2024年10月1日火曜日

株式会社とんでんホールディングス 代表取締役社長 駒場雅志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社とんでんホールディングス 代表取締役社長 駒場雅志氏登場。

本文より~

日債銀に就職するまでの話。

1959年、生まれ。
サッカーが盛んな浦和で過ごしたこともあって、小学校からサッカーを始め、中学でも、同様にサッカーをつづけている。皇帝ベッケンバウアーが、日本でも人気があった頃の話。
「1970年代ですから、サッカーをする少年は少なかったですね。私は一時、サッカーが盛んな浦和に住んでいたので、縁があった。ただし、サッカーは中学までで、それ以降はスキーです。スキーは親父が好きだったので、私も大好きなスポーツでした」。
ちなみに、お父様は銀行員。
「当時は土曜も仕事で、休みは日曜だけだったのに、時間をつくってよく連れていってくれたな、と今になって感謝しています」。
駒場さんも、いそがしかったにちがいない。
中学受験。
「慶應義塾大学の付属中学に進み、大学まで、おなじ慶應です」。
「個性的でユニークな友達ができた」と目を細める。もうウン十年も前の話だが、今も付き合いのある友達も少なくないそうだ。
「経済的に恵まれた子どもたちがやはり多かったですね」。
大学を卒業したあと、駒場さんは、日本債券信用銀行(日債銀)に就職している。日債銀とは、かつて日本にあった金融機関の一つである。バブル経済の崩壊で、破綻に追い込まれていたが、そのDNAは、現在の「あおぞら銀行」に引き継がれている。

官庁へ出向、頭取秘書、そして、経営破綻を経験。

その銀行時代の話もうかがった。
「印象に残っているのは、大きくふたつで、うち一つは当時の運輸省、今の国土交通省ですが、そちらに出向し、官庁の方々と一緒に仕事をさせていただいたことでしょうか」。
「違う飯を食べた」と駒場さん。
気おくれする性格ではなかったが、周囲は東大卒だらけ。省内は、まさに不夜城だったそうである。「深夜の3時、4時まで仕事がつづき、いったん帰宅して、また戻るといった生活です。仕事の針がまわりつづけるような、そんな世界でした」。
そのとき、駒場さんたちが行ったプロジェクトは今もかたちを残している。
「当時、東京の電車って、殺人的なラッシュだったんですね。その緩和もテーマの一つでした。鉄道事業者の方々とも会話して。じつは、あの時に、提案して実践したことが色々あって、例えば電車の開閉するドアの幅を広げていることです。ドアを広げることで、乗降がスムーズになるだろう、と」。
これが30歳、ちょい前のこと。駒場さんは日債銀からは、初の運輸省への出向者。銀行に戻った駒場さんは、しばらくして頭取の秘書に抜擢される。「これが、印象に残っているもう一つです。18年の銀行マン生活のなかでは、短い時間でしたが、頭取のちかくで仕事をさせていただいたことはとても財産になっています。色々と教えてくださった頭取には感謝です」。
庶民からすれば、大銀行の頭取といえば、雲の上の人。ある意味、大臣たちより、はるか上空の世界に住んでいる。話を伺って、TVドラマ「半沢直樹」が頭に浮かんだ。それくらい、フィクションの世界。
駒場さんもさぞ異次元の世界を体験されたことだろう。
「気遣いの仕方とか、しきたりや暗黙のルール、経営者としての心構えなどもありました。ただ、大変だったのは、このあとですね」。
勤めていた日債銀は、1998年12月に経営破綻し、一時国有化される。企画部に在籍していた駒場さんは、この処理に奔走している。
書類を抱え、所轄官庁に急いだこともある。時計は深夜の12時を指していた。

銀行を退職、飲食へ。

「色々な道があったのは、たしかです」。18年間勤めた銀行を卒業した駒場さんは、外食企業に転職する。
<飲食とは思い切った選択ですね?>と投げかけると、「コンサルなども頭にありましたが、今度は、事業会社に転職したかったんですね。ITの黎明期でもあったんですが、それと比較しても、食はわかりいい。経験がなくても、旨いかどうかはわかりますからね」とシンプルな回答。
新たな会社で6年勤め、不動産会社を経て、コメダ珈琲店を展開する「株式会社コメダ」に転職している。いずれも、経営者のちかいところで経験を積んでいる。「コメダ珈琲店」では、一時期、社長も経験している。つぎの社長が決まるまでのワンポイントリリーフだったそうだ。
「コメダ時代は、名古屋には単身赴任で10年半いました」。
「コメダ珈琲店」については今更、語るまでもないだろう。じつは、この飲食の戦士たちにも、歴代の社長にご登場いただいている。
当時抱いた「コメダ珈琲店」の印象についてもうかがった。
「お話をいただいた時は、面白い会社だなという印象でしたね。もちろん、創業者ともお話させていただきました。当時は、まだ個人商店時代の面影が残っていたように思いますが、そのぶん、組織化するだいご味もある。そういう意味でも面白さを感じました」。
直営店は数店舗で、大半がフランチャイズ店。駒場さんは、本社で経営の舵をとる。経営企画、広報、IRと豊富な経験をもつ駒場さんは、オールマイティに活躍されたにちがいない。ただ、転職した当時の仕事は16時まで。「超ホワイトですね。16時になるとピタリと終了。残業一切なし、オフィスからでてけ、ですから、ロックアウトですね(笑)」と笑う。
「とにかく、無駄なことにお金をかけないんです。冷房だって、なかなかかからない。だから、みんなうちわ片手に仕事です(笑)」。
<銀行時代のお話と比べると16時終了というのは、天国ですね?>
「そうですね。創業者は、食べ歩きもお好きで、私も食べるのは大好きでお供をしたこともあるんですが、なにしろ16時でしょ。私にすればまだお昼です。食事をして、お見送りしても、まだ19時。宵の口です(笑)」。
銀行時代と比べると、いわば別世界。どんな世界が、広がっていくんだろう?

「コメダ珈琲店」退職、新たな舞台は北海道生まれの「とんでん」。

「コメダ珈琲店は、カフェと比較すると、たしかに昔ながらの喫茶店。シアトルコーヒーでも、スターバックスでも、タリーズコーヒーでもない。ただし、ファンも少なくない。じつは、私も、ファンの1人。スマホを手放し、用意されている新聞や雑誌を手についつい長居してしまう。カフェではこうはいかない。
さて、駒場さんは、やるべきことはすべてやったと「コメダ珈琲店」を卒業する。
新たな舞台は「とんでん」。10年と半年にわたる「コメダ珈琲店」生活と同時に単身赴任にも終止符を打つ。転職の理由の一つに「自宅のある東京をベースに仕事をしようと思った」ことを挙げている。
「とんでん」に、転職したのは2019年。60歳の時。
「現会長、当時は社長ですが、なんどもお話させていただいて、『この人となら』というのが、『とんでん』を選択させていただいた理由です」。
ポストは、副社長。転職して、すぐにコロナが襲う。「だれも、わからない未知の世界ですよね。私どもも、どん底の数字になりました」。
経験則が、何一つ通用しない。こういう時は、人間力が問われるのだろう。
「会長が先頭に立ってくださってね。私も、転職したばかりでしたが、会長に従って奔走しました。逃げだすわけにはいきません。『とんでんは、郊外型だから影響は少なかっただろう』という人もいますが、都心型も、郊外型もいっしょです。テイクアウトのバラエティを広げるなど工夫を重ねて、なんとか、なんとか」。
2人して、ピンチを経験したから尚更だろう。
「現会長とは、もはや、阿吽の呼吸で物事を進めていける」という。
社長になったのは2024年4月。インタビューさせていただいたのは、社長になられてまだ数ヵ月の時。
コロナも落ち着き、飲食には、新たな世界が広がっていく。名店「とんでん」はどうなっていくんだろう。これからは、駒場さんのハンドリングにかかっている。

・・・続き
株式会社とんでんホールディングス 代表取締役社長 駒場雅志氏

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株式会社あっぷるアイビー 代表取締役 丸田剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社あっぷるアイビー 代表取締役 丸田剛氏登場。

本文より~

ファミリーレストラン、全盛期。長野にもファミリーレストランが誕生する。

「新潟・富山・長野にある、ローカルなファミリーレストランです」、と今回ご登場いただいた丸田さんが24歳の時を振り返る。
「創業は1952年で、私が24歳の時には43店舗くらいの事業規模だったと記憶しています」。大学を卒業した丸田さんは、大学があった仙台の会社に就職する。「家業を継ぐ」という思いはなかったそうだ。
ちなみに、丸田さんの出身は長野。むろん、実家も、会社も長野にある。
「あれは、私が小学1年生の時ですね。父がファミリーレストランをやりたいと言い出します」。
丸田さんが小学1年生といえば、1974年。「すかいら~く」をはじめ、多くのファミリーレストランが台頭する頃である。1970年代初頭には、「マクドナルド」や「ケンタッキー・フライド・チキン」といった黒船も上陸している。
「かすかな記憶なんですが、父に連れられて、私も東京にある『すかいら~く』さんの1号店に行き、食事をしています。当時のファミリーレストランのいきおいはとにかくすごかったですね」。
「父がやりたがったのも、わからなくない」と丸田さんは、いいたげ。とにかく、お父様は事業意欲が旺盛な人だった。

アメリカ仕込みの飲食ビジネス。

丸田さんは1969年12月生まれ。第二次ベビーブームのはしりで、小学校は45人のクラスが7つあったそう。授業参観ともなれば、教室に入りきれない保護書が、廊下にあふれかえったそうだ。
「もともと祖母が飲食店を創業し、その店を継ぐのがいやだった父が洋食屋をめざしたのが、今の『あっぷるアイビーグループ』の始まりです」。
とくに、厳しい時はなかったと、丸田さん。
「実際には、山も谷もあったんでしょうが、子どもの私たちは、そういうのを感じたこともなかったですね。比較的裕福だったようには思います。外食に行く機会もかなり多かったですから」。
丸田さんは、小学校では、野球。中学、高校とテニスをやっている。高校で日大系の私学に進み、大学は遠く、仙台の工業系で学んでいる。
「大学を卒業した私は、そのまま仙台の会社に就職します。当時、家業を継ぐことは頭になかったですね」。ただ、24歳、実家に戻るようにと言われる。
その後、丸田さんは、アメリカに渡り、アメリカで1年、飲食ビジネスを学んでいる。
「私が24歳の時、戻ってくるように言われ、アメリカに父の命令で向かいます。アメリカでの最初の3週間は、語学というか言葉の勉強ですね。少しずつ会話ができるようになって、行動半径も広がります」。
この1年間は、丸田さんにも大きな財産になったはずである。なぜならアメリカ仕込みの飲食ビジネスが、丸田さんの飲食人生のコアの一つになっている気がするからだ。

長野オリンピックでの父の選択。

「それから数年して、長野オリンピックが開催します。父が他界する年です。じつは、うちだけじゃないんですが、様々なオファーがありました。うちの場合は、スキーのナショナルチームの選手、コーチが利用するので、『1ヵ月、店をまるっと借りたい』とオファーがありました」。
<すごいですね?>
「ええ、光栄なことですね。しかも、利益率が高い。つまり、儲かる。だから、私はやりたかったんですが、父に一蹴されてしまうんです」。
お父様は、「利益がどうこうの話じゃないだろう。うちを使ってくださっている地域の人たちが利用できなくなるじゃないか。海外のレストランになりさがってどうする!」と言われたそうだ。
至極真っ当な話だが、一蹴する、お父様が素晴らしい。地域を愛する経営者の強い意思が浮かび上がる話である。
「あの時ですね。父を親ではなく、1人の経営者として認識し、リスペクトするようになります」。
つまり、経営者かどうか。その違いが、2人の違いに表れたといっていいのではないだろうか。
まだまだ、父から学ぶことがある、と丸田さんは思ったはずだが、だが、その父親が他界する。突然だったこともあって、準備はできていないまま、丸田さんが事業を継承することになる。

バトンを受け、継承する事業と理念。

「組織の体制も改めました。当時の店舗数は44店舗です。『チーズドール』のフランチャイズも行っていた叔父にサポートしてもらって、事業を進め、数年後には関連会社を吸収合併して1社にまとめました」。
年表でまとめてみると、「チーズドール」のフランチャイズ展開をスタートしたのが、1966年。1977年には、ファミリーレストラン「あっぷるぐりむ」1号店をオープン。1988年には、「焼肉のバーンズ」の前身となる焼肉レストランの展開を開始。1994年には、イタリアンレストラン「ピッツェリア」をオープンしている。
これらの店舗が44あったということ。
丸田さんが、1社にまとめたというのは、2004年のこと。 株式会社あっぷるぐりむを吸収合併し、株式会社あっぷるアイビーに商号変更。本社を須坂市に移転している。
父親同様、丸田さんも事業意欲が旺盛。2000年には、やきとり居酒屋「きらび本店」をオープンし、2003年には、エスニックレストラン「Sawasdee Cafe(サワディカフェ)」の展開を始めている。
その後も、ケーキ工房「スイートアージェ」や「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」にフランチャイズ加盟、また、新ブランド「超!焼肉食堂まるとみ」を開店するなど、精力的に事業を拡大している。
ただ、株式上場を視野にいれているか、との質問には以下のようにも言っている。
「父は考えていたでしょうね。でも今は規模拡大より、内部の充実を重視してます」。

・・・続き

株式会社あっぷるアイビー 代表取締役 丸田剛氏

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