自らの役割をメンバーと定義・共有化してそれに徹する、毎日繰り返される厳しい基本練習をいかに効果的に行うか、とか。後は運と人間関係。個々人の才能が高ければ勝てるわけでもないんです。調子が良い時もあれば悪い時もあります。そうした時に心身ともに整えてくれるのが剣友達で、今でも年に1回は集まったりしています。後々になって思い出すと、こうした勝利に向けたプロセスを障害無く踏ませてくれた学校やクラスメイト、安定的な生活基盤を提供してくれた両親など、全員に感謝ですね」と総括する。
―その経験は、企業人として有益な経験でしたか?
「弱いながらにして、勝つにしろ負けるにしろプロセスと勝敗に繋がる勘どころが分かるんですね。経営面にとって、物事の成否に繋がるプロセスと要素を知ることは大きいですね」。
貴谷氏は、大学生時代を「人生の夏休みだった」と語る。
―大学生時代を振り返ってみて、どんな時間でしたか?
「ひと言で言えば、自由でしたね、模範生ではなかったですが。ただ、自由って難しいんです。親元を離れ自由で制約がないということは、何もかも勝手、OKということとは違うんです。歯止めが利かなくなって意図しない結果を招いたりします。自らを制御すること、自律することの難しさと重さを学びました。そういう意味で社会人では享受しえない貴重な経験ができたと思います。学問の研究はそこそこに『自由研究』ばかりでしたが。。。まだまだ修行が足りないかなとは思います」。
―アルバイトはなさったのですか?
「ええ、単発バイトを多くやり、印象深かったのはビルの建設現場で働いたことです。木枠に流されたコンクリートの内部に気泡が留まるのを防ぐため、木槌のようなものでひたすら木枠を叩くという作業でした。これも剣道部がらみで紹介された仕事で、叩くのは得意だろうということで集められたと思います。ただ、強く叩き過ぎた結果、全員の木槌が壊れてしまい、結局5階くらいの高さの足場を発電機を持って走り回るという今考えると怖ろしい作業でした。日当が10000円だったんですが、ちょっと詳しくは言えませんが手にしたのは半分でしたけど……。実はボクらが建設に関わったビル、東日本大震災で破損することもなく津波避難ビルとして利用されたんですよ。ちょっとはお役に立ったんですね」。
就職したのは、バブル期真っ最中。世間一般が、バブルの危うさに気づかずバブルに浮かれ酔いしれていた時期だった。
「運動部でしたしバブル期だったこともあり、銀行、証券、商社、メーカー、通信など、“寄らば大樹”ではないですけれど大手企業からの求人がたくさんありました」。
―そうした企業ではなくJRを選んだ、その理由は?
「人の役に立てるリアリティのある仕事がしたかったということですね。それと、就職したのが1990年なんですが、3年前の1987年に民営化されたばかりでしたから、新しいことに向かっている会社という魅力もあったと思います。付け加えるなら実家がある松江にJR西日本の路線があり、何らかの形で故郷に貢献できるのでは、という思いもありました」。
―経歴を拝見していると、京都駅から始まり、グループ会社にも出向されていますが、どのような業務に携わって来られたのですか?
「最初の勤務は、JR京都駅の“みどりの窓口”で出札業務でした。1年後には、鉄道以外の事業を担当する本社の事業本部勤務になり、4年間、事業に関わる制度や駅構内の店舗開発などに従事しました」。
―一度、国の機関へも出向なさったようですが……。
「1995年秋に国土庁、現在の国土交通省に出向し、近畿圏整備法に基づく近畿圏基本整備計画の策定に携わりました。当時の課長補佐が山陰のご出身で、お父上も国鉄に勤務されていたこともありとても良くしてもらいました。当時も“役人”は批判の目に晒されがちでしたが、私が接した人は皆優秀・誠実で、真剣に日本・国家の将来のことを考えていました。マスコミを通じた印象とは大きく異なっていたことを印象深く覚えています。また、東京での生活も初めてのことであり、この時初めて東京と大阪・関西の規模感の違いが分かりました。1997年秋に2年の任期を終え、JR西日本に戻り改組された開発事業本部で職務に就きました」。
―2年後の1999年春には株式会社ジェイアール西日本リーテックス、1年後の翌2000年春には株式会社ジェイアールサービスネット米子に出向されていますが、それぞれ、どのような仕事内容だったのですか?
「当時JR西日本の駅構内で物販飲食業を営むグループ会社は物販・飲食それぞれ2社ずつ計4社ありました。バブル崩壊後の景気低迷と限られたパイを互いが食い合う環境の中、各社とも疲弊しつつあって、JR西日本の駅をご利用になるお客様のニーズに十分お応えできる状態ではありませんでした。それぞれの役割・使命を明確にして、厳しい競争に対応していくため、関西圏においては物販・飲食それぞれ1社に、その他のエリアは物販・飲食の両方を営む5つ会社に統合・分割することとなりました。コンビニを開発・運営する株式会社ジェイアール西日本リーテックスでは同社の統合・分割業務に携わり、株式会社ジェイアールサービスネット米子では、統合・分割により山陰エリアでJR西日本の物販・飲食事業を担うこととなった同社の立ち上げや開発・運営に携わりました。勤務地は実家に近い米子でしたが、ここでの仕事経験が、現在に至るまでのキャリアに繋がっていると思います」。
貴谷氏の出向経験はさらに続く。
「2002年、飲食部門を統括する株式会社ジェイアール西日本フードサービスネットに管理職として出向し取締役経営企画部長・列車事業本部長として事業計画の策定や、車内販売を統括している列車事業に携わりました」。
その10年後の2012年からJR西日本本社の創造本部で5年間勤め、2017年には松江市に本社を構えるJR西日本山陰開発株式会社の代表取締役社長に就任、物販飲食やSC不動産の開発・運営に取り組む。
そして2020年、現在の職場である株式会社ジェイアール西日本フードサービスネットに代表取締役社長として出向。冒頭に挙げた5つの事業に取り組んでいる。
・・・続き
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゴンチャ ジャパン 代表取締役社長 角田 淳氏登場。
本文より~いろいろあった、と言えば怒られるだろうか。
ゴンチャが日本に初めてオープンしたのは、2015年。2018年あたりから空前のタピオカブームが始まり、ゴンチャの前には連日、長蛇の列ができた。
SNSなどを通じたコミュニケーションが盛り上がるタイミングだったことも、ゴンチャにとっては追い風だったにちがいない。スマホで撮影されたタピオカドリンクは、デジタルの世界をかけめぐった。
ただし、第三次と言われたタピオカブームも、やがて終わり、タピオカドリンクのショップも次々、姿を消す。
ゴンチャ ジャパンでも経営者がかわるなど、そういう意味でもいろいろあった。
粥(かゆ)を導入したり、コーヒーを始めたり。ティーカルチャーを標榜するゴンチャ ジャパンが、迷走を始めたと言っていい。その時、現れたのが、今回、ご登場いただくことになった角田淳さん。
じつは、角田さんには2019年の10月に、この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。その時は、サブウェイの代表として。
あの時も低迷し、立ち直り始めた業績を立て直すのが角田さんのミッションだった気がする。もちろん、角田さんの実績は今のサブウェイをみれば明らか。「いまや絶好調だ」と角田さんも笑顔で語っている。
ちなみに、現在は別の事業に携わっていらっしゃるが、当時の日本サブウェイ合同会社の共同代表、鈴木孝尚さんにも「飲食の戦士たち」にご登場いただいているので、興味のある方はコチラをご覧いただきたい。
では、ゴンチャ ジャパンのお話に入る前に、角田さんの生い立ちを、今回はさらりと追いかけてみよう。
角田さんが、生まれたのは1971年。生まれてすぐに父親の仕事の関係でブラジルへ渡り、小学校入学直前まで生活していたそうだ。つまり、南米育ち。
「ポルトガル語、スペイン語、そして、小学校になって初めて日本語をつかうようになります」。
小学生で3ヵ国語を話すことができたんだろうか。まさに、グローバルな小学生である。
校長先生の薦めもあり、中学から静岡の学校に進み、寮生活を開始。ラグビーも始めている。高校を卒業するとアメリカの大学に進学。
もともとグローバルな小学生である。角田さんにすれば、アメリカの大学の進学は日本の地方の大学に進学するのと、そうかわらないのかもしれない。ちなみに、お姉さまは、高校から渡米されている。
アメリカの大学を卒業した角田氏は帰国し、大手自動車メーカーで勤務。その一方で、様々なイベントの企画やマネジメントを行い、スポーツイベントや音楽イベントをプロモートもする仕事を行っていく。
39歳、知人の紹介で、サブウェイに入社。その時、角田さんは「スポンサー側の仕事をしたことがなかったので、一度、経験してみたいと思い、新しい世界に飛び込んだ」と言っている。
そのサブウェイ時代の実績が評価され、ゴンチャ ジャパンの株主たちから、オファーがとどく。
サブウェイとゴンチャ。フードとドリンク。文化ももちろん異なるが、似ているところもなくはない。
消費者がカスタマイズして、つくる。楽しみと同時に、初オーダーだと、とまどいがなくはない。
実際、角田さんも「ポイントカードをお持ちのコアなファンは慣れていらっしゃるので、オーダーのスピードもやはり早いですが、SNSでも時折『オーダーの仕方がわからない』という投稿があり、そういうユーザーは少し時間がかかるようですね」と、おっしゃっている。
もちろん、この「むずかしさ」が「たのしさ」にかわる。これも、おなじ。
もう一つ、サンドイッチとティーと、アイテムは異なるが、新たなカルチャーを日本に広げるというミッションも似ている。
もっともサブウェイに比べ、ゴンチャ ジャパンのあゆみは、まだ10年にもならない。
空前のタピオカブームで業績が加速し、店舗数が拡大。ティーカルチャーがファンの心をつかんだのはまちがいないが、ブームが去った今、業績は、どうなっているのだろう。
つぎに、そんなお話もうかがった。
「現在(2024年5月)の店舗数は約160店舗。私がこちらに来たのは2021年10月ですが、その時は約100店舗でした。2015年の1号店オープンから現在まで、ブームなどもあり業績が上下したのは事実ですが、ゴンチャ ジャパンがオススメする、ティーベースドリンクは、この9年間で、ある一定の定着をみたように思います」。
ゴンチャのファンの多くは、流行に敏感な10代、20代の若い世代。
「この世代は、ゴンチャの文化と一定の親和性がある世代です。カスタマイズした、ティーを楽しむ。若いからこそ、楽しみ方を知っているように思います」。
たしかに、ゴンチャの文化は、「自由に、ティーを楽しむ」こと。それを体現しているのが、この世代。たしかにドリンクをもった若者は絵になる。
じつはタピオカブームの時と比べても、店舗の数は増えているそうだ。ゴンチャが一過性のものでなかった証でもある。
「当面の目標は200店舗です。将来的には、年間の来店数を、4000万人にもっていきたいですね。その時には400店舗が視野に入ってくると思います」。
ただし、数字に縛られない。急ぐこともしない。
「まず、ブランドを360度、確立することだ」と角田さんはいう。対ユーザーだけではなく、クルーのトレーニングや、サプライチェーンの確立など、インフラ整備も行っていかないといけない。
やることは、いろいろありそうだ。だが、就任後の3年間で角田流の改革は大きく前進している。その点についても、うかがっている。
「外部に向け最初に行ったのは、ソーシャルメディアの活用です。ゴンチャが推し進めるティーカルチャーを広く浸透させていくための、方法の一つです。Xやインスタグラムなど、Z世代やα世代を中心に情報を拡散しています」。
角田さんも、日々、SNSのチェックはかかさないという。さすが、もとプロモーター。
その一方、内部に向けては、「我々が大事にしていることってなんだっけ?」と、問いかける。マネージャークラスといっしょに合宿し、話はつづく。
「ゴンチャのハピネスってなんだっけ? それってどういうこと? 新たなものをクリエイトするというより、理念などの再確認ですね。お客様が、その日の、その時の気分で自由にチョイスできる、そういう楽しみをゴンチャは大事にするんじゃなかったっけ? そんな話です」。
「じつは、そのあたりが、ボヤっとしていたんですね。タピオカがブームになったものだから、効率化だけを追い求めて時間がかかるフローズンをやめたり、味のチョイスも、カスタマイズの種類も減らしたりして。なんのために『ハピネス』をうたっているんだっけ? 自由に楽しめる、それがゴンチャの価値だとすると、なんでそれやめちゃったんだろうかって。そういうことを一つひとつ整理していきました」。
原点にもどり、ブレを修正する?
「そうですね。品質にこだわったお茶と、だれもが自分の好みに合ったカスタマイズを楽しめる。ゴンチャの創業者が追いかけ、形にしたのが、このレシピだったんです。それを見失っていたかもしれません」。
「店舗のクルーに対してもおなじことが起こっていました」と角田さん。
「店舗のクルーたちには、髪色のカラーチャートが渡され、ある一定の範囲でしかカラーが許されていなかったんです。それって、おかしくないかって。だって、自由じゃないでしょ。ゴンチャで働く人が、自由じゃなきゃ、ブランドの理念はどこにいっちゃうのって話です。だから、今、カラーチャートはありません」。
ティーカルチャーと、自由。千利休が知れば、どう思うだろう。案外、ゴンチャの空気を気にいるんじゃないだろうか。わびさびを開放した、もう一つの文化。
茶道の対局にある、大衆の文化。もうひとつの茶道が花開くと言ったら、おおげさすぎるだろうか。ともあれ、角田さんとスタッフたちの対話はつづく。
「全体への共有はもちろんですが、定期的にワークショップを行い、キックオフミーティングなども行っています」。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
今期の立てた目標に対しての業績は、スタートの第1Q(4〜6月)は散々でしたが、なんとか第2Q(7〜9月)は皆の頑張りで持ち直してきました。
よしよし!!
下半期かなりは跳ねるため大事な9月となります。
キイストンの本業でもある人材採用ビジネスは変わりませんが、内容は大きく変化してきています。
また、ビジネスの座組みも変化させてきました。
いろんな経験をし苦労してきたからこそ、知恵が湧きます。
苦労してこそ真の成長ありますから、今期は個々の成長に繋がりそう。
今日大学の先輩が、東京出張次いに豊橋からわざわざ会いに来て頂いた。
仕事のスタンス聞いてたら私とよく似てたのでビックリしました。
学生時代は「ホリエ学生ハイツ」という学生アパートの先輩でもありましたが、1年で出て行かれたので入れ替わりに私がその部屋に入りました。
これも不思議なご縁です(笑)
学生時代含めお会いしてたものの、ほぼ話したことなかったですが、今日いろいろ聞けて楽しかったな…。
年齢重ねても、私のポリシーいつも元気発信してることに共感いただき嬉しかったです。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Yクリエイト 代表取締役 森山裕介氏登場。
本文より~人の味覚は3歳の頃までにその土台ができあがるという。「三つ子の魂百まで」のことわざの通り、幼少期の食体験がその人の一生の味覚に与える影響は大きい。多くの場合、家庭内の味覚嗜好は親から子に受け継がれ、そしてまた次の世代へとつながっていく。
その点から、森山氏は恵まれた環境で育ったと言えるだろう。両親ともども水産資源や農作物が豊富な福岡県の生まれ。どちらの家も客人が多く、まとまった数の来客が月に何回もあった。そのたび、家庭の味とはいえ本格的な料理をふるまうことが常だった……そんな背景から、森山氏の両親はどちらも料理が得意であったという。2人は福岡で結婚、第一子となる森山氏の誕生後上京。父は出版社に勤め、母は子育てが落ち着いたあと念願のケーキ屋を開業した。
美味しいものに目がなかった両親のおかげで、フランス料理やイタリア料理、寿司を始め子供のころから外食の機会が多かったという森山氏。しかし、添加物や保存料がふんだんに用いられるファミレスやファーストフード店には、小学校の最終学年まで連れて行ってもらえなかった。森山氏の傑出した味覚は、こうした家庭によって育まれた。
そんな森山氏の愛読書は「美味しんぼ」だ。
「物まねもできるし、セリフの一つ一つまで覚えていますよ。池波正太郎も風情があっていいけど、美味しんぼはロジックがある」。
人生の早い時点で料理の道に進むことを選択した森山氏は、高校1年でプロの世界に足を踏み入れた。森山家行きつけのフランス料理レストランで、夕方4時からキッチンに入り料理の基礎を学んだ。ぐんぐん知識を吸収していく森山氏に、家庭科の先生が教えを乞うこともあったという。高校を卒業する頃には、野菜や魚の下処理だけでなくフォアグラの掃除もできるようになっていた。
高校を終えた森山氏は、調理専門学校へは進まず五反田のフランス料理店に就職した。日本におけるフレンチの重鎮、故・井上旭氏と縁の深い佐藤維哲氏の店だ。
「シェフ=神様だと思っていました。修行ですか?もちろん厳しかったですが、僕はポジティブなんで」。
「今の自分があるのは、当時の自分が頑張っていたおかげ。今の自分は完全にあの頃に出来上がった。そこがぬるかったら今社長はやれていないと思うので、感謝しています」。
佐藤氏の傍でフランス料理の奥深さを学ぶ日々。そうして数年が過ぎた頃、脱サラした父が西麻布に割烹『旬味森やま』を開く。2002年12月のことだった。客単価はおよそ2万円、店主である父の舌が認めた料理は多くの顧客に支持された。
「西麻布という激戦区にオープンして大丈夫かなと思ったけれど、いいお客様に恵まれてうまくやっていたようです。僕はフレンチをやるつもりでこの業界に入ったので、父には『店を継ぐ気はないよ』と言っていました」。
『旬味森やま』の板前が退職したことから、“次の職人を採用するまでの繋ぎ”として店を手伝っていた森山氏に、ある日辛い知らせが届いた。「ちょっとお腹が痛いから」と病院に行った母に、ステージ4のがんが見つかったのだ。「店は友達でもなんでもやとって、なんとかするから2人は治療と看護に専念して」。父の代わりに店の采配を振るうことになった森山氏は、そのまま事業を継承することになった。2007年1月、森山氏が29歳の時だった。
― フレンチの基礎があったから、和食も大丈夫だったんですね? ―
「いや、結構努力しましたね。よく引き算の料理、足し算の料理と言われますが、フレンチと和食はそもそもの基礎がまったく違うので」。
「売上げは安定していましたが、引き継いだ翌年にリーマンショックがあってうちは土地柄関係者が多かったから大変でしたね」。
当初は和食に対するジレンマもあったという森山氏だが、リーマンショックを乗り越えたあたりから和食が面白くなってきたと話す。
「自分の料理としてのアウトプットができるようになった頃から、面白くなりましたね。自分だけが提供できる和食を作れるようになった、自分の世界観や料理感を表現できるようになったところから、和食が好きになりました」。
「ブルゴーニュのワインが、和食にとても良く合うんですよ。でも僕はワイン生産者ではないので、ワインの味を変えることはできない。だからそれに合うように日本料理の味をカスタマイズしていったんです」。
「もちろん日本酒も好きだし、大事にしていきたい。だから『このお造りなら日本酒でベストマッチが出せるよね。これに続く焼き物は日本酒でもいいけど、ピノ・ノワールの赤ワインだったらもっと美味しいんじゃない?』みたいな。料理だけでなく、お酒とのマリアージュやペアリングが面白くなってきたんです」。
和食とワインのペアリングは今でこそ当たり前だが、当時はまだ普及していなかった。吉兆や菊乃井には叶わないものの、ベースであるフランス料理の技術と知識を活かし、自分なりにできることをやってみたところそれがウケたのだそうだ。
「ウケた、というのはでかいですね」。
森山氏の顔に自信にあふれた笑みが広がる。
2011年3月、東日本大震災発生。
原発がメルトダウンするという噂が流れると、東京から人々が離れ外国人も日本を去っていった。『旬味森やま』ではホタテや牡蠣といった食材の入手が難しくなり、毎日築地へ通っても満足できるような食材が手に入らなくなってしまった。
「ミシュランで星を取るような店はまだいいけど、中途半端な割烹は淘汰されると思いました。一店舗しかないのはリスクがあるなと。それでカジュアルブランドの『角屋』を出したんです」。
客単価2万円の高級店と低単価の店を併せ持つことで経営的バランスを取るという、森山氏の戦略は当たった。2012年2月にオープンした『西麻布角屋』は、日本酒を中心に酒と肴を楽しむカジュアルな店で、いわゆる“バル・ブーム”の先駆けであった。そのため当時は“日本酒バル”“和バル”として、雑誌等に数多く紹介されたそうだ。
「“バル”というワードを使いたかったんです。気軽さと使い勝手の良さ、でも日本酒居酒屋ではない店ね」。
ここから森山氏の快進撃が始まった。
・・・続き
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