in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エレキング 代表取締役 瀬山剛史氏登場。
父はイタリアレストランのオーナーシェフ。
「カエルの子は、カエル」と今回ご登場いただいた株式会社エレキングの社長、瀬山さんは笑う。なんでもレストランのオーナーシェフだったお父様をみて「飲食店の経営者だけにはなるまい」と思っていたそうだ。
「父親は私が3歳の時に大和証券を脱サラして、イタリアレストランを開業したそうです」。レストランは繁盛して、ご両親ともに仕事に追われていたそう。
「キャッチボールをしてもらったことがない」と瀬山さん。瀬山さんはサッカー少年だったが、試合を観戦してもらったこともないそうだ。ただ、年に数回、旅行には連れて行ってくださったようだ。もっとも瀬山さんに言わせるとそれも「罪滅ぼし」となる。
とはいえ、旅行先はハワイやグアムなどだったそうだから、贅沢な話。
「イタリアンと言っても、呼び方がパスタじゃなく、スパゲッティだった頃です。当時としてはなかなか珍しい本格的なイタリアンレストランでした」。
レストランは幹線道路沿いにあったそう。ともあれ、カエルの子は、親カエルの下でスクスクと育っていく。
大学時代、飲食店出アルバイト開始。
「高校も、大学も12月には決まっていた」と瀬山さん。瀬山さんが進んだのは日本大学の準付属の高校。
「中学時代は生徒会もしていました、サッカーでもけっこういい成績を残していたんで、実は推薦で公立にも行けたんですが、そこが父親と一緒の高校だったので。だったら日大の付属高校でいいやって(笑)」。
お父様にすれば、少々、残念な話かもしれない。
ちなみに、瀬山さんは高校1年までピアノを習っている。音楽祭で演奏もしたことがあるそうだ。
高校を卒業した瀬山さんは、そのまま日大に進学する。
「大学は水道橋校舎です。志村坂上に住んで飲食店でアルバイトをしていました」。
「飲食店は賄いがあるから」と笑う。大学2年になって、新たに神保町でバイトを始める。「洋風居酒屋で、こちらでオタマジャクシがだんだんと孵化します(笑)」。
なんでも、洋酒にも興味が出て、本人曰く「すっかり飲食にハマってしまった」そうだ。だから、気づいた時には「就活の時期も終わりにちかづいていた」と笑う。
当時は笑い事ではなく、「やべぇ」と思わずつぶやいたそうだ。
銀座のネオンの下、酒と、笑いと、コミュニケーションと。
「バイトでお酒に魅了されたこともあって、酒造メーカーに就職します。ただ1年足らずで退職し、大学時代のバイト先に戻ります」。
瀬山さんが就職したのは1998年4月。就職先の酒造メーカーは、今では有名な酒造メーカーの一つ。
「ただ、当時は今ほど知られていません。私は、長野県を担当するように言われました。当時の長野県はオリンピック直後でフリーズしたような状態でした。だから、全然、仕事も面白くない。もう一つ言うと、酒造メーカーですからね。私自身がおいしくないと思っているお酒でもセールスしないわけにはいかないでしょ」。
そういうことが重なって、その年の12月には退職の道を選択する。結果的には大学時代のバイト先の仕事が楽しかった反動でもある。
銀座のど真ん中。カウンター越しに、お客様の心を掴む。面白くないわけがない。
「昔のバイト先に2003年までいて、そのあと、ある内装工事の会社に転職します。内装工事の会社と言っても、私が応募したのは飲食部門です。2号店がオープンする時に採用していただきます」。
なんでも、面接は不合格だったそう。だが、社長から直接、電話が入り、不合格と伝えられたあと「2号店をオープンする時には声をかけたい」と言われたそうだ。
「本当にかかってくるとは思ってなかったから、びっくり。すでに違う会社に就職していたんですが、二つ返事で『お願いします』と言いました」。
瀬山さんは、この時の社長を、人生の中でもっとも影響を受けた人物の1人に挙げる。
毎年、10万円の給料アップ。
「仕事もむちゃくちゃ楽しかったです。2号店がオープンしたのは銀座で、業態は『焼酎バー』です。給料は下がりましたが、そこじゃなかった。コンセプトは決まっていましたが、棚に置くお酒、お料理のメニューも全部、私に任されました。私自身は料理ができなかったので、前職で知り合った料理人を引っ張ります」。
「社会に出たら結果がすべて」。
これは初めて就職した会社で先輩から教えられた、社会のセオリー。結果をだすため、瀬山さんは夕方から朝まで休みなくはたらいた。
いったん下がった給料はまたたくまに上昇し、すぐに逆転する。1年ごとに10万円ずつアップしたそう。
「2号店の店長からのスタートです。翌年には本部勤務になり、4年で40店舗ちかくをオープンさせました」。
業態も多岐にわたったが、そのほとんどの業態の立ち上げにかかわった。
業績は好調。ただ、好調な業績を背景に、オープンを急ぎすぎたのか、少しずつ歯車が狂い始める。このとき瀬山さんは、オープンと同時に、「クローズすることの重要性を知った」と言う。これもまた、瀬山さんの流儀の一つになっていった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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