日本フードサービス協会創立50周年記念式典&パーティーに参加しました。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トラスパレンテ 代表 森 直史氏登場。
裕福だった。
武蔵野美術大学を卒業し、東京大学大学院に進んだという異色の経歴をもつお父様は、美術大学出身とは結びつかない不動産業を営んでおられた。時はバブル。不動産バブルに乗った会社は絶好調。大盤振る舞いの日がつづく。
ところが、バブルが弾けて事情は一転する。
森さんが、中学3年生の時の話。
「自宅もなくなり、一家は散り散りです」。動揺して何もできない。
「父は、能天気な人で頼りにならなかった」と森さんは笑う。自分が率先して動かなくてはいけなかった。住む場所がなく、母方の親戚の家で暮らしていたそうだ。
「あの時は、多くの親戚の方に迷惑をかけた」と森さんは苦笑する。
森さんが中学1年だから、1992年の話。バブルが崩壊する、まさに、その時。
森さんは1979年に東京で生まれている。
「勉強もまぁまぁできましたが、とにかく足が速かった」と、小学生の頃の話を聞くと、そういう回答。校内で1位。地元の大会でも、つねに先頭でゴールを駆け抜けた。
学校が終わると、父親の会社に遊びに行った。20人くらいの従業員がいたというから、さぞ可愛がられたにちがいない。
「小学生の頃は、不動産会社って面白そうだなって思っていました」と森さん。
そういうこともすべてひっくるめて反転する。
「高1の頃からファミレスでアルバイトをしていました」。「はたらくことが性に合っていた」という。ファミレスのほかに、父の仕事関連でアルバイトもした。ペンキ、内装、外壁塗装。こちらも案外、面白かったといっている。
高校になって親戚の家から離れ、父親が借りたビルで2年ちかく暮らしている。そのビルもある日突然、十数人が現れてすべての家財が差し押さえられ、出なくてはいけなくなった。まさに、波瀾万丈。ただ、そのなかで、小さな芽が育ち始める。
その昔、家族みんなで食卓を囲んだ、そのシーンが映像になる。バイト先のファミレスでテーブルを囲む家族を観て、森さんは、微笑んでいたにちがいない。
森さんは、そういう人。
「高校を卒業して、調理師免許を取得できる専門学校に1年半通います。その後、ホテルに就職してケーキのセクションではたらきます。ケーキには興味がなかったんですが、やってみると案外、楽しい」。
ただし、料理人になるという志を捨てきれず、イタリアレストランに転職。ケーキを担当しながら仕込みもサポートした。
「でもね。向いてなかった。いのちを奪うような作業が苦痛だったんです」。「前菜は、楽しかったんですけどね」と苦笑する。
ただ、ケーキと覚悟が決まったのは、その後。
「ある日、先輩に『森は、ケーキなら偏差値60くらいある』って言われたんです。『ただね。63あたりからレベルを上げるのが難しくなるよ』って」。
まっすぐな青年を動かすシンプルな言霊だった。
「あの一言で、ケーキで行こう」と。
まだまだ極める価値があると思ったに違いない。
これが、森さん、22歳の時の話。
「父親をみていましたが、サラリーマンにはなりたくなかったですね」。お父様を観られていて、怖くはなかったですか?と重ねて、不躾な質問をすると、「いいえ」ときっぱりと否定する。
そして、「20歳の時には、店名まで決めていた」という。
朝5時に家をでて、深夜2時に帰宅する。そんな生活がつづいた。じつは、森さんは早くに結婚している。ほぼ自宅にいなく、奥様にも負担をかけてしまった。
「精神的に負担をかけたこともあって生活をかえないといけないと思って。私自身の仕事も一区切りついたタイミングだったので、思い切ってイタリアに渡ります」。
お金が潤沢にあったわけではない。片道キップ。「向こうで仕事をしないと、帰国もできなかった」と森さん。幸い、すぐに仕事はみつかった。
「2人ともイタリアに渡りました。妻は語学学校にいって、私も仕事がみつかります」。
厨房に入るといきなり「ショーケースに並べるケーキをつくれ」と言われたそうだ。仕事のことなら言葉もわかる。パティシエ森のケーキが、イタリアで初披露され、ショーケースを飾る。
イタリアでの生活はいかがでしたか?とたずねると「生活環境も変わり、私自身も仕事ができたんで悪くはないというか。けっきょく、4年ちかくイタリアで生活をします」。
たいへんなことはなかった?
「そうですね。ある時フィレンツェの2つ星レストランのシェフが声をかけてくれたんです。『ボローニャに新店をオープンするから手伝ってほしい』って。それでボローニャに行くんですが、工期が半年ほど遅れて無職になってしまいました。あの時は、たいへんと言えばたいへんでした。観光地のボローニャは、その頃、閑散期で仕事がありません。だから、皿洗いをしていたんです」。
ブラジル、パキスタン、インド、さまざまな国の人が居た洗い場は、異国の世界。
「とにかく、たいへんな世界でしたね。差別もあった」。
森さんが「これを乗り越えたら、もうなにも辛くない」と思ったくらいだから、相当、きつい差別と、狡猾な世界だったんだろう。それでも、森さんは下を向かない。
・・・続き
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鈴木チャンピオン 店長:鈴木昌平氏(オーナー鈴木おさむ氏)登場。
「小学6年生で100キロあった」というから、たしかに巨漢。「当時は背も高かった」と今回、ご登場いただいた<メシ酒場「鈴木ちゃん」奥目黒>の店長、鈴木さん。
インタビューに同席してくださったオーナーの鈴木おさむさんは、苗字が同じ鈴木さんのことを「昌平」と呼ぶ。
それにならって、店長を「昌平さん」、オーナーの鈴木さんを「おさむさん」と表記させていただくことにする。ちなみに、おさむさんは現在TOC向けファンド「スタートアップファクトリー」の代表を務める鈴木おさむさんである。
「私は大阪の箕面出身です。父親の仕事の関係で生まれてしばらくは宮崎にいましたが、小学生で箕面のお隣の池田市の学校に通って、中学で箕面の学校に進みます」。
お姉さんが1人いる。
「こどもの頃はテニス、水泳、少林寺、柔道とかですね。あの頃は、新日本プロレスの橋本真也さんに憧れて、将来はプロレスラーになろうと思っていました。相撲と出会ったのは、その延長で、プロレスラーになる、いいステップになるかな、と」。
「勉強は得意じゃなかったし、からだを動かすのが好きでしたからね」。
相撲道場に通い始めたのは、中学2年生のとき。のちに昌平さんは、あの白鵬関の付き人になるが、当時、力士は視野の外の世界だった。
「道場の先生の紹介で、相撲クラブがある京都の高校に進みます」。自宅から2時間かかったというから驚かされる。「昔はつよかった高校ですが、私が入学した頃は、他校のほうがつよかったですね」。
昌平さんは、そのけっしてつよくない学校から、新星のように頭角を現す。
<角界入りはもう既定路線?>
「いいえ、ヘルニアになっていましたから、実は角界入りは先生たちに反対されていました。その身体ではもたないっていって。ただ、そういう(相撲界に入る)流れになって」。
「ヘルニアの原因はわからないんです。ただ、私なりには、ヒザを痛めて、それをカバーしていたことがいけなかったのかな、と」。
ヘルニアという爆弾を抱えながらも、昌平さんは、相撲の世界に入る。ある意味、プロレス以上に、過酷なスポーツ。身長174センチ、体重130キロ。力士のなかでは小柄なほう。
成績はどうだったんだろう? ネットで検索してみた。
所属は宮城野部屋。四股名は「鈴木山 昌平」で、のちに「一秦 昌平」に改名している。初土俵は2000年3月、最終場所は2005年1月。生涯の戦歴は99勝94敗となっていた。
「現役は5年です。力士の頃からヘルニアが悪化して、サポートの仕事もしていて、『ちゃんこ』もつくっていました。料理をはじめたのは、その頃。今になっては、野菜のカットや、魚の処理という基礎からスタートできたのがよかったですね」。
むろん、葛藤がないわけではなかった。力士をあきらめ、サポート役に回るのは辛い選択だったにちがいない。
ただし、「ちゃんこ」を食べて「旨い」と歓声をあげる先輩力士や後輩力士をみるのは、心優しい昌平さんにとって喜びの一つだった、そんな気もする。
このあと、いったん角界から離れ、箕面にもどっていた昌平さんに一本の連絡が入る。
白鵬関からの連絡だった。
「白鵬関は、私より一つ下で、同じ宮城野部屋の、いったら後輩です。力士の頃から親しくさせていただいていました。それもあって付き人をさせていただくことになりました」。
横綱に駆け上がる白鵬関にとっても、一つちがいの昌平さんの存在は大きかったのではないか。
ちなみに、白鵬関はモンゴル国ウランバートル市出身。第69代横綱。ウィキペディアによると好物は焼肉と納豆。むろん、昌平さんは、ご存知だろう。身長は192センチ、体重155キロ。
「付き人を5年させていただきました。今でも親交はあります。彼は、昌平ちゃんとか、昌平さんとかっていうかな」。
2人並べば体格差はあきらか。昌平さんとは20センチちかくの体格差がある。付き人を辞め、ふたたび大阪にもどっていた昌平さんは、ある力士の断髪式があって上京する。
その時、声がかかる。
「今度、今田耕司さんのご自宅でパーティーがあるんだけど、ちゃんこをつくってくれない?って話です。私でええんかなって、そうは思いましたが、せっかく声をかけていただいたんで作らせてもらいました。で、そのパーティーに、おさむさんがいらしていて」。
2人の鈴木がはじめて出会うことになる。
「昌平の『ちゃんこ』が、縁結びの神様ですね」と、今度はおさむさんがいう。
「いつか飲食をしたいなと思っていたんですが、プランがあったわけじゃありません。ただ、今田さんのうちでいただいた鍋が旨くて、これだ!って。ちゃんこをつくってくれた昌平と連絡先を交換して。もう、その当日ですよね。いっしょにやりませんかって、オファーさせていただいたのは」。
「そうです。私にすれば、狐につままれたっていうか。半信半疑というか。だって、私は素人同然ですしね。でも話はトントン拍子に進んで、お鍋の会が2月で」。
「4月にはもうお店が決まっていたよね」と、こちらは、オーナーのおさむさん。
「そうです。駅チカのロケーションで、『ちゃんこ鍋』のお店をオープンさせていただくことになりました」。
「ただ5年で赤字6000万円! 鍋って、冬と夏であれだけ集客に差があるなんて知らなかった」とおさむさんがいうと、「冬だと1500万円って月があったんですが、夏は、さっぱりで」と昌平さん。
「ゴールデンウイークが過ぎると、鍋の需要は少なくなっちゃったよね」。
「ですね。桜の季節くらいまで。そうなると、家賃の90万円が重くのしかかってきます。フロアは狭く、3フロアだったので、人件費もかさみました」。
「みんな素人だから、最初は、そういうことに気づかなかった。2012年にオープンして、2017年にクローズします。でも、僕は、それで終わりにしたくなかった。昌平の料理は旨かったし、昌平の人柄も生かしたい(笑)。だって、中目黒じゃ、僕より顔が広くなっていたしね」。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
「カンリーAI面接」初期販売パートナーであるキイストン社の販売実績が貢献したことを受け、販売パートナープログラムの拡充を決定
『カンリーAI面接』は、店舗におけるアルバイト・パート選考を自動でマッチング&合否判定することを目指しており、面接業務をAI活用により自動化を支援するサービスです。
例えば、AIによる面接対応や合否判断のサポートなど、面接データを元に自店舗にマッチした候補者選定をAIが支援し、選考活動をアシストすることで、店舗スタッフが本来行うべき業務に集中できるアルバイト採用の環境を実現します。
店舗スタッフの「アルバイト採用の面接業務をAIで完全自動化」する世界を目指し、第1弾(24年10月時点)では録画面接、音声データ文字起こし機能およびAI要約機能をご提供しております。
なお、10月8日(火)のサービスリリースお知らせの通り、リリース時点で100社を超えるお客様からのお申し込みをいただいております。
プレスリリース:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000293.000037205.html
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
早いものでキイストンは10月22日で33年目に突入しました。
30年以上やると元従業員の人たちからの連絡はとてもうれしいです。
33年経ちましたが、あと33年となると94歳、恐らく私はもうこの世の中には存在してませんね・・・(涙)
なのでこれからは今を大事にちょっとした喜びを複数味わい続けてたいです。
そのためにも、今期は今までと違い、キイストンの強みを最大限に生かすように「飲食の戦士たち」を中心に計画的に進めています(笑)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社JAM Restaurant Corporation 代表取締役 飯高晶之氏登場。
「剣道から逃げ出したいと、バスケを始めた」と笑う。小学5年生の頃の話。
「スラムダンクの影響もありましたが、剣道を辞める口実になれば、正直、なんでもよかったんです」と、今回、登場いただいたJAM Restaurant Corporationの代表 飯高 晶之さん。
何でもよかったわけだが、才能があったんだろう。中学に上がると1年からレギュラー。ただ、調子に乗りすぎてこっぴどく叱られ、反省する。素直に、反省するあたり、ピュアな少年だったにちがいない。
「チームをはじめて意識したのも、この時」と、飯高さん。やがて、飯高さんは、キャプテンを務めることになる。
高校は推薦で、日体荏原へ。いよいよ、高校デビュー。ハイレベルな世界が観られると思ったやさき、挫折のにがさを知った。1年の時に、股関節の炎症を起こした飯高さんは、けっきょく退部してしいる。
好きなバスケットボールから離れたことで、鬱屈した高校生活がスタートする。そんな生活をいっぺんさせたのが、ギターだった。
「これも、きっかけはなんとなく。ともだちのバンドを観てシンプルに『面白そうだ』と思ったのが始まりです。モテそうだし、やってみるかなと高校3年生の時に初めてギターを弾きます」。
ギターと、ボーカルも時々務めた。好きなアーティストは? とうかがうと、ラモーンズやクラッシュ、ビートルズなどの名が挙がった。
「大学進学は頭になかった」と飯高さん。
<バンドで食べていく?>
「そう。仲間といっしょに割といいところまでいったんですけどね」と笑う。
飯高さんは、1982年に東京都大田区に生まれる。お父様は、不動産業をされていて羽振りもよかったそうだ。
「小さい時から海外によく連れて行ってもらいました。最初に行ったのはフィジーです。これが6歳くらいの時で、小学生の頃にはハワイとかサイパンとかにも」。
ただ、中学に上がると、思春期に突入。「親といっしょに行くのが恥ずかしくなって、行かなくなった」と笑う。
バスケットボールに熱中したことも理由の一つだったにちがいない。
さて、そのバスケットボールからも離れ、バンドからも離れた飯高さん。つぎに出会ったのが、飲食だった。
「渋谷にある中華料理店でスタートして、系列のお台場のイタリアンに異動します。21歳頃の話です」。
最初は、とくに面白いと思っていなかったそうだが、だんだんと飲食の世界に惹かれるようになった。
「その店で2年半はたらき、独立します」。バイトだが、スーシェフになっている。
ただ、2年半は、早い。
「そうなんです。ただ、独立しようと思って辞めたわけじゃなくって、最初は海外を放浪するつもりだったんです」。
海外は小さな頃からなんども行ったから、興味もあったし、ふつうの人と比較してハードルも低かったにちがいない。どこに行くつもりだったんだろう。
だが、お姉さんの一言で、海を渡ることはなくなった。
「姉が大田区の池上にある物件を紹介してくれたんです。親父の会社で、仕事をしていたからなんですが」。
調べてみると、300万円くらいでオープンできそうだった。
「独立するなら若いうちがいいでしょ。失敗してもリカバーできるし、リスクも少なそうだからやってみようかな、と」。
<それが、始まり?>
「そうです。もともと計画していたわけじゃないし、そういう意味では、創業したのも、たまたまそういうタイミングだったというしかないですね」。
<いかがでした?>
「食べていけるくらいで、パッとしませんでした」と飯高さんは苦笑する。
「ただ、今、うちの幹部は、その時のお客さん。カウンターの向こうから『はたらかせてください』って言ってきてくれた連中なんです」。
業績はともかく、若者が惹かれる何かがあったのはまちがいない。そして、彼らの選択もまちがっていなかった。
ホームページをひらくと、うつくしい飲食の世界が目に飛び込んでくる。その始まりが、この家賃15万円の小さなイタリアレストランだったというから、感慨深い。
ちなみに、グルメサイトもみたが、すべてのブランドで高い評価点を獲得している。お台場のレストランで、わずか2年半でスーシェフに登り詰めたことからもわかる通り、料理の才能も豊かだったんだろう。
<バスケもそうだし、ギターもそう。なんでも、簡単にできちゃうんですね?>と軽く話をふると、「でもね、突き詰めたことがなかった」と意味深な回答。
料理は、奥が深い。経営も、突き詰めなければ、意味がない。その裏返しのように聞こえた。もう、創業して18年目になる。
「ほぼ2年スパンで出店している」という。2024年6月現在、以下のブランドをオープンしている。
<豚とワインを愉しむ本気イタリアン「Gazzo」>
<大型パーティも可能なイタリアン「Allegro」>
<フランス料理・ウェディングレストランJAM ORCHESTRA(ジャムオーケストラ)>
<銘柄鶏や地鶏を使った鳥料理と水炊き鍋料理の居酒屋鳥肌(とりはだ)>
<レストランウェディング対応可能なイタリアンレストランAllegro Kanazawa(アレグロ カナザワ)>
<イタリアンレストラン・ジビエ料理・炭焼き肉バル「braceria BAVA(ブラチェリアバーヴァ)」
いずれも評価点が高いのは、すでに表記した通りだが、百聞は一見に如かずのことわざ通り、興味がある人はぜひ、ホームページをご覧いただきたい。熱量まで、伝わってくるはずだ。
飯高さんは、理不尽をきらう。バイト時代には、その日の気分で仕事をするシェフが気にくわなかった。だから、負けるものかと、朝から晩まで料理と格闘した。
その2年半について、くわしく語らなかったが、けっして才能の一言で片づけてはいけない苦労も、努力もあったのは、まちがいない。ゴツゴツした岩にぶつかり、飯高さんの人格もまた磨かれたにちがいない。
その人格に惹かれ、40名の社員が、いま飯高さんの下ではたらいている。社員の半数が料理人というから、組織は重層だ。女性スタッフも多いらしい。
ちなみに、社員は、最良2年で店舗を異動するそうだ。だから、交流も盛ん。その結果、チャレンジできる風土も、根付いている。
とかく、レストランが評価されがちだが、それ以上に組織が評価されてもいいのではないかと思った。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社バルニバービウィルワークス 代表取締役社長 石倉 治氏登場。
小学1年から野球をはじめ、高校3年まで続けている。高校では1年からベンチ入りする期待の新人だった。
「とにかく、小学校と高校の監督がものすごく厳しくて、親父より怖かったです」と、石倉さん。
とりわけ高校は地獄。だれかがなにかをやらかすと連帯責任。休みはほぼなし。ナイター設備があったので、夜9時まで練習ができる。ルールを誰かが破るとみんなで丸刈りだった。
石倉さんは副キャプテン。リーダーシップはその頃から代名詞になっている。
「監督は厳しかったですが、理不尽なことをいうような人ではなかったです」。
ちなみに、石倉さんは、100mを11秒で駆け抜ける。
高校は日大の付属。野球の推薦ではなく堂々と学力で進学した。大学もエスカレーターではなくテストに合格しないといけなかった。
結果、文系では偏差値トップの法学部新聞学科に進んでいる。
監督からは、『野球推薦で大学も無くはないぞ』と言われたそうだが、きっぱり断っている。
大学は大宮キャンパスで1年、2年からは水道橋キャンパスへ。マスコミ志望。
「1年の時は単位を取れるだけ取って遊んでばかりいましたが、2年になって少しずつ将来のことも考えはじめ、当時はマスコミが頭にあったので雑誌社でもバイトをさせてもらいました。ただ、広告を取って記事を書け、みたいな感じで。この時自分に営業マンの才能がないことに気づきます(笑)」。
アルバイトの定番大手居酒屋でも働いた。その後とある大手飲食会社店が横浜に新店をだすタイミングで入り、期待を背負い研修で銀座店に出向させられている。
「これが一つのターニングポイントですね。有名な大手飲食店の銀座店ですから、素人ながら期待して行ったのですが、研修を終えて横浜に戻ると案外、あれ?と思う事が多くありました」。
石倉さん曰く「開店してからしばらく経ち、業績があまりよくない状況が続き、社員のモチベーションが下がり、退職者が増えていくのを目の当たりにしていました」。
そのなかで石倉さんは、あれもこれもやらせて欲しいと働きかけた。だから、シフトもいつしか石倉さんのミッションとなる。
勿論、アルバイトの域はまだでない。
「大学4年でバイトリーダーになって。タイミング的に就職ですよね。その時『店長やる?』と言われて、それもいいかな、と」。
どんなお店だったんですか?という質問の答えを聞いて目を丸くした。月商5000万円、スタッフだけで60人はいたそうだ。
「ホールが脆弱で、社員は私1人です。だから最初にホールの体制を改めました。アルバイトからやる気のあるスタッフをどんどん社員に登用して、彼らにホールを任せて、今度はキッチンです。もちろんイチからです」。
大手新聞社・広告代理店などに就職した大学の同級生たちとは、まるで違った。「給料もぜんぜん違いますしね(笑)。でも、飲食が好きになり始めていましたから、そこは救いだった気がします」。
父親からもきつく言われていた。
「そうなんですよね。最初、飲食店に就職すると言ったら、『なぜ水商売?』って。飲食がまだ低くみられていた時ですから。でも、最後に理解を示してくれて、ただ、『やるからには続けろ』と言われたんです」。
<何歳で転職されるんですか?>
「バルニバービがまだ関東に2~3店舗ぐらいだったタイミングですかね。年齢は29歳です。経営母体が変わったのが引き金になりました」。
「最初の1年は厳しかった」と石倉さん。1年目から、江の島にオープンする新店の立ち上げ店長に抜擢されている。
「社風の違いというか、バルニバービには比較的華やかなスタッフが多く、楽しいイベントが打てる、そんな人が活躍するイメージだったんですよね。もちろん、それはそれで社風として受け入れながらも、同じ飲食でもぜんぜん違うんだなと」。
自分には合っていないんじゃないかと悩んだこともある。だからといって簡単に辞めるわけにはいかない。
父との約束もある。それに、社長の佐藤裕久さん(現代表取締役会長CEO兼CCO)と、真冬のテラスで、何時間も面談して入社した経緯がある。
「直接、社長と話ができるような会社を希望していましたので、面接の段階から実現したわけですが」と石倉さん。
「実をいうと、佐藤さんが話っぱなしで。すごい構想をお話いただいていたように思うんですが、こちらはただただ聞きっぱなし。で、最後に思い出したように聞かれたんです。『で、どうすんの?』って。私が何をしに来たかを覚えてくださっていたんでしょうね(笑)」。
答えはもちろん、面接がはじまって数十分で決まっていた。給料は下がったが覚悟の上。
江の島にも引っ越している。が、何よりまだ社長の佐藤さんと仕事をしていない。
「江の島ですから、夏と冬でぜんぜん違うんですね。それも、初めての経験でした。だから新鮮でしたしある意味楽しくもありました。
ただ、店長をするために転職したわけではありませんから、どれだけはやく江の島の店を抜け出すかに私の未来がかかっていたんです」。
<宣言されたんですよね?>
「そうです。バルニバービの文化圏の人間らしく、『1000万円の営業利益をだす』と。『それができれば、次のステップに進ませてください』と」。
<どうなりました?>
「もちろん、実際に単月で約4000万円セールスして、1000万円の利益をあげました」。
<そのつぎが気になります>
「『3つの選択肢がある』と上司に言われました。当時私がいた『GARB』のSV、物件開発のポジション、新規事業の責任者の3つです」。
<もちろん…>
「ええ、ご想像通り、新規事業の責任者一択でした。社長とようやく仕事ができるわけですから」。
ところが。
社長といっしょに仕事ができる、それ自体は申し分ない環境だったが、スタートアップはなかなかうまくいかなかった。
「時には12時間くらいミーティングしていたんじゃないかな。佐藤から毎回、鬼神のような表情で、詰められました」。
「佐藤さんは0から1をつくる天才だ」という。「褒めることは滅多にないが、まだまだですが今は少しは認めてはくれているんじゃないかな」とも。
石倉さんは、厳しくされたがその時の経験と仲間がいて今がある、そして今になってわかることが沢山あると。佐藤さんは、人づくりにもたけている証。
<アスリート食堂は、この時の新規事業の一つですね?>
「鹿児島県にある、鹿屋体育大学の栄養学の講師からの依頼がきっかけでスタートしたプロジェクトです。そちらの大学の横に「アスリート食堂」が最初にオープンします」。
もう少し詳細にいうと、バルニバービ単体ではなく国立大学法人 鹿屋体育大学・鹿児島県鹿屋市からなる「産学官連携プロジェクト」。
ブランドサイトによると「食材の宝庫と評される鹿屋の良質な食材を用いて、鹿屋体育大学長島講師監修の『スポーツ栄養学』に基づいたメニューにより、これまでになかったバランス食を提供する食堂として鹿屋市に「研究開発本部」が誕生したのが始まりです」とある。
「同年には、東京に1号店となる本店をオープン。以来「アスショク」の愛称で親しまれ、多くの方々へバランス食を提供しています」とつづく。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジェイライズ 代表取締役社長 長縄賢司氏登場。
「いじめられっ子だった」と長縄社長。「背が低く、ひんじゃく。勉強もできなかったしね」と笑う。うまくはなかったが、サッカーは好きだった。少年団に入っている。いじめに関しては「小学5~6年生のときがきつかった」という。
「からかわれたり、ハブられたり、かつあげされたり。お金をもってこいって、要求されるんです。だから、母親の化粧箱から、500円をとって」。「先生も、クラスでなにか問題があって、それに私がからんでいると、私を責めるんです。それがいちばん楽な解決方法だったからじゃないかな」。
せめての救いは、「バカだったこと」と長縄社長。「バカだから、すぐ忘れられる」と笑う。乾いた笑いだった。今の長縄社長からはイメージしにくい少年時代である。
<いじめがなくなったのは、いつごろですか?>と質問すると、「中学になってからですね」と長縄社長はいう。
「背が高くなりましたし、ほかの小学校といっしょになるんですが、その学校の親玉みたいな子とともだちになったからじゃないかな。私自身、外へ、外へでるようになりました。サッカー部だったことも大きいかもしれません」。
岐阜県ではサッカーがつよくて有名な中学校だったそうだ。同級生は20人くらい。
「辞めるなんて許されません。とにかく、先生がむちゃくちゃこわい。手を抜くと、ボコボコにされます(笑)」。
サッカー部だが、全員丸刈り。トレーニングもハードだ。
「やめない、逃げない性格になったのは、この頃。気合と根性。だんだん飲食店のオーナーみたいになってきましたね(笑)」。
6時半にグラウンドに行って朝練開始。たいへんだったが、いじめにあっていた時と比べれば、なんてことなかった。手を抜くこともない。先生に殴られるからではなく、それが、たのしいから。
サッカーにはのめり込んだが、勉強は、イマイチ。
「進学した高校の偏差値は、30もなかったんじゃないかな」と笑う。通知表は、基本「1」。とくに数学が苦手だった。テストは、5教科の点数をすべて合算しても100にならなかった。
「先生に勧められたんですが、名前を書けば入学できる学校とはね(笑)。通学はたいへんで、電車で1時間以上かかりました。たいへんでしたが、いいこともありました。遠いからバイトがバレなかったんです」。
今回ご登場いただいた株式会社ジェイライズの長縄社長は、1977年2月1日生まれ。岐阜県出身。サラリーマンだったお父様は、長縄社長が小学3年生の頃、起業し、のちに大手焼肉チェーン「焼肉屋さかい」のフランチャイズ店をオープンされている。なんでも、フランチャイズ1号店だったらしい。
「高校時代は、バイト一色ですね。親父の店も手伝いましたし、パチンコ店の掃除、道路交通調査の短期バイトとか」。ひと夏で15万円かせいだそう。
「ふつうの月は、8万円くらいです。はたらいて、お金をもらう、それが楽しかったですね。ただ、趣味もそうないし、案外、手堅い性格だったんで、ほぼ、貯蓄です。お金がたまっていくのも嬉しかったですね」。
毎月8万円。夏を入れて、年間100万円程度になる。
「高校卒業までに200万円貯蓄することができた」と長縄社長。夏休みの生活は、「バイトをして、朝までマージャンして、モーニングを食べる」だったそう。ちなみに、免許を取って、中古のシルビアをキャッシュで買っている。
<卒業後は、どうされましたか? やはり就職?>
「そうですね。100%就職って学校ですから。私は、旅館に就職しました。ただし、希望のフロントではなく、雑用ばかりで、1年で退職します。そのあと、自動販売機にジュースを補充する仕事に就き、こちらは4年間、勤めます。給料は低かったから、高校のように貯金はできなかった(笑)」。
<独立のきっかけは?>と、うかがうと「岐阜駅前にあった『扇屋』というお店が繁盛していたから」との回答。ただ、よく聞くと少し様子がちがう。
「じつはね、焼き鳥を焼いてるスタッフがちやほやされているんです。女性から、電話番号をもらっているのをみて、これだ、と。だって、私がみても、かっこいい仕事でしたら」。
<ということは、そちらではたらくわけですね?> 「いいえ、そういう発想にはならないんです。父親がフランチャイズ店をやっていたからでしょうね。お店はちがいますが、扇屋さんがFC展開をされていたので、私もフランチャイズに加盟しようと思うんです。父親に連帯保証人になってもらって、資金を借り入れました」。
その時の投資額を聞いて驚いた。
建設費込みだが、4000万円。経験もない23歳の青年の、とんでもない勝負が幕をあける。ロケーションは、江南、郊外型で建坪25坪。パーキング含めると209坪あったそうだ。家賃は25万円だったというから、こちらは、坪数からするとかなり安い。
<どうでしたか?>
「めちゃくちゃ儲かりました。すぐに2号店をオープンします。損益分岐点がいずれも400万円くらいで、900万円までいっていましたからね」。
毎月、ウン百万円が、残る。投資額もなんなく回収できたにちがいない。ところだが、2001年「道路改正法」が施行されると、状況はいっぺんする。郊外型の居酒屋からはとたんに客がいなくなった。
「うちも月商が300万円に落ち込みます。1店舗を売却して、それでなんとかしのぐことができたんですが。ただ、ラッキーだったのは、お金を使う時間がなかったから、たまっていたんです。だから、食いつなぐことができました」。
このあと、2008年、長縄社長は鉄板焼店をオープンするのだが、空白の期間もあった。その間が「もっともつらかった」と本音を漏らしている。
「飲食店って、やれば儲かるもんじゃなかったんだ」。
長縄社長は、客がいなくなった店内で1人つぶやいたかもしれない。
ちなみに、こちらの鉄板焼きをスタートすることになった理由もふるっている。
「ある店で鉄板焼きを担当しているスタッフさんがモテモテだったから」。
シンプルだが、人間、案外、そんなところにつぎに進むスイッチがあるのかもしれない。
・・・続き
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社カルラ 代表取締役社長 井上善行氏登場。
本文より~社名のカルラは、口から金の火を吹き、赤い翼を広げると宇宙をも包み込んでしまうと言われているインドの神話上の大鳥「カルラ」をモチーフにして、その名をいただいている。
カルラは仏教の守護神でもあるそうだ。
今回、ご登場いただいたのは、このカルラの代表取締役社長、井上善行氏。1958年、岩手県二戸市、生まれ。二戸市には、座敷童で有名な緑風荘がある。
兄弟は兄が1人。「小・中は野球部だったが、高校になると硬式で当たると痛いからソフトボールに転向した」と笑う。
大学は「東北福祉大学」に進学。
「福祉大に入学した時は福祉関係の仕事を志していました。母が点字をやっていたので、私も点字サークルに入り、活動も行っていました。以前から母を手伝っていたので、だれよりも巧く、入部とともに技術部長に任命されました」。
まだこの頃は母の背中を追いかけるピュアな青年だった。ただ、いつまでもピュアではいられない。
「全員、福祉大の学生というアパートで暮らしていました。サッカー部、空手部などの、体育会系のアパートです」。
先輩、後輩の上下関係もつよい「バンカラ」時代。
「1年目は真面目だったんですが、2年目以降はその反動で」と井上さん。彼女ができ、青春を謳歌する。「そっちのほうが楽しいから、サークルにも顔をださなくなっちゃってね」といったあと、「人生っていうのは、ほんと人との出会いだよね」とつづける。
「大学3年の時、アパートがいっしょの先輩から、ある日いきなり、オープンしたばかりのBarに連れて行かれて、『今日から俺といっしょにアルバイトをしろ』ですよ(笑)」。
イギリス風のおしゃれなBarだったそう。
「だから、私もけっこう気にいっちゃって。先輩は早々と辞めていくんですが、私は残ってアルバイトをつづけます」。
律儀な性格でもあったんだろう。仕事をつづけるうちに、今度は店長からの信頼も厚くなり、就活時、店長に旅行会社を紹介してもらっている。
「店長さんはもともと旅行関係の仕事をされていたんです。それで大手2社と、仙台の小さな旅行代理店の3社を紹介していただきました。海外に行くなら、小さい代理店だとアドバイスいただいて、仙台の小さい代理店に就職します」。
井上さんは、大学時代、45日かけアメリカを一周している。その時の様子もうかがった。
「1ドル290円の時代です。45日かけアメリカを一周。60万円程度かかりました」。1ドル290円はびっくりだが、アメリカを一周して60万円は、案外、安い。
「ですね。ただ、費用を浮かすために深夜バスで移動していましたからね」。当時の深夜バスは、危険と隣り合わせだったんじゃないだろうか。
「それも、そうですね。でも、せっかくのアメリカですからね(笑)」と井上さん。なんでも、極力、日本人には合わないように心がけたそう。井上さんにすれば、深夜バスは、冒険を、冒険らしくするためだったのかもしれない。
ニューヨーク、ラスベガス、ロサンゼルス…、もう一度、心細くなかったですか?と聞いたが、「心細くはなかったですが、そばを食べたいと思いましたね」と笑って、回答している。
旅が縁になる。
海外旅行で奥様にも出会っている。この出会いも間違いなく、井上さんの人生を動かしたことの一つ。
「私は旅行代理店で学生時代を含め、9年勤めています。さきほどもいった通り、小さな代理店でしたが、そのぶん、社長さんなど富裕層とのグリップがつよい代理店でした。妻と出会ったのも、私が添乗したツアーの一つでした」。
どういうことだろう?
「シンガポールやマレーシアをめぐる2月のツアーで、親子3人で参加していました。私は添乗員ですから、言葉を交わすうちに親しくなりました。私が29歳の時です。2月に出会って、3ヵ月後の5月に結婚しています」。
なんて素敵なロマンスの旅だろう。しかし、それ以上の旅が始まる。井上さんは、結婚を機に井上家に入り、2代目社長の道を進むことになったからだ。
当時のカルラは、ファミリーレストラン3店舗、蕎麦屋4店舗だった。
「跡取りができた」と、義父は期待を寄せた。
「修業もかねて、1年9ヵ月間、社長同士親しいサイゼリアでアルバイトを経験させていただきました。サイゼリアはもちろん、イタリアンです。この時、イタリアンはあるのに、和食はないんだな、と」。
井上さんがないというのは、和食のファミリーレストランチェーン。理由もあるそうだ。
「日本人にとって、和食は一つじゃないんです。地域によって、調味料だって違うでしょ。味噌なんかはその典型。様々な種類がある。だから、和食のレストランは調理の標準化がとくに難しいんです。だから、洋食の成功例は多数あったんですが、和食の成功例っていうのはなかったんです」。
たしかに、日本の飲食の近代化は洋食のカテゴリーで進んでいく。
「ただ、障壁の高さは、他社との明確な差別化になるし、あとから参入するといってもむずかしい。だから、そこにチャレンジしてもいいんじゃないかな、と。海外に行く可能性の高さで言ったら、そりゃ、和食ですしね」。
そのチャレンジが実ったんだろう。現在、カルラの主力ブランドは、和風レストラン「まるまつ」。ファミリーダイニング「かに政宗」など、「和」のテイストがメインになっている。
洋食が一般的になるなかで、やはり日本人は「和食」に惹かれる。運営のノウハウが確立できれば「和食」というだけでアドバンテージがあるのは、たしかなようだ。
井上さんが正式に入社し、カルラはさらに翼を広げることになる。翼を広げた井上さんの羽ばたきが、大きな原動力となったのは間違いない。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ソウルフラワー 代表取締役 川端昌志氏登場。
本文より~川端氏が生まれた北海道士別市多寄町は、北海道北部に位置する人口900人足らずの農村だ。盆地のため夏は暑くて冬は寒く、川端氏が子供のころはマイナス30度を下回ることが年に3~4回あったという。町の主な産業は農業で、川端家も代々農業を営んできた。家業は川端氏の兄が継ぎ、今では弟の商売に欠かせない米をすべて賄ってくれている。
地元の小中学校を卒業後、川端氏は自転車を全力でこいでも片道45分かかる遠方の進学校に入学した。ちょうどバスケブーム全盛の時代。それまではプロ野球選手を夢見るほど野球好きだったが、スラムダンク人気も相まって、川端氏もバスケットボールに転向した。
広大な北海道だけあって、遠くから通う生徒が多いからだろうか。朝練はなかったものの、バスケ部の休みはテスト期間と年末年始、そしてお盆の間に1日程度。放課後の練習に加え、地元企業のクラブチームとの夜間試合もあり、部活は厳しいものだった。
「努力は裏切らないんで。ずっと努力してました」。
人生で一番つらい時期ではあったが、辞めたいと思ったことは一度もなかった。努力の結果は2年生の時、レギュラーの座となって表れた。
理系が得意で研究職に憧れていた川端氏は、親の負担を少しでも減らしたいという想いから国立北見工業大学に進学した。「学費は親に出してもらったんだから、あとは自分でやる」と決め、北海道発祥の炉端焼きがメインだった居酒屋で働き始める。当時ですでに30年の歴史を持つ老舗の居酒屋。店主のおばちゃんとバイトの2人で十分回せるようなこじんまりとしたその店は、馴染み客に愛されていた。在学中は他のアルバイトも経験したが、川端氏の人生に最も大きな影響を与えたのは、この炉端で過ごした時間だった。
20歳になり、自分の将来について改めて考えた川端氏は、「周りの人を笑顔にしたい」という想いから飲食業へ進むことを決意する。目標を29歳までの独立と定め、大学卒業後は東証一部上場のガス会社に就職し、開業資金を貯め始めた。
仕事は順調で充実していたが、「食を通じて誰かを笑顔にしていきたい」という夢が揺らぐことはなかった。その後28歳を迎え、独立のための計画を本格的に始動させていく。学生時代の経験から当初は居酒屋を考えていたが、さまざまな調査と分析の末、勝率が一番高いのはスープカレーだと思ったそうだ。
「札幌にあるスープカレー店200店舗のうち、150店は食べ歩きました。そこで『この味だったら、この時間にいくらくらい売上げがあるかな。家賃はこれくらいで、利益はこんなもんかな』って分析していったんです。で、これだったら自分の味で勝てるなと」。
ひとり暮らしだった在学中に料理を始めたという川端氏。在職中の7年間は、ルームシェアしていた友人たちに手料理をふるまいながら、自分の味を創作していった。20歳で独立を決意し計画的に準備を進めてきたことが、その後の成功に繋がったのだ。
2007年に29歳で独立した川端氏は、記念すべき第一号店の立地を地下鉄駅から徒歩10分ほどの路地裏と決めた。ごく普通の住宅街で店舗前の往来も1日30人ほど、なぜそんな辺鄙な場所を選んだのだろう?
「長く続けたかったので、まず初期投資を抑えたかったんです。そこは10坪14席という小さな店ですが、当時は家賃が5万円と破格な上に、電気と水道代も月5000円と定額。さすがにガス代は別で、駐車場代もかかりましたが、月々のランニングコストは12~13万くらいでした」。
北海道の名もなき路地裏にある「Rojiura Curry SAMURAI.」はこうして誕生した。手元の軍資金は、サラリーマン時代の貯金と公庫からの借入金で700万円。自分でペンキを塗ったり内装工事をしたり、元ガス会社勤務という経歴も役に立った。しかし飲食業の経験は炉端のアルバイトくらい。料理が好きだったとはいえ、店の経営はうまくいったのだろうか。
― オープン当初はどうやって集客したんですか?
「最初の1か月間は、定価1000円ほどのカレーを半額で出しました。値段に引っ張られてくる人も多かったけど、本当に美味しければリピートに繋がる。味で勝負できないと意味がないし、結果は早く出たほうがいい。だからまずは“食べてもらう”ことに注力しました」。
「あと店のPRはmixiを使ってたんです。当時『札幌スープカレー大好き』っていう登録者3万5000人くらいのコミュニティがあったんですが、オープンして2~3か月後だったかな?その管理人がトップ画面にウチを出してくれたことで、ヒットしました」。
スープカレーを半額で提供していたにも関わらず、初月の利益は70万円。mixi効果も加わり、売り上げはどんどん伸びていった。2年後にオープンした郊外型の2号店も大当たりし、月に700~800万円を売り上げたという。
― 2号店のヒットの秘密は?
「1号店が狭かったので、ランチタイムに2~3時間待ちはざら。だからお客様にとっては、待望の2号店だったんでしょうね。その時は特にメディアが入ったわけではなく、口コミでヒットしました」。
開店早々に顧客の反応を見ながら商品を完成形に持っていき、SNSの先駆けであるmixiを通じ一気にブレイクした「Rojiura Curry SAMURAI.」。1、2号店とも、一度も赤字になったことがないほどの超人気店に成長した。
「でもその後、8か月くらい鬱になったんですよ」。
原因は起業から約4年後に出店した3号店と4号店の不調だ。満を持してオープンした両店の低空飛行は、彼のメンタルを追い詰めた。最初の2店舗があまりに順調で感覚がマヒしていたところ、それらの黒字を3、4号店が食う状態へと陥ったのだ。会社全体として赤字になったわけではないのに、「売上げが上がらない、社員に申し訳ない」という気持ちが川端氏の心をむしばみ、やがて家から一歩も出られなくなってしまったという。
― いったいどうやって立ち直ったんですか?
「会社の忘年会があったんですよ。本当は行きたくなくて仕方がなかったけど、みんなに謝らなきゃと思って出席しました。でも社員に頭を下げたら『社長、すみません!僕たちの力不足で売り上げがあがらなくて』って言ってくれたんですよね。自分だけじゃない、みんなもそう思ってくれていたんだと思ったら、心の重荷が下りました。奥さんもボロボロだった僕を励ましてくれたし、それで立ち直ることができました」。
会社として赤字に転落したわけでもなければ、給料が滞ったわけでもない。ただ1、2号店の異常さに誰も気が付かなかっただけ ―
そんな風に思えるようになってからは、ずっと順調だ。「Rojiura Curry SAMURAI.」は現在、道内と東京を中心に国内19店舗、オーストラリアに1店舗を構えるまでに成長。スパイスラーメンや沖縄そばなど別ブランドも展開している。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社うまプロ 代表取締役 金子真也氏登場。
本文より~祖父の閻魔帳があった。祖父というのは、今回ご登場いただいた株式会社うまプロの代表取締役、金子真也さんのお祖父様。「粋で豪快」、江戸の職人そのものだったようだ。
金子さんによると、お祖父様は、調理師会の「天ぷら職人を派遣する互助会」の2代目会長だったそう(現在は、金子さんの叔父さんが継がれている)。「祖父が『天丼復活論』という書を遺していたんです」。
<それが、天丼の始まりですか?>
「そうですね。もともと、油と小麦というのが頭にあって、祖父の遺したレシピを知って、天丼だ、と」。天丼を復活させたのは、お祖父様の言葉に背中を押されたのかもしれない。
金子さんは、1978年生まれ。お父様は、和食の職人であり、飲食店を経営されていた。
「私自身は小学生で野球を始めますが、小学6年生からはゴルフを始めています。中学ではキックボクシングや柔道もしましたが、結局、ゴルフですね。今でも80台くらいではまわります」。
スポーツも大好きだったが、金子さん曰く、「生まれた時から飲食しか考えてなかった」とのこと。祖父、父の影響だろうか。ただし、実際に金子さんが飲食の道に進むのは、もう少し後の話。
「高校を卒業して、すぐに修業という選択もあるわけですが、父と母に修業を始めるのは『もう少しあと』と言って、専門学校に進みます」。経営を教える専門学校だったそう。「私が目指していたのは、料理人ではなく経営者だったからです。でも、この学校が1年生の時に潰れてしまいます。ウソみたいな話ですよね(笑)」。
準備運動も何もできていない。
どうするんだろう。
「色々あって、20歳の頃ですね。当時15店舗くらい経営されていた居酒屋に就職します。7年くらいいましたから、いい意味でも、悪い意味でも、私の原点になっています」。
できる女性社長だったそうだ。繁盛店をつくる天才だったが、社員にはかなり厳しい人だったという。
「年間のおやすみは、3日です。毎日、6時半には築地に行って買付を済ませて、8時半には駅に立ってビラ撒きです。それが終わって、11時から23時半までは店で仕事です。でも、すごい人だったのは事実で、私もむちゃくちゃ叱られれたこともありましたが、逆に可愛がっていただいたことも多く、今も感謝しています。」
25歳。5年勤務したが、基本給が安い安い。時給換算すると、最賃云々の話ではない。
「それでも、不満があったわけじゃないです。格好つけているわけじゃなく、お金じゃなかったですね」。
たしかに給料を判断材料にしていたらすぐに逃げだしていたに違いない。
昭和のこととはいえ、年3日はあまり聞いたことがない。
「でも、たのしかったです。やんちゃ仲間をみんな巻き込んで、あそびのようにして、みんなで仕事をしていました」。若い仲間がエネルギッシュに仕事をする。
年間の休みが3日間だけだったとしても、そりゃ、たのしかろう、というものだ。
もちろん、こちらでの修業は金子さんの自信になる。20代で、12店舗のマネージャーになり、人事から仕入れ、板前の管理まで任されていたそうだ。
「父親がからだを壊して、店をたたむという事になったので、父親が経営していたビルの1Fにあったお店を全面改装し、仕出しの「湯島半之助」を3人でスタートしました」。
<それが始まり?>
「そうですね。マネージャーを務めていた会社を辞めて、1年ちょっと『夢櫻』という会社でお世話になったあとに独立です」。
<いかがでしたか?>
「けっこう繁盛しました。貯金は800万円くらいで、あとは金融機関から融資していただいてのスタートです。その頃から、一品で勝負したいというのが頭にあって。それでスタートしたのが、『金子半之助』です」。
<お祖父様の『天丼復活論』ですね?>
「そうです。もともと、油と小麦というのが頭にあったんです。今で言うとガッツリ系ですが、ラーメンだって、ハンバーガーだってそうでしょ。でもラーメンはともだちがしていましたし。そんな時、祖父のレシピをみて、『天丼復活』が、孫の私のミッションのように思えて、当時、まだそうなかった天丼専門店を始めます。祖父のレシピ通りのタレもつくっています」。
ストーリーをつむいだ。
「ブランディングの一つですが、老舗も、そうですし、『日本橋』もストーリーをつむぐ上では重要なロケーションでした」。
「粋で、豪快」。
これは、お祖父様の人柄そのもの。お祖父様を知る人から、リサーチした結果、浮かび上がった一言でもある。「金子半之助は、祖父をモチーフにしたような店です」。
<だから、粋で、豪快?>
「そうですね。今や世界にも広がっています。その原点です」。
なんでも天丼は880円、味噌汁は100円と、1000円出して20円のお釣りがくるという料金設定。浅草の半額と決めていたそうだ。
「粋で、豪快だから」と3日間、1日300食を限定に、無料でふるまったそうだ。
「たまたま日本橋が生誕400年ということもあって、かなり評判になって、川崎ラゾーナの出店のオファーが来て、そのあと木更津やお台場とつづきます」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)