in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社かんなん丸 代表取締役社長 野々村孝志氏登場。
本文より~野々村少年だった時の話。
「小学校は8クラスくらいだったかな」と野々村さんはいう。遠い昔の話である。野々村さんは、コロナ禍に白羽の矢が立ち、2022年9月に「かんなん丸」の代表取締役社長に就任されている。
株式会社かんなん丸とは埼玉県を中心に「庄や」などの飲食店を展開し、東証スタンダードに上場している外食企業である。主力は「庄や」のメガフランチャイジー事業だが、2018年にオリジナルブランドの「大衆すし酒場じんべえ太郎」をリリースしたほか、女性専用AIパーソナルトレーニングジム「ファディー」のフランチャイジーに加盟するなど、飲食以外の事業にも参入している。
今回のインタビューは2024年6月に行ったので、野々村さんが代表取締役社長に就任されてからはやくも2年ちかくが経っている。
冒頭の通り、小学校の話をすると「もう遠い昔の話ですね」と言いながら、その昔の話をしてくださった。「私は、大阪の住之江出身です。大和川という大きな川があるんですが、そのちかくの市営住宅で暮らしていました。小学生の時には、クロールで府や市の大会に出場しています」。
<運動神経がよかったんですね?>
「でも、中学になってバレーボールを始めるんですが、9人制が6人制になって、剣道に転向しました。どうしてってですか? 背丈が、ぜんぜん高くならなかったんです(笑)」。
<勉強のほうがいかがでした?>
「割りといいほうだったんじゃないかな。塾にも行っていましたしね」。
当時は、塾に通っているこどもは少なかったはず。経済的にも恵まれていたんですね?と話をふると、「じつは、その頃、親父が勤めていた会社が倒産しているんです。でも、私らに心配はかけまいと思っていたんでしょうね」。
塾を辞めることもなかったそう。ちなみに、お父様は、普段あまりものを言わないが、「怒らせたら怖いタイプ」だそう。野々村さんはどうなんだろう。
ラグビーと野々村青年。
「私が、中学3年の時に札幌オリンピックが開催されて、TVでアイスホッケーを観て、あれに惹かれて、たまたまですが、アイスホッケーのある高校に進みます。ただ、『そもそも練習できるところがない』という話を聞いて入部することなく、断念しました」。
<それでラグビーですか?>
「そうなんです。ラグビー部の練習を観ていて、友達もやるというので一緒にラグビー部に入部します。昔から、ある意味、主体性のないタイプだったんでしょうね(笑)」。
「たまたまですが、私らの代がつよく、府大会でベスト8まで進みました。私のポジションは、フォワードです」。
「進学校だったが、校則が緩く、私服をいいことに学校を抜けだしたこともある」と笑う。1970年代、少年たちが今よりずっと自由だった頃。
「ただ、そんなことをやっているもんだから、勉強がおろそかになって、大学受験は全落ちです」。
しかも、予備校も2校、落ちている。
「なんとか堺にある予備校に受かって、浪人生活がスタートするんですが、今風にいうと、浪人生のあるあるで、マージャンを覚えてしまって(笑)」。
<それはまずいですね?>
「ほんとにそう。それでも、なんとか、合格できました」。
<慶応義塾大学ですよね?>
「そうです。関西の大学も合格したんですが」。
<もちろん、ラグビー部ですか?>
「ハイ、そうです。最終的に1.5軍くらいで、レギュラーにはなれませんでしたが、貴重な体験だし、なによりいい思い出ですよね」。
ラグビーとサントリー。
ラグビー部の地方出身者は、「日吉の寮とだいたい決まっていた」と野々村さん。「夏に山中湖に合宿に行くんですが、地獄の合宿と言われていて、徹底的に鍛えられます」。
肉体も精神も。
「朝6時に起きて1時間走って、昼の練習、夕方の練習と3部制でした。今となっては、やり抜いたことが、自信にもなっています」。
「2年の秋くらいに肩をけがして、3年生の半分くらいは棒に振った感じ」とちょっと悔しそうにいう。
「就職は大阪にもどる予定で、大阪ガスに内定をいただいていたんです。でも、サントリーにいたOBから、ささかやれるんです。『サントリーに来たら、酒がただで飲めるよ』って」。
<反則級のお誘いですね?>
「そう。それと、サントリーにはラグビー同好会があって、ちょうど部をつくるタイミングだったんです。だから、私もじつは創部のメンバーの1人なんです」。
「17時半まで仕事をして、19時から練習、そういうスケジュールでした。私は、入社後、物流部に配属されます。輸入の通関業務を3年間経験しました。ラグビーは5年間つづけます。創部したばかりだったので、いちばん下の3部からスタートです。3部になると、同好会も多くて、私はウイングだったもんですから、けっこうトライをあげています」。
応援もたくさん来るので、モテたと、野々村さん。じつは奥さんも、そのときラグビーを観戦し、黄色い声援をあげておられたそうだ。
29歳が、六本木の会員制のナイトクラブの総支配人に就任する。
「ラグビーを辞めてから、六本木の会員制のナイトクラブに出向します」。130坪くらいあったというからかなり広い。営業はPM6時~AM3時迄。野々村さんの肩書は、「常務取締役総支配人」だった。
在籍したのは、1986年から7年間というから、いちばん日本が熱い時を知っている。
「ナベプロとサントリーが共同経営しているようなクラブで、芸能人や政財界の方がよくいらっしゃいました」。
バンドの演奏があり、演奏が始まると、ダンスホールで、ダンスが始まった。
「このとき、経理や会計を叩き込まれた」と野々村さん。
野々村さんは、いう。
「1000円だったチップが、バブルで1万円になり、その後、500円になった」と。まさに、バブルの前後を経験している人の一言だ。
「会員は3000人くらいいらっしゃいました。私は、常務取締役総支配人です。サントリーから唯一の出向者でした。おかげでご挨拶程度ですが、大企業の社長さんや、今や大企業の社長になられている当時は部長クラスだった方々とか、著名な政治家や、芸能人の方々と、お話もさせていただきました」。
若干29歳。そこだけなら、贅沢な経験だ。
ただ、苦労もした。
「50代のマネージャーと何度もぶつかりました」。ただし、それも含めていい経験だったにちがいない。
<そのあと、ダイナックにも出向されていますね?>
「そうです。IRや経営企画がメイン業務でした。結局ダイナックには、11年いたのかな」。野々村さんに、人生で大変だったのは? と質問すると、ダイナック時代を挙げられた。
「ダイナックにも、古い体質が残っていました。私は、なんとかしようと取り組むんですが、バックヤードですから、そこから営業を含めた全体を改革するのが、大変でした」。
じつは、このときに転籍をしている。
「様々な改革を進めるなかで、常務になりました。上場も進めていたんですが、上場するのに常務の私が出向者だとまずかったんです」。
サントリーを退職し、ダイナックの専務となっている。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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