2024年11月5日火曜日

東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏登場。

本文より~

19歳の店長、24歳だと、サバを読む。

「19歳でレンタルビデオショップの店長になった」と笑うのは、今回ご登場いただいた東京レストランホールディングス株式会社の代表、石川成秀さん。
今回インタビューさせていただいたのは、2024年7月だから、57歳になられたばかり。初めて店長になってから、もう40年ちかく経っている。
「早く社会にでたかったのと、パソコンに興味があったので高校を卒業してすぐにパソコン関連の会社に就職しました。その会社の副社長がレンタルビデオショップを始められて、19歳だった私が店長に抜擢されたわけです」。
地域最大級の大きさで、駐車場を含めると100坪はあったというから、かなりでかい。
「ビデオを仕入れるだけで、数千万単位にお金がかかりましたが、レンタルビデオの走りで、大人気でしたから回収も早かったです。波に乗って、いっきに6店舗までオープンします」。
埼玉に3店舗、都内の足立区と墨田区に3店舗と、つぎつぎと新店がオープンしていったらしい。そのすべてを石川さんがコントロールしていた。その時で、若干、22歳。
ただし、27歳と思い込んでいたスタッフもいたかもしれない。何しろ、店長になったのは、19歳。「私より年上のスタッフばっかりだったから、24歳って誤魔化していた」そうだ。

レンタルビデオショップ。

「小さい頃は、生き物が好きだったので、そっちの仕事に就きたかったんですが、ちょっと食べていけるイメージがなかったので(笑)」。
石川さんは、やさしげな表情でそういう。出身は千葉県千葉市。4人兄弟の3男。お父様はスクラップの買取販売をされていたそうだ。
小・中はサッカー。「走ってばかりだから、高校からは陸上に転向した」と笑う。そして、高校卒業後、すでに記載した通り、パソコン関連の会社に就職し、副社長に気に入られ、1年後にレンタルビデオショップの店長に抜擢される。以来、42歳になって会社を退職するまで、石川さんは実質トップとして、このレンタルビデオショップの運営を行っていくことになる。
気になったので調べてみると、石川さんが店長になった1986年は、レンタルビデオのマーケットの黎明期。当時はオープンすれば、客でにぎわったそう。ただ、2000年代に入り、セルDVDの価格が下落したことなどを背景に、レンタルのマーケットは縮小していく。
今や、映画もネットで観られ、購入もできる。ずいぶん、時代も進化したものだが、その一方で、レンタルビデオショップは姿を消していく。ただし、石川さんが退職することになったのは、時代の移りかわりだけが理由ではないらしい。
「実は、私の母親がお好み焼きのお店をオープンするんです。それが一つの転機になりました。同時に、若い世代につぎのステージを渡してあげたくて、会社を卒業することにしたんです」。
お母様は60歳になってお店をオープンされたそう。会社を畳まれたお父様と二人三脚だったらしい。母の思い切った行動が石川さんの背中を押したのかもしれない。

いきなり、社長に抜擢される。

「ショップの運営を長くやってきましたが、飲食店の経営は初めてでしょ。それで、すでに飲食店を経営している知人に相談したんです。それが東京レストランホールディングスのオーナーだったんです」。
オーナーと石川さんは同年代。話も合い、石川さんは、すぐに社長に任命される。「最初は、ただ勉強させてもらうだけのつもりだったんですが」と石川さん。
すでに社長になって、15年になる。店長にも、社長にもいきなり登用された石川さんだが、そこに石川さんに対する評価が表れている気がする。
「最盛期は、焼肉店が10店舗。今は、焼肉、レストラン、ケーキショップで、実質8店舗ですね」。ホームページをみると、おしゃれなレストランが登場する。
「恵比寿 SO-TEN」。こちらは、和風モダンをコンセプトにした5階建てのレストラン。グルメサイトの評価点も高い、高い。「Mancy's Tokyo」。こちらは、ナチュラルなイタリア料理を楽しめるカフェレストラン。食事だけではなく、カラオケも楽しめる。
ホームページによると、「最新のカラオケをはじめとした様々なファシリティを備えたラグジュアリールームからなる、全く新しいTOKYOの『アソビバ』」が、コンセプトとのこと。
大人びたラグジュアリールームのイメージだが、本日のランチをみると、お子様用のボロネーゼ(鷹の爪、黒胡椒抜き)があって、なぜかほっこりした気分になった。もちろん、こちらも高得点を獲得している。
ちなみに、「Mancy's Tokyo」は、あのマハラジャの跡地にあるらしい。

・・・続き

東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏

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有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。

本文より~

少年時代に、はやくも独立を志す。

徳島県、出身。もともとお父様が徳島で和食店を経営されていたそうだが、増田さんが小学低学年の時に渡米。サンノゼで鮨屋をオープンされたそう。
父親の影響だろうか。少年時代から独立を志していたという。
「小学校の低学年の頃にはもう独立する気満々でした。算数や数学は独立に役立つと、それだけはちゃんと勉強していたくらいです」。
「高校はすぐに退学しています。このままだと流されてしまうと思ったからです。そのあと、居酒屋に就職します。父にも呼ばれてアメリカにも行きました」。
3ヵ月くらいいたそうだが、「アメリカはちっとも面白くなかった」と笑う。
「父は私にアメリカの店を継がせたかったようですが、言葉も全然、しゃべれないのに、そりゃ無理ですよね」。
数学だけじゃなく、英語もいるとは、さすがに想像外。もっとも心が動かなかったのは、父の店を継ぐつもりがなかった証。
ちなみに、徳島にあった和食店は、お母様が引き継がれたそうだ。
「小さい時は野球をしていました。ピッチャーかショート。キャプテンも務めていました。高校は、飲食の免許が取れるとの触れ込みだったので、そちらの高校に進んだんですが、さきほど言ったように、すぐに退学します。2週間しかいなかったです。入学してすぐに、この学校に3年通ったら、絶対、遊び人になってしまうと思ったからです(笑)」。
中退というレッテルは気にならなかった。中卒も、高卒も、大卒も経営者には関係がないからだ。

少年、東京へ。

海の向こうから、そんな息子をみて、お父様はアメリカに誘われたんだろう。増田さんが17歳の頃の話だそう。
ホームページで増田さんは、<私は実家が和食料理屋だったということから、自然な流れでこの世界に入りました。15歳から徳島、そして大阪で修行生活を送った後、ご縁があり19歳で東京に出てきました。>と綴られている。
大阪というのは、食い倒れの街のど真ん中、心斎橋。
「じつはその頃から、ちょくちょく東京に遊びに来ていたんです」。まだまだピュアな青年。「東京には、観たこともないようなレストランやカフェがあって、もう最高でした。それで、たまらなくなって、東京へ移住します。19歳の時です」。
<その時に出会ったのが「魚真」ですか?>
「そうなんです。有名な魚屋さんの飲食部門で、私はその『魚真』に就職します。父や母の背中をみて、飲食に惹かれ、独立を志しました。修業もしました。ただ、私の今の原点はというと、こちらの『魚真』です」。
増田さんが修業していた時から、かなり経つが、「魚真」さんは今も元気に経営されていて、都内に数店舗をオープンされている。さすが、魚屋の飲食部門、グルメサイトの評価点はすこぶる高い。

次の道探し。

「合計8年お世話になりました。社長が目をかけ、かわいがってくださいました。もう感謝しかないですね。『魚真』を選択した理由ですか? それは、たまたま下北沢を歩いていて。ちょうど魚を勉強したいと思ってたタイミングだったので、ここがいいかな、と。ほんと、偶然だったんです」。
<いかがでした?>
「むろん、勉強になりました。1年くらいで原宿に異動になります。東京なんて、徳島生まれの私からすれば、異国です。なかでも原宿ですからね。ただ、ネオン街の下でも、ちがった道に進まず、料理に真剣に向き合えたのは、やはり『魚真』だったからじゃないでしょうか。」
<それだけ仕事に魅了されたということですね?>
「そうです。『乾いたスポンジ』って、よくそういう表現をされると思うんですが、まさに、その通りで、吸収の8年間だったと思います」。
<少年時代から目標だった独立はどうなりましたか?>
「独立はもちろん、忘れていません。25歳で独立をめざしていたんですが、若くみられたのか、どこの不動産に行っても相手にされません。当時は、ネットなんかない時代です。だから、あっちの駅で降りて、こっちの駅でも降りて。まぁ、それも宝探しなんですが、みつけても若造だって相手にされない。それで、先に法人を設立しました」。

魚真からの独立。

さて、ここからが、今回の本番。
増田さんは28歳で、「魚真」から独立。自由が丘に創業店をオープンする。すると、初月から月商600万円を叩き出す。「600万円から翌月には700万円、さらに800万円となり、1000万円をオーバーするようになりました」。
22坪40席、家賃63万円。
「私のプランでは、2000万円は必要だったんですが、銀行、公庫を合計しても1000万円くらいしか貸してもらえませんでした。でも、もうあとにはひけなくて。じつは魚真の社長から800万円お借りしました」。
社長に相談すると、すぐに貸してくださったそうだ。もちろん、恩人からお借りしたぶん、プレッシャーはでかい。「半年は1日も休まなかったですね」。
<ふんばりどころですものね?>
「そうです。当時、自由が丘には、それほど多くお店がありませんでしたし、若い兄ちゃんが魚を巧みにさばいて、ライブでお出しするようなお店もなかった。それが、功を奏したんだと思います。社長にお借りした800万円はすぐに返済できました」。
<2年目には2号店をオープンしていますね?>
「55坪85席くらいで、個室を多くしました。家賃は150万円。ただ、私が新店をカバーすると、本店の業績が下がります」。
「月商300万円まで激減した」というからヤバイ。やはり、飲食はシステムではなく、人なのだろう。その一方で3店舗目を目黒にオープン。業績が落ち込んだ本店は、沖縄料理に業態変更する。
「最初は、さらに下がったんですが、しばらくしてV字に回復します」。
うまくいかなくても、ひるまない。類まれな行動力で突破する。

・・・続き

有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏

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