2024年10月22日火曜日

株式会社バルニバービウィルワークス 代表取締役社長 石倉 治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バルニバービウィルワークス 代表取締役社長 石倉 治氏登場。

本文より~

野球少年。

小学1年から野球をはじめ、高校3年まで続けている。高校では1年からベンチ入りする期待の新人だった。
「とにかく、小学校と高校の監督がものすごく厳しくて、親父より怖かったです」と、石倉さん。
とりわけ高校は地獄。だれかがなにかをやらかすと連帯責任。休みはほぼなし。ナイター設備があったので、夜9時まで練習ができる。ルールを誰かが破るとみんなで丸刈りだった。
石倉さんは副キャプテン。リーダーシップはその頃から代名詞になっている。
「監督は厳しかったですが、理不尽なことをいうような人ではなかったです」。
ちなみに、石倉さんは、100mを11秒で駆け抜ける。
高校は日大の付属。野球の推薦ではなく堂々と学力で進学した。大学もエスカレーターではなくテストに合格しないといけなかった。
結果、文系では偏差値トップの法学部新聞学科に進んでいる。
監督からは、『野球推薦で大学も無くはないぞ』と言われたそうだが、きっぱり断っている。

アルバイト先は、大手飲食チェーン店。

大学は大宮キャンパスで1年、2年からは水道橋キャンパスへ。マスコミ志望。
「1年の時は単位を取れるだけ取って遊んでばかりいましたが、2年になって少しずつ将来のことも考えはじめ、当時はマスコミが頭にあったので雑誌社でもバイトをさせてもらいました。ただ、広告を取って記事を書け、みたいな感じで。この時自分に営業マンの才能がないことに気づきます(笑)」。
アルバイトの定番大手居酒屋でも働いた。その後とある大手飲食会社店が横浜に新店をだすタイミングで入り、期待を背負い研修で銀座店に出向させられている。
「これが一つのターニングポイントですね。有名な大手飲食店の銀座店ですから、素人ながら期待して行ったのですが、研修を終えて横浜に戻ると案外、あれ?と思う事が多くありました」。
石倉さん曰く「開店してからしばらく経ち、業績があまりよくない状況が続き、社員のモチベーションが下がり、退職者が増えていくのを目の当たりにしていました」。
そのなかで石倉さんは、あれもこれもやらせて欲しいと働きかけた。だから、シフトもいつしか石倉さんのミッションとなる。
勿論、アルバイトの域はまだでない。

バイトリーダー、就職する。

「大学4年でバイトリーダーになって。タイミング的に就職ですよね。その時『店長やる?』と言われて、それもいいかな、と」。
どんなお店だったんですか?という質問の答えを聞いて目を丸くした。月商5000万円、スタッフだけで60人はいたそうだ。
「ホールが脆弱で、社員は私1人です。だから最初にホールの体制を改めました。アルバイトからやる気のあるスタッフをどんどん社員に登用して、彼らにホールを任せて、今度はキッチンです。もちろんイチからです」。
大手新聞社・広告代理店などに就職した大学の同級生たちとは、まるで違った。「給料もぜんぜん違いますしね(笑)。でも、飲食が好きになり始めていましたから、そこは救いだった気がします」。
父親からもきつく言われていた。
「そうなんですよね。最初、飲食店に就職すると言ったら、『なぜ水商売?』って。飲食がまだ低くみられていた時ですから。でも、最後に理解を示してくれて、ただ、『やるからには続けろ』と言われたんです」。
<何歳で転職されるんですか?>
「バルニバービがまだ関東に2~3店舗ぐらいだったタイミングですかね。年齢は29歳です。経営母体が変わったのが引き金になりました」。

佐藤社長と、江の島と。

「最初の1年は厳しかった」と石倉さん。1年目から、江の島にオープンする新店の立ち上げ店長に抜擢されている。
「社風の違いというか、バルニバービには比較的華やかなスタッフが多く、楽しいイベントが打てる、そんな人が活躍するイメージだったんですよね。もちろん、それはそれで社風として受け入れながらも、同じ飲食でもぜんぜん違うんだなと」。
自分には合っていないんじゃないかと悩んだこともある。だからといって簡単に辞めるわけにはいかない。
父との約束もある。それに、社長の佐藤裕久さん(現代表取締役会長CEO兼CCO)と、真冬のテラスで、何時間も面談して入社した経緯がある。
「直接、社長と話ができるような会社を希望していましたので、面接の段階から実現したわけですが」と石倉さん。
「実をいうと、佐藤さんが話っぱなしで。すごい構想をお話いただいていたように思うんですが、こちらはただただ聞きっぱなし。で、最後に思い出したように聞かれたんです。『で、どうすんの?』って。私が何をしに来たかを覚えてくださっていたんでしょうね(笑)」。
答えはもちろん、面接がはじまって数十分で決まっていた。給料は下がったが覚悟の上。
江の島にも引っ越している。が、何よりまだ社長の佐藤さんと仕事をしていない。
「江の島ですから、夏と冬でぜんぜん違うんですね。それも、初めての経験でした。だから新鮮でしたしある意味楽しくもありました。
ただ、店長をするために転職したわけではありませんから、どれだけはやく江の島の店を抜け出すかに私の未来がかかっていたんです」。
<宣言されたんですよね?>
「そうです。バルニバービの文化圏の人間らしく、『1000万円の営業利益をだす』と。『それができれば、次のステップに進ませてください』と」。
<どうなりました?>
「もちろん、実際に単月で約4000万円セールスして、1000万円の利益をあげました」。
<そのつぎが気になります>
「『3つの選択肢がある』と上司に言われました。当時私がいた『GARB』のSV、物件開発のポジション、新規事業の責任者の3つです」。
<もちろん…>
「ええ、ご想像通り、新規事業の責任者一択でした。社長とようやく仕事ができるわけですから」。
ところが。

12時間のミーティングとアスリート食堂。

社長といっしょに仕事ができる、それ自体は申し分ない環境だったが、スタートアップはなかなかうまくいかなかった。
「時には12時間くらいミーティングしていたんじゃないかな。佐藤から毎回、鬼神のような表情で、詰められました」。
「佐藤さんは0から1をつくる天才だ」という。「褒めることは滅多にないが、まだまだですが今は少しは認めてはくれているんじゃないかな」とも。
石倉さんは、厳しくされたがその時の経験と仲間がいて今がある、そして今になってわかることが沢山あると。佐藤さんは、人づくりにもたけている証。
<アスリート食堂は、この時の新規事業の一つですね?>
「鹿児島県にある、鹿屋体育大学の栄養学の講師からの依頼がきっかけでスタートしたプロジェクトです。そちらの大学の横に「アスリート食堂」が最初にオープンします」。
もう少し詳細にいうと、バルニバービ単体ではなく国立大学法人 鹿屋体育大学・鹿児島県鹿屋市からなる「産学官連携プロジェクト」。
ブランドサイトによると「食材の宝庫と評される鹿屋の良質な食材を用いて、鹿屋体育大学長島講師監修の『スポーツ栄養学』に基づいたメニューにより、これまでになかったバランス食を提供する食堂として鹿屋市に「研究開発本部」が誕生したのが始まりです」とある。
「同年には、東京に1号店となる本店をオープン。以来「アスショク」の愛称で親しまれ、多くの方々へバランス食を提供しています」とつづく。

・・・続き

株式会社バルニバービウィルワークス 代表取締役社長 石倉 治氏

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