2024年9月12日木曜日

気が付けばこのブログも17年か・・・・・。

気が付けばこのブログも17年続けています。

ブログ立ち上げてからは「飲食の戦士たち」を少しでも知ってもらおうと続けてきた結果、「飲食の戦士たち」も16年、1,000連載突破しました。

また、キイストンもリクルート卒業後1992年10月22日に設立し、もう直ぐ33年目に突入します。

“継続は力なり”続けてると凡人の組織でも認められていきますね。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン


2024年9月10日火曜日

株式会社ジェイアール西日本フードサービスネット 代表取締役社長 貴谷健史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ジェイアール西日本フードサービスネット 代表取締役社長 貴谷健史氏登場。

本文より~

JR西日本の事業は鉄道だけではない。

1987年、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化によって生まれた6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などからなる「JRグループ」。各旅客鉄道会社とも中核は鉄道だが、鉄道事業以外にも不動産事業、物販・飲食・サービス事業など多種多様な事業を展開している。
そこで、今回ご紹介するジェイアール西日本フードサービスネットについて同社の概要を伺った。
まずは、JR西日本グループの事業規模というか関連事業について教えてください。
「母体は、北陸地方から関西や中国地方をカバーし福岡まで至る約5000㎞の鉄道網を運営するJR西日本です。グループ会社は165社、うち連結子会社61社で構成され、連結売上高は約1兆6千億円です」。
―具体的には、どんな事業を展開しているのですか?
「コンビニ、お土産屋、カフェ、百貨店などの物販・飲食事業や不動産、駅ビル・ショッピングセンター等の開発・運営、ホテル・旅行などの旅行関連事業などです」。
―こうした多岐にわたる事業のなかで飲食部門を運営しているのが、ジェイアール西日本フードサービスネットなんですね。
「そういうことになります」。
―具体的には、どんな事業内容なのですか?
「5つの事業を展開しています。具体的には『からふね屋珈琲』などのカフェ事業、『麺家』『博多もつ鍋やまや』などのフードサービス事業、駅弁販売や洋菓子店『デリチュース』などのリテール事業、山陽新幹線における車内サービスを行う列車事業。さらに食に関わるテナント事業も展開しています。(2024年3月16日から山陽新幹線におけるサービスの内容を一部変更し、車内販売はグリーン車のみとなっている)
また店舗数は約170店舗で、一例を挙げると新大阪駅には23の「駅ナカ」店舗がある。ターミナル駅には複数の店舗が営業していることを勘案すると、その多さが推測できる。
こうしたJR西日本の駅構内で飲食業を開発・運営する企業を率いる貴谷氏は、どんな人生を歩んできたのだろうか。

少年剣士から青年へ~小学校から大学まで剣道一直線。

「島根県松江市の生まれで、二人兄弟の次男です。実家は食品容器や飲食店の副材料などの卸を営んでおり、幼少期より飲食業には親近感がありました」。
―子どもの頃から剣道をしていたと伺いましたが……
「そうなんです。父親に言われて始めました。しかしながら、特段才能があったとも思えないし、全国でも超一流レベルの才能を持つ人物がその仲間にいたので、付いていくのがそれなりにしんどかったですね」。
「結局は、小学3年生から始め大学まで続けました。単純計算で4+3+3+4ですから14年間ですね」。
中学に入学してからも剣道部に入部したのだが、本人としては剣道一筋、剣道一直線ではなくテニス部に入ろうと思っていたと言う。
「兄がテニス部にいたんです。その姿を見ていたのでテニス部に入りたかったのですが、周りが許してくれずに、結局、剣道部に入部し三年間を過ごしました」。
―高校に進学してからも剣道を続けたとのことですが、剣道が好きだったから?
「好きとか嫌いとかではなく、中学校で剣道部に入部したことと同じで周りが剣道部以外に入部することを許してくれなかったんですよ。その結果、年に3日休みがあるか無いかの部活中心の青春時代を送ることになってしまいました」。

仙台へ武者修行(?)の旅に。

高校時代、念願のインターハイ出場を団体で果たす。そして大学進学。
進学したのは、“杜の都”宮城県仙台市にキャンパスを持つ、一昨年創立115年を迎えた東北大学の経済学部。
「東北大学を選んだのは、『研究第一主義』という少し浮世離れしたコンセプトに惹かれたこと、先生のご意見も踏まえつつ、何かあっても泳がず歩いて実家に帰れる場所ということでした」。
「また数ある学部のなかから経済学部を選んだのは、松江市は県庁所在地ですが、ご多聞に漏れず人口と市内中心部の商業機能の疲弊、衰退に見舞われており、こうした地方都市の惨状を見るにつけ、活性化していくためには経済を知らなければならないと考えたからです」。
今度こそテニス部に入ろうと思ったのだが……。そうは問屋が卸してはくれなかった。またしても剣道部。
「結局、高校時代の剣友全員、剣道に夢中になりすぎて浪人したんです。2日に一度くらいの割合で友達から『剣道を続けろ!』的な内容の電話があり、入らないとまずい、地元に帰ったらハブられると思い結局剣道部に入りました」。
小学校から大学までの貴谷氏の過ごした時間は、剣道と共に在り、剣道抜きには語れない。ただ、必ずしも前向きではないものの剣道を通して学んだことが、多々あったと語る。
―どんなことを?
「まずは明確な目標を持つこと。現実的ではありつつも多少無理目な方が良いのかもしれません。優勝するためにはスポーツ専門の学校に勝たなくてはなりませんが、進学校でしたので周囲の誰もが勝てるとは思っていません。しかしながら、勝負に勝つために弱いながらも考えるんです。どうすれば勝てるか、自身の得意技を磨くとともに団体戦における自らの役割をメンバーと定義・共有化してそれに徹する、毎日繰り返される厳しい基本練習をいかに効果的に行うか、とか。後は運と人間関係。個々人の才能が高ければ勝てるわけでもないんです。調子が良い時もあれば悪い時もあります。そうした時に心身ともに整えてくれるのが剣友達で、今でも年に1回は集まったりしています。後々になって思い出すと、こうした勝利に向けたプロセスを障害無く踏ませてくれた学校やクラスメイト、安定的な生活基盤を提供してくれた両親など、全員に感謝ですね」と総括する。
―その経験は、企業人として有益な経験でしたか?
「弱いながらにして、勝つにしろ負けるにしろプロセスと勝敗に繋がる勘どころが分かるんですね。経営面にとって、物事の成否に繋がるプロセスと要素を知ることは大きいですね」。
貴谷氏は、大学生時代を「人生の夏休みだった」と語る。
―大学生時代を振り返ってみて、どんな時間でしたか?
「ひと言で言えば、自由でしたね、模範生ではなかったですが。ただ、自由って難しいんです。親元を離れ自由で制約がないということは、何もかも勝手、OKということとは違うんです。歯止めが利かなくなって意図しない結果を招いたりします。自らを制御すること、自律することの難しさと重さを学びました。そういう意味で社会人では享受しえない貴重な経験ができたと思います。学問の研究はそこそこに『自由研究』ばかりでしたが。。。まだまだ修行が足りないかなとは思います」。
―アルバイトはなさったのですか?
「ええ、単発バイトを多くやり、印象深かったのはビルの建設現場で働いたことです。木枠に流されたコンクリートの内部に気泡が留まるのを防ぐため、木槌のようなものでひたすら木枠を叩くという作業でした。これも剣道部がらみで紹介された仕事で、叩くのは得意だろうということで集められたと思います。ただ、強く叩き過ぎた結果、全員の木槌が壊れてしまい、結局5階くらいの高さの足場を発電機を持って走り回るという今考えると怖ろしい作業でした。日当が10000円だったんですが、ちょっと詳しくは言えませんが手にしたのは半分でしたけど……。実はボクらが建設に関わったビル、東日本大震災で破損することもなく津波避難ビルとして利用されたんですよ。ちょっとはお役に立ったんですね」。

人々・社会の役に立つ仕事に就きたくてJRに就職。

就職したのは、バブル期真っ最中。世間一般が、バブルの危うさに気づかずバブルに浮かれ酔いしれていた時期だった。
「運動部でしたしバブル期だったこともあり、銀行、証券、商社、メーカー、通信など、“寄らば大樹”ではないですけれど大手企業からの求人がたくさんありました」。
―そうした企業ではなくJRを選んだ、その理由は?
「人の役に立てるリアリティのある仕事がしたかったということですね。それと、就職したのが1990年なんですが、3年前の1987年に民営化されたばかりでしたから、新しいことに向かっている会社という魅力もあったと思います。付け加えるなら実家がある松江にJR西日本の路線があり、何らかの形で故郷に貢献できるのでは、という思いもありました」。
―経歴を拝見していると、京都駅から始まり、グループ会社にも出向されていますが、どのような業務に携わって来られたのですか?
「最初の勤務は、JR京都駅の“みどりの窓口”で出札業務でした。1年後には、鉄道以外の事業を担当する本社の事業本部勤務になり、4年間、事業に関わる制度や駅構内の店舗開発などに従事しました」。
―一度、国の機関へも出向なさったようですが……。
「1995年秋に国土庁、現在の国土交通省に出向し、近畿圏整備法に基づく近畿圏基本整備計画の策定に携わりました。当時の課長補佐が山陰のご出身で、お父上も国鉄に勤務されていたこともありとても良くしてもらいました。当時も“役人”は批判の目に晒されがちでしたが、私が接した人は皆優秀・誠実で、真剣に日本・国家の将来のことを考えていました。マスコミを通じた印象とは大きく異なっていたことを印象深く覚えています。また、東京での生活も初めてのことであり、この時初めて東京と大阪・関西の規模感の違いが分かりました。1997年秋に2年の任期を終え、JR西日本に戻り改組された開発事業本部で職務に就きました」。
―2年後の1999年春には株式会社ジェイアール西日本リーテックス、1年後の翌2000年春には株式会社ジェイアールサービスネット米子に出向されていますが、それぞれ、どのような仕事内容だったのですか?
「当時JR西日本の駅構内で物販飲食業を営むグループ会社は物販・飲食それぞれ2社ずつ計4社ありました。バブル崩壊後の景気低迷と限られたパイを互いが食い合う環境の中、各社とも疲弊しつつあって、JR西日本の駅をご利用になるお客様のニーズに十分お応えできる状態ではありませんでした。それぞれの役割・使命を明確にして、厳しい競争に対応していくため、関西圏においては物販・飲食それぞれ1社に、その他のエリアは物販・飲食の両方を営む5つ会社に統合・分割することとなりました。コンビニを開発・運営する株式会社ジェイアール西日本リーテックスでは同社の統合・分割業務に携わり、株式会社ジェイアールサービスネット米子では、統合・分割により山陰エリアでJR西日本の物販・飲食事業を担うこととなった同社の立ち上げや開発・運営に携わりました。勤務地は実家に近い米子でしたが、ここでの仕事経験が、現在に至るまでのキャリアに繋がっていると思います」。
貴谷氏の出向経験はさらに続く。
「2002年、飲食部門を統括する株式会社ジェイアール西日本フードサービスネットに管理職として出向し取締役経営企画部長・列車事業本部長として事業計画の策定や、車内販売を統括している列車事業に携わりました」。
その10年後の2012年からJR西日本本社の創造本部で5年間勤め、2017年には松江市に本社を構えるJR西日本山陰開発株式会社の代表取締役社長に就任、物販飲食やSC不動産の開発・運営に取り組む。
そして2020年、現在の職場である株式会社ジェイアール西日本フードサービスネットに代表取締役社長として出向。冒頭に挙げた5つの事業に取り組んでいる。

・・・続き

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株式会社ゴンチャ ジャパン 代表取締役社長 角田 淳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゴンチャ ジャパン 代表取締役社長 角田 淳氏登場。

本文より~

タピオカブームと、ゴンチャ ジャパンと。

いろいろあった、と言えば怒られるだろうか。
ゴンチャが日本に初めてオープンしたのは、2015年。2018年あたりから空前のタピオカブームが始まり、ゴンチャの前には連日、長蛇の列ができた。
SNSなどを通じたコミュニケーションが盛り上がるタイミングだったことも、ゴンチャにとっては追い風だったにちがいない。スマホで撮影されたタピオカドリンクは、デジタルの世界をかけめぐった。
ただし、第三次と言われたタピオカブームも、やがて終わり、タピオカドリンクのショップも次々、姿を消す。
ゴンチャ ジャパンでも経営者がかわるなど、そういう意味でもいろいろあった。
粥(かゆ)を導入したり、コーヒーを始めたり。ティーカルチャーを標榜するゴンチャ ジャパンが、迷走を始めたと言っていい。その時、現れたのが、今回、ご登場いただくことになった角田淳さん。
じつは、角田さんには2019年の10月に、この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。その時は、サブウェイの代表として。
あの時も低迷し、立ち直り始めた業績を立て直すのが角田さんのミッションだった気がする。もちろん、角田さんの実績は今のサブウェイをみれば明らか。「いまや絶好調だ」と角田さんも笑顔で語っている。
ちなみに、現在は別の事業に携わっていらっしゃるが、当時の日本サブウェイ合同会社の共同代表、鈴木孝尚さんにも「飲食の戦士たち」にご登場いただいているので、興味のある方はコチラをご覧いただきたい。
では、ゴンチャ ジャパンのお話に入る前に、角田さんの生い立ちを、今回はさらりと追いかけてみよう。

ブラジル育ちの、グローバルな小学生。

角田さんが、生まれたのは1971年。生まれてすぐに父親の仕事の関係でブラジルへ渡り、小学校入学直前まで生活していたそうだ。つまり、南米育ち。
「ポルトガル語、スペイン語、そして、小学校になって初めて日本語をつかうようになります」。
小学生で3ヵ国語を話すことができたんだろうか。まさに、グローバルな小学生である。
校長先生の薦めもあり、中学から静岡の学校に進み、寮生活を開始。ラグビーも始めている。高校を卒業するとアメリカの大学に進学。
もともとグローバルな小学生である。角田さんにすれば、アメリカの大学の進学は日本の地方の大学に進学するのと、そうかわらないのかもしれない。ちなみに、お姉さまは、高校から渡米されている。
アメリカの大学を卒業した角田氏は帰国し、大手自動車メーカーで勤務。その一方で、様々なイベントの企画やマネジメントを行い、スポーツイベントや音楽イベントをプロモートもする仕事を行っていく。
39歳、知人の紹介で、サブウェイに入社。その時、角田さんは「スポンサー側の仕事をしたことがなかったので、一度、経験してみたいと思い、新しい世界に飛び込んだ」と言っている。
そのサブウェイ時代の実績が評価され、ゴンチャ ジャパンの株主たちから、オファーがとどく。

サブウェイと、ゴンチャと。

サブウェイとゴンチャ。フードとドリンク。文化ももちろん異なるが、似ているところもなくはない。
消費者がカスタマイズして、つくる。楽しみと同時に、初オーダーだと、とまどいがなくはない。
実際、角田さんも「ポイントカードをお持ちのコアなファンは慣れていらっしゃるので、オーダーのスピードもやはり早いですが、SNSでも時折『オーダーの仕方がわからない』という投稿があり、そういうユーザーは少し時間がかかるようですね」と、おっしゃっている。
もちろん、この「むずかしさ」が「たのしさ」にかわる。これも、おなじ。
もう一つ、サンドイッチとティーと、アイテムは異なるが、新たなカルチャーを日本に広げるというミッションも似ている。
もっともサブウェイに比べ、ゴンチャ ジャパンのあゆみは、まだ10年にもならない。
空前のタピオカブームで業績が加速し、店舗数が拡大。ティーカルチャーがファンの心をつかんだのはまちがいないが、ブームが去った今、業績は、どうなっているのだろう。
つぎに、そんなお話もうかがった。
「現在(2024年5月)の店舗数は約160店舗。私がこちらに来たのは2021年10月ですが、その時は約100店舗でした。2015年の1号店オープンから現在まで、ブームなどもあり業績が上下したのは事実ですが、ゴンチャ ジャパンがオススメする、ティーベースドリンクは、この9年間で、ある一定の定着をみたように思います」。
ゴンチャのファンの多くは、流行に敏感な10代、20代の若い世代。
「この世代は、ゴンチャの文化と一定の親和性がある世代です。カスタマイズした、ティーを楽しむ。若いからこそ、楽しみ方を知っているように思います」。
たしかに、ゴンチャの文化は、「自由に、ティーを楽しむ」こと。それを体現しているのが、この世代。たしかにドリンクをもった若者は絵になる。
じつはタピオカブームの時と比べても、店舗の数は増えているそうだ。ゴンチャが一過性のものでなかった証でもある。
「当面の目標は200店舗です。将来的には、年間の来店数を、4000万人にもっていきたいですね。その時には400店舗が視野に入ってくると思います」。
ただし、数字に縛られない。急ぐこともしない。
「まず、ブランドを360度、確立することだ」と角田さんはいう。対ユーザーだけではなく、クルーのトレーニングや、サプライチェーンの確立など、インフラ整備も行っていかないといけない。
やることは、いろいろありそうだ。だが、就任後の3年間で角田流の改革は大きく前進している。その点についても、うかがっている。

ゴンチャのレシピは、自由に、楽しめること。

「外部に向け最初に行ったのは、ソーシャルメディアの活用です。ゴンチャが推し進めるティーカルチャーを広く浸透させていくための、方法の一つです。Xやインスタグラムなど、Z世代やα世代を中心に情報を拡散しています」。
角田さんも、日々、SNSのチェックはかかさないという。さすが、もとプロモーター。
その一方、内部に向けては、「我々が大事にしていることってなんだっけ?」と、問いかける。マネージャークラスといっしょに合宿し、話はつづく。
「ゴンチャのハピネスってなんだっけ? それってどういうこと? 新たなものをクリエイトするというより、理念などの再確認ですね。お客様が、その日の、その時の気分で自由にチョイスできる、そういう楽しみをゴンチャは大事にするんじゃなかったっけ? そんな話です」。
「じつは、そのあたりが、ボヤっとしていたんですね。タピオカがブームになったものだから、効率化だけを追い求めて時間がかかるフローズンをやめたり、味のチョイスも、カスタマイズの種類も減らしたりして。なんのために『ハピネス』をうたっているんだっけ? 自由に楽しめる、それがゴンチャの価値だとすると、なんでそれやめちゃったんだろうかって。そういうことを一つひとつ整理していきました」。
原点にもどり、ブレを修正する?
「そうですね。品質にこだわったお茶と、だれもが自分の好みに合ったカスタマイズを楽しめる。ゴンチャの創業者が追いかけ、形にしたのが、このレシピだったんです。それを見失っていたかもしれません」。
「店舗のクルーに対してもおなじことが起こっていました」と角田さん。
「店舗のクルーたちには、髪色のカラーチャートが渡され、ある一定の範囲でしかカラーが許されていなかったんです。それって、おかしくないかって。だって、自由じゃないでしょ。ゴンチャで働く人が、自由じゃなきゃ、ブランドの理念はどこにいっちゃうのって話です。だから、今、カラーチャートはありません」。
ティーカルチャーと、自由。千利休が知れば、どう思うだろう。案外、ゴンチャの空気を気にいるんじゃないだろうか。わびさびを開放した、もう一つの文化。
茶道の対局にある、大衆の文化。もうひとつの茶道が花開くと言ったら、おおげさすぎるだろうか。ともあれ、角田さんとスタッフたちの対話はつづく。
「全体への共有はもちろんですが、定期的にワークショップを行い、キックオフミーティングなども行っています」。

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株式会社ゴンチャ ジャパン 代表取締役社長 角田 淳氏

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2024年9月9日月曜日

下半期に向け。

今期の立てた目標に対しての業績は、スタートの第1Q(4〜6月)は散々でしたが、なんとか第2Q(7〜9月)は皆の頑張りで持ち直してきました。

よしよし!!

下半期かなりは跳ねるため大事な9月となります。

キイストンの本業でもある人材採用ビジネスは変わりませんが、内容は大きく変化してきています。

また、ビジネスの座組みも変化させてきました。

いろんな経験をし苦労してきたからこそ、知恵が湧きます。

苦労してこそ真の成長ありますから、今期は個々の成長に繋がりそう。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2024年9月7日土曜日

大学時代過ごした「ホリエ学生ハイツ」の先輩と会う。

今日大学の先輩が、東京出張次いに豊橋からわざわざ会いに来て頂いた。

仕事のスタンス聞いてたら私とよく似てたのでビックリしました。

学生時代は「ホリエ学生ハイツ」という学生アパートの先輩でもありましたが、1年で出て行かれたので入れ替わりに私がその部屋に入りました。

これも不思議なご縁です(笑)

学生時代含めお会いしてたものの、ほぼ話したことなかったですが、今日いろいろ聞けて楽しかったな…。

年齢重ねても、私のポリシーいつも元気発信してることに共感いただき嬉しかったです。


2024年9月3日火曜日

株式会社Yクリエイト 代表取締役 森山裕介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Yクリエイト 代表取締役 森山裕介氏登場。

本文より~

料理好きな両親の下で育つ。

人の味覚は3歳の頃までにその土台ができあがるという。「三つ子の魂百まで」のことわざの通り、幼少期の食体験がその人の一生の味覚に与える影響は大きい。多くの場合、家庭内の味覚嗜好は親から子に受け継がれ、そしてまた次の世代へとつながっていく。
その点から、森山氏は恵まれた環境で育ったと言えるだろう。両親ともども水産資源や農作物が豊富な福岡県の生まれ。どちらの家も客人が多く、まとまった数の来客が月に何回もあった。そのたび、家庭の味とはいえ本格的な料理をふるまうことが常だった……そんな背景から、森山氏の両親はどちらも料理が得意であったという。2人は福岡で結婚、第一子となる森山氏の誕生後上京。父は出版社に勤め、母は子育てが落ち着いたあと念願のケーキ屋を開業した。
美味しいものに目がなかった両親のおかげで、フランス料理やイタリア料理、寿司を始め子供のころから外食の機会が多かったという森山氏。しかし、添加物や保存料がふんだんに用いられるファミレスやファーストフード店には、小学校の最終学年まで連れて行ってもらえなかった。森山氏の傑出した味覚は、こうした家庭によって育まれた。
そんな森山氏の愛読書は「美味しんぼ」だ。
「物まねもできるし、セリフの一つ一つまで覚えていますよ。池波正太郎も風情があっていいけど、美味しんぼはロジックがある」。

高校時代からフランス料理店で修業。

人生の早い時点で料理の道に進むことを選択した森山氏は、高校1年でプロの世界に足を踏み入れた。森山家行きつけのフランス料理レストランで、夕方4時からキッチンに入り料理の基礎を学んだ。ぐんぐん知識を吸収していく森山氏に、家庭科の先生が教えを乞うこともあったという。高校を卒業する頃には、野菜や魚の下処理だけでなくフォアグラの掃除もできるようになっていた。
高校を終えた森山氏は、調理専門学校へは進まず五反田のフランス料理店に就職した。日本におけるフレンチの重鎮、故・井上旭氏と縁の深い佐藤維哲氏の店だ。
「シェフ=神様だと思っていました。修行ですか?もちろん厳しかったですが、僕はポジティブなんで」。
「今の自分があるのは、当時の自分が頑張っていたおかげ。今の自分は完全にあの頃に出来上がった。そこがぬるかったら今社長はやれていないと思うので、感謝しています」。
佐藤氏の傍でフランス料理の奥深さを学ぶ日々。そうして数年が過ぎた頃、脱サラした父が西麻布に割烹『旬味森やま』を開く。2002年12月のことだった。客単価はおよそ2万円、店主である父の舌が認めた料理は多くの顧客に支持された。
「西麻布という激戦区にオープンして大丈夫かなと思ったけれど、いいお客様に恵まれてうまくやっていたようです。僕はフレンチをやるつもりでこの業界に入ったので、父には『店を継ぐ気はないよ』と言っていました」。

フレンチから意図せず和食の道へ。

『旬味森やま』の板前が退職したことから、“次の職人を採用するまでの繋ぎ”として店を手伝っていた森山氏に、ある日辛い知らせが届いた。「ちょっとお腹が痛いから」と病院に行った母に、ステージ4のがんが見つかったのだ。「店は友達でもなんでもやとって、なんとかするから2人は治療と看護に専念して」。父の代わりに店の采配を振るうことになった森山氏は、そのまま事業を継承することになった。2007年1月、森山氏が29歳の時だった。
― フレンチの基礎があったから、和食も大丈夫だったんですね? ―
「いや、結構努力しましたね。よく引き算の料理、足し算の料理と言われますが、フレンチと和食はそもそもの基礎がまったく違うので」。
「売上げは安定していましたが、引き継いだ翌年にリーマンショックがあってうちは土地柄関係者が多かったから大変でしたね」。
当初は和食に対するジレンマもあったという森山氏だが、リーマンショックを乗り越えたあたりから和食が面白くなってきたと話す。
「自分の料理としてのアウトプットができるようになった頃から、面白くなりましたね。自分だけが提供できる和食を作れるようになった、自分の世界観や料理感を表現できるようになったところから、和食が好きになりました」。
「ブルゴーニュのワインが、和食にとても良く合うんですよ。でも僕はワイン生産者ではないので、ワインの味を変えることはできない。だからそれに合うように日本料理の味をカスタマイズしていったんです」。
「もちろん日本酒も好きだし、大事にしていきたい。だから『このお造りなら日本酒でベストマッチが出せるよね。これに続く焼き物は日本酒でもいいけど、ピノ・ノワールの赤ワインだったらもっと美味しいんじゃない?』みたいな。料理だけでなく、お酒とのマリアージュやペアリングが面白くなってきたんです」。
和食とワインのペアリングは今でこそ当たり前だが、当時はまだ普及していなかった。吉兆や菊乃井には叶わないものの、ベースであるフランス料理の技術と知識を活かし、自分なりにできることをやってみたところそれがウケたのだそうだ。
「ウケた、というのはでかいですね」。
森山氏の顔に自信にあふれた笑みが広がる。

バル・ブームの先駆け「日本酒バル」が大ヒット!

2011年3月、東日本大震災発生。
原発がメルトダウンするという噂が流れると、東京から人々が離れ外国人も日本を去っていった。『旬味森やま』ではホタテや牡蠣といった食材の入手が難しくなり、毎日築地へ通っても満足できるような食材が手に入らなくなってしまった。
「ミシュランで星を取るような店はまだいいけど、中途半端な割烹は淘汰されると思いました。一店舗しかないのはリスクがあるなと。それでカジュアルブランドの『角屋』を出したんです」。
客単価2万円の高級店と低単価の店を併せ持つことで経営的バランスを取るという、森山氏の戦略は当たった。2012年2月にオープンした『西麻布角屋』は、日本酒を中心に酒と肴を楽しむカジュアルな店で、いわゆる“バル・ブーム”の先駆けであった。そのため当時は“日本酒バル”“和バル”として、雑誌等に数多く紹介されたそうだ。
「“バル”というワードを使いたかったんです。気軽さと使い勝手の良さ、でも日本酒居酒屋ではない店ね」。
ここから森山氏の快進撃が始まった。

・・・続き

株式会社Yクリエイト 代表取締役 森山裕介氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

株式会社珍来 代表取締役社長 清水延年氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社珍来 代表取締役社長 清水延年氏登場。

本文より~

奥様は、

口を左右に動かす。「奥様は魔女」のサマンサのしぐさ。これで魔法が、かかる。今回ご登場いただいた老舗ラーメン店、珍来の社長、清水さんの大好きなテレビドラマ。バイブルでもあったらしい。
清水さんは1964年生まれ。野球少年で、子ども頃からプロ野球選手をめざしていた。高校でケガをしてあきらめたというが、なかなかいい成績を残している。
新宿区出身だが、阪神ファン。へそ曲がりなんだそう。
「高校は千葉商科大学付属高校に進みます。野球はベスト8が最高」とのこと。ちなみに、中学の時は、成績が悪く、家庭教師を3人つけられていたという。
「大学に進学してからですが、芸能関係の仕事をしたいと思っていて、エキストラの会社に入ります。オファーもいただきました。あるアイドルのTVCMの恋人役の募集があって、3000人だか4000人だか忘れましたが、その中から最終の5人に選ばれたばかりか、プロダクションの副社長にスカウトされます」。
有名な雑誌の表紙を飾ったモデルといっしょにコマーシャルを撮ったこともある。今では有名な役者さんたちとも酒を酌み交わしている。ギャラも悪くなかった、と笑う。
19歳で、ギャラが50万円くらいだったと言うから、悪くない。一般の仕事と比較すると、とんでもなく、いい、となる。しかも、アイドルや、女優ともちかくで話ができる。
「あの頃はすごくモテていました。でも、私には心に決めた人がいたんです」。
<それが、奥様ですね?>
「そうです。反対にもあったけど、22歳で結婚することができました」。
<サマンサと出会い、結ばれたわけですね?>
「そう。もっとも、新婚生活ってどころじゃなかったんですが(笑)」。

セリカダブルXの代償。

「セリカダブルXのせいなんです」と、清水さんは笑う。話をうかがうと、たしかにとも思うが、それが運命だった気もする。
「当時はね。車がステイタスだったんです。私も大学に入るなり、免許を取って、祖父に車を買ってもらいます」。父親から、「おじいさんに買ってもらえ」と言われたらしい。
「祖父にお願いしてみたら、二つ返事でOKだったんです。その時点で怪しまないといけなかったんですが、そういうもんかって、思い込んでいたもんですから」。
後日、納車の報告に行くと、お祖父様は一言、「そうか、じゃぁ、あしたから製麺所ではたらけ」とおっしゃたらしい。
「完全に嵌められた」と清水さん。
「祖父はむちゃくちゃ怖いから、文句は言えません。仕事は、朝の4時から9時まで。休みは水曜のみ。セリカはガレージから動きません」。
一度、9時まではたらくと1限目にでられないと祖父に懇願したそうだ。その返答がシャレている。「仕事と学校のどっちが大事なんだ?」
大学生の孫は、色褪せていく学生生活を思い浮かべていた。
「うちは祖父は製麺所を経営していました。珍來製麺所を創業したのが、1928年で、のちにラーメン店の経営も始めます。私が仕事をすることになったのは製麺所です。朝のうちにつくった麺を配送しなければなりませんから、製麺所の作業は深夜から始まります。だから、私の仕事が朝4時スタートだったんです」。
策略にハマり、スタートした仕事だったが、手を抜かない。
「当時は、機械がないですから、手作業です。数もけっこうあって」。
指は膨れ上がったそうだ。
コマーシャルなどの仕事と、麺づくり。若者が選択するとしたら、前者だが。清水さんは違った。「学生ですからね。出版とか、デザインの世界へとも思っていたんですが」。
サマンサの笑顔には、勝てなかった。

結婚、しかし、ハードワークは、つづく。

「うちの爺さんは、お金などにルーズなところもありましたが、事業家としては尊敬できる人でした。じつは、いったん倒産するんですが、60歳から不死鳥のように復活します」。
<すごいエネルギーですね?>
「ですね。祖父の前では、家族もみんなタジタジです(笑)」。ちなみに、お祖父様は90歳でお亡くなりになるまで、げんきハツラツでおられたらしい。
「ただ、祖父のお金にもルーズなところが、うちの父親に遺伝します。うちはうちでラーメン店を経営していたんですが、父親は店に立つこともなく、すべて母親、任せです。祖父といっしょで博打も好きで、お金がなくなると、店に来て、レジから金をもっていくんです。そりゃ、喧嘩にもなります」。
「父親は2人兄弟で、次男です。長男、私にすれば叔父ですが、叔父もラーメン店を経営しています。祖父が亡くなったとき、私に社長をしろ、と言ったのもこの叔父です。父親がなんでオレじゃないんだって文句を言っていました。あとで会長になって黙るんですが」。
幸福な家庭は、ブラウン管の中だけ。
「だから、憧れていたんですよね。サマンサに。でも、結婚しても、新婚当時はサマンサのようにはしてやれなかったですね」。
とにかく、麺づくりがいそがしい。ハードワークで、休みもない。結婚はできたが、結婚生活はちゃんと送れない。「妻からすれば、結婚して、こちらに1人で来て、頼りの夫が深夜いないんです。そりゃ、さみしい。でも、文句も言わずに頑張ってくれました」。
奥様は、魔女ではなく、天使のような人だった。

ふたたび、珍来で。

少し整理する。清水さんは、大学を卒業してからもほかの職につかず、祖父が経営する製麺所で勤務する。卒業と同時に結婚。製麺所には、けっきょく、大学4年間と、卒業してからの2年間、合計6年間いた。
「一度、仕事漬けの日々だったもんですから、頭もおかしくなりかけて、それで、祖父と喧嘩をして、珍来をいったん離れます」。
初めて一般の企業に勤め、サラリーマン生活を楽しんでいたが、母親から帰ってきてくれ、と懇願される。
「祖父は直営で11店舗、ラーメン店を経営しています。うちのラーメン店は別で、父親が仕事をしないので、母親が切り盛りしているのはさきほどお話した通りです。その母親からのヘルプです」。
<いやとは言えないですね?>
「そうですね。イヤとはさすがに言えません。ただ、この時、初めて店にちゃんと立って仕事をするんですが、そのおかげで、製麺以外の仕事をマスターすることができました」。
今の珍来のレシピも、すべて清水さんが、再構築してできたものだ。「私にすれば、ラーメンの修業です。むちゃくちゃたいへんです。こっちは頑張っているのに、父親がふらっと来ては、レジからお金をもっていきますからね(笑)。じつは、給料だってまともにでたのは、数回です。たいてい1~2週間遅れ。そりゃ、妻はたいへんだったはずです」。

・・・続き

株式会社珍来 代表取締役社長 清水延年氏

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