in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社とんでんホールディングス 代表取締役社長 駒場雅志氏登場。
本文より~日債銀に就職するまでの話。
1959年、生まれ。
サッカーが盛んな浦和で過ごしたこともあって、小学校からサッカーを始め、中学でも、同様にサッカーをつづけている。皇帝ベッケンバウアーが、日本でも人気があった頃の話。
「1970年代ですから、サッカーをする少年は少なかったですね。私は一時、サッカーが盛んな浦和に住んでいたので、縁があった。ただし、サッカーは中学までで、それ以降はスキーです。スキーは親父が好きだったので、私も大好きなスポーツでした」。
ちなみに、お父様は銀行員。
「当時は土曜も仕事で、休みは日曜だけだったのに、時間をつくってよく連れていってくれたな、と今になって感謝しています」。
駒場さんも、いそがしかったにちがいない。
中学受験。
「慶應義塾大学の付属中学に進み、大学まで、おなじ慶應です」。
「個性的でユニークな友達ができた」と目を細める。もうウン十年も前の話だが、今も付き合いのある友達も少なくないそうだ。
「経済的に恵まれた子どもたちがやはり多かったですね」。
大学を卒業したあと、駒場さんは、日本債券信用銀行(日債銀)に就職している。日債銀とは、かつて日本にあった金融機関の一つである。バブル経済の崩壊で、破綻に追い込まれていたが、そのDNAは、現在の「あおぞら銀行」に引き継がれている。
官庁へ出向、頭取秘書、そして、経営破綻を経験。
その銀行時代の話もうかがった。
「印象に残っているのは、大きくふたつで、うち一つは当時の運輸省、今の国土交通省ですが、そちらに出向し、官庁の方々と一緒に仕事をさせていただいたことでしょうか」。
「違う飯を食べた」と駒場さん。
気おくれする性格ではなかったが、周囲は東大卒だらけ。省内は、まさに不夜城だったそうである。「深夜の3時、4時まで仕事がつづき、いったん帰宅して、また戻るといった生活です。仕事の針がまわりつづけるような、そんな世界でした」。
そのとき、駒場さんたちが行ったプロジェクトは今もかたちを残している。
「当時、東京の電車って、殺人的なラッシュだったんですね。その緩和もテーマの一つでした。鉄道事業者の方々とも会話して。じつは、あの時に、提案して実践したことが色々あって、例えば電車の開閉するドアの幅を広げていることです。ドアを広げることで、乗降がスムーズになるだろう、と」。
これが30歳、ちょい前のこと。駒場さんは日債銀からは、初の運輸省への出向者。銀行に戻った駒場さんは、しばらくして頭取の秘書に抜擢される。「これが、印象に残っているもう一つです。18年の銀行マン生活のなかでは、短い時間でしたが、頭取のちかくで仕事をさせていただいたことはとても財産になっています。色々と教えてくださった頭取には感謝です」。
庶民からすれば、大銀行の頭取といえば、雲の上の人。ある意味、大臣たちより、はるか上空の世界に住んでいる。話を伺って、TVドラマ「半沢直樹」が頭に浮かんだ。それくらい、フィクションの世界。
駒場さんもさぞ異次元の世界を体験されたことだろう。
「気遣いの仕方とか、しきたりや暗黙のルール、経営者としての心構えなどもありました。ただ、大変だったのは、このあとですね」。
勤めていた日債銀は、1998年12月に経営破綻し、一時国有化される。企画部に在籍していた駒場さんは、この処理に奔走している。
書類を抱え、所轄官庁に急いだこともある。時計は深夜の12時を指していた。
銀行を退職、飲食へ。
「色々な道があったのは、たしかです」。18年間勤めた銀行を卒業した駒場さんは、外食企業に転職する。
<飲食とは思い切った選択ですね?>と投げかけると、「コンサルなども頭にありましたが、今度は、事業会社に転職したかったんですね。ITの黎明期でもあったんですが、それと比較しても、食はわかりいい。経験がなくても、旨いかどうかはわかりますからね」とシンプルな回答。
新たな会社で6年勤め、不動産会社を経て、コメダ珈琲店を展開する「株式会社コメダ」に転職している。いずれも、経営者のちかいところで経験を積んでいる。「コメダ珈琲店」では、一時期、社長も経験している。つぎの社長が決まるまでのワンポイントリリーフだったそうだ。
「コメダ時代は、名古屋には単身赴任で10年半いました」。
「コメダ珈琲店」については今更、語るまでもないだろう。じつは、この飲食の戦士たちにも、歴代の社長にご登場いただいている。
当時抱いた「コメダ珈琲店」の印象についてもうかがった。
「お話をいただいた時は、面白い会社だなという印象でしたね。もちろん、創業者ともお話させていただきました。当時は、まだ個人商店時代の面影が残っていたように思いますが、そのぶん、組織化するだいご味もある。そういう意味でも面白さを感じました」。
直営店は数店舗で、大半がフランチャイズ店。駒場さんは、本社で経営の舵をとる。経営企画、広報、IRと豊富な経験をもつ駒場さんは、オールマイティに活躍されたにちがいない。ただ、転職した当時の仕事は16時まで。「超ホワイトですね。16時になるとピタリと終了。残業一切なし、オフィスからでてけ、ですから、ロックアウトですね(笑)」と笑う。
「とにかく、無駄なことにお金をかけないんです。冷房だって、なかなかかからない。だから、みんなうちわ片手に仕事です(笑)」。
<銀行時代のお話と比べると16時終了というのは、天国ですね?>
「そうですね。創業者は、食べ歩きもお好きで、私も食べるのは大好きでお供をしたこともあるんですが、なにしろ16時でしょ。私にすればまだお昼です。食事をして、お見送りしても、まだ19時。宵の口です(笑)」。
銀行時代と比べると、いわば別世界。どんな世界が、広がっていくんだろう?
「コメダ珈琲店」退職、新たな舞台は北海道生まれの「とんでん」。
「コメダ珈琲店は、カフェと比較すると、たしかに昔ながらの喫茶店。シアトルコーヒーでも、スターバックスでも、タリーズコーヒーでもない。ただし、ファンも少なくない。じつは、私も、ファンの1人。スマホを手放し、用意されている新聞や雑誌を手についつい長居してしまう。カフェではこうはいかない。
さて、駒場さんは、やるべきことはすべてやったと「コメダ珈琲店」を卒業する。
新たな舞台は「とんでん」。10年と半年にわたる「コメダ珈琲店」生活と同時に単身赴任にも終止符を打つ。転職の理由の一つに「自宅のある東京をベースに仕事をしようと思った」ことを挙げている。
「とんでん」に、転職したのは2019年。60歳の時。
「現会長、当時は社長ですが、なんどもお話させていただいて、『この人となら』というのが、『とんでん』を選択させていただいた理由です」。
ポストは、副社長。転職して、すぐにコロナが襲う。「だれも、わからない未知の世界ですよね。私どもも、どん底の数字になりました」。
経験則が、何一つ通用しない。こういう時は、人間力が問われるのだろう。
「会長が先頭に立ってくださってね。私も、転職したばかりでしたが、会長に従って奔走しました。逃げだすわけにはいきません。『とんでんは、郊外型だから影響は少なかっただろう』という人もいますが、都心型も、郊外型もいっしょです。テイクアウトのバラエティを広げるなど工夫を重ねて、なんとか、なんとか」。
2人して、ピンチを経験したから尚更だろう。
「現会長とは、もはや、阿吽の呼吸で物事を進めていける」という。
社長になったのは2024年4月。インタビューさせていただいたのは、社長になられてまだ数ヵ月の時。
コロナも落ち着き、飲食には、新たな世界が広がっていく。名店「とんでん」はどうなっていくんだろう。これからは、駒場さんのハンドリングにかかっている。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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