in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トラスパレンテ 代表 森 直史氏登場。
中学1年、バブルが弾ける。
裕福だった。
武蔵野美術大学を卒業し、東京大学大学院に進んだという異色の経歴をもつお父様は、美術大学出身とは結びつかない不動産業を営んでおられた。時はバブル。不動産バブルに乗った会社は絶好調。大盤振る舞いの日がつづく。
ところが、バブルが弾けて事情は一転する。
森さんが、中学3年生の時の話。
「自宅もなくなり、一家は散り散りです」。動揺して何もできない。
「父は、能天気な人で頼りにならなかった」と森さんは笑う。自分が率先して動かなくてはいけなかった。住む場所がなく、母方の親戚の家で暮らしていたそうだ。
「あの時は、多くの親戚の方に迷惑をかけた」と森さんは苦笑する。
森さんが中学1年だから、1992年の話。バブルが崩壊する、まさに、その時。
森さんは1979年に東京で生まれている。
「勉強もまぁまぁできましたが、とにかく足が速かった」と、小学生の頃の話を聞くと、そういう回答。校内で1位。地元の大会でも、つねに先頭でゴールを駆け抜けた。
学校が終わると、父親の会社に遊びに行った。20人くらいの従業員がいたというから、さぞ可愛がられたにちがいない。
「小学生の頃は、不動産会社って面白そうだなって思っていました」と森さん。
そういうこともすべてひっくるめて反転する。
「高1の頃からファミレスでアルバイトをしていました」。「はたらくことが性に合っていた」という。ファミレスのほかに、父の仕事関連でアルバイトもした。ペンキ、内装、外壁塗装。こちらも案外、面白かったといっている。
高校になって親戚の家から離れ、父親が借りたビルで2年ちかく暮らしている。そのビルもある日突然、十数人が現れてすべての家財が差し押さえられ、出なくてはいけなくなった。まさに、波瀾万丈。ただ、そのなかで、小さな芽が育ち始める。
その昔、家族みんなで食卓を囲んだ、そのシーンが映像になる。バイト先のファミレスでテーブルを囲む家族を観て、森さんは、微笑んでいたにちがいない。
森さんは、そういう人。
ケーキ職人、偏差値60。
「高校を卒業して、調理師免許を取得できる専門学校に1年半通います。その後、ホテルに就職してケーキのセクションではたらきます。ケーキには興味がなかったんですが、やってみると案外、楽しい」。
ただし、料理人になるという志を捨てきれず、イタリアレストランに転職。ケーキを担当しながら仕込みもサポートした。
「でもね。向いてなかった。いのちを奪うような作業が苦痛だったんです」。「前菜は、楽しかったんですけどね」と苦笑する。
ただ、ケーキと覚悟が決まったのは、その後。
「ある日、先輩に『森は、ケーキなら偏差値60くらいある』って言われたんです。『ただね。63あたりからレベルを上げるのが難しくなるよ』って」。
まっすぐな青年を動かすシンプルな言霊だった。
「あの一言で、ケーキで行こう」と。
まだまだ極める価値があると思ったに違いない。
これが、森さん、22歳の時の話。
「父親をみていましたが、サラリーマンにはなりたくなかったですね」。お父様を観られていて、怖くはなかったですか?と重ねて、不躾な質問をすると、「いいえ」ときっぱりと否定する。
そして、「20歳の時には、店名まで決めていた」という。
朝5時に家をでて、深夜2時に帰宅する。そんな生活がつづいた。じつは、森さんは早くに結婚している。ほぼ自宅にいなく、奥様にも負担をかけてしまった。
すべて背負って、イタリアへ渡る。
「精神的に負担をかけたこともあって生活をかえないといけないと思って。私自身の仕事も一区切りついたタイミングだったので、思い切ってイタリアに渡ります」。
お金が潤沢にあったわけではない。片道キップ。「向こうで仕事をしないと、帰国もできなかった」と森さん。幸い、すぐに仕事はみつかった。
「2人ともイタリアに渡りました。妻は語学学校にいって、私も仕事がみつかります」。
厨房に入るといきなり「ショーケースに並べるケーキをつくれ」と言われたそうだ。仕事のことなら言葉もわかる。パティシエ森のケーキが、イタリアで初披露され、ショーケースを飾る。
イタリアでの生活はいかがでしたか?とたずねると「生活環境も変わり、私自身も仕事ができたんで悪くはないというか。けっきょく、4年ちかくイタリアで生活をします」。
たいへんなことはなかった?
「そうですね。ある時フィレンツェの2つ星レストランのシェフが声をかけてくれたんです。『ボローニャに新店をオープンするから手伝ってほしい』って。それでボローニャに行くんですが、工期が半年ほど遅れて無職になってしまいました。あの時は、たいへんと言えばたいへんでした。観光地のボローニャは、その頃、閑散期で仕事がありません。だから、皿洗いをしていたんです」。
ブラジル、パキスタン、インド、さまざまな国の人が居た洗い場は、異国の世界。
「とにかく、たいへんな世界でしたね。差別もあった」。
森さんが「これを乗り越えたら、もうなにも辛くない」と思ったくらいだから、相当、きつい差別と、狡猾な世界だったんだろう。それでも、森さんは下を向かない。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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