2024年12月3日火曜日

株式会社スタイルズ 代表取締役社長 堀江武吉氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社スタイルズ 代表取締役社長 堀江武吉氏登場。

本文より~

小学生、氷上でスティックをにぎり、パックを追いかける。

アイスホッケーというと北国のスポーツだと思い込んでいた。今回、ご登場いただいたスタイルズの堀江社長は広島県で、小学1年生からアイスホッケーを始めている。気になって調べてみると、南国の沖縄にもアイスホッケー連盟なるものがあったから、アイスホッケー=北国というのは、私の思い込み以外なにものでもなかった。
ただ、アイスホッケーが盛んな北海道の苫小牧などを除けば、競技人口は少ない。堀江社長も「大人といっしょに練習していたから、子どもだからって手加減はなかった」と笑う。
ちなみにアイスホッケーは、ワンチーム6名。スティックをにぎり、滑りながらパックを追いかけるスリリングなスポーツ。氷上の格闘技と言われている。防具も重く、一般用だと10キロもある。いずれにしても子どもにはたいへんなスポーツだ。
堀江社長も大会にでたというので、もう一度調べてみると今年(2024年)も、苫小牧で大会が行われていた。もちろん、広島県も参加。ちゃんと「少年の部」もあった。
「たまたま母親について行ったボウリング場に併設されたスケートリンクでアイスホッケーをしていて。それをみて、かっこいいなと思ったのがきっかけです」。
以来、高校までクラブチームでアイスホッケーをつづけている。ポジションは、ゴールキーパー。
父親は11人姉弟の末っ子。母親は、アマチュアだがボウリングの選手で、全国的な大会にも出場されている。
堀江社長は広島市の白島町生まれで、一人っ子だそう。白島町は、広島城下町に位置する町である。

アイスホッケー、サッカー、器械体操、サーフィン、好奇心は止まらない。

高校を卒業した堀江社長は東京の大学に進学する。「これが一つのターニングポイント」とのこと。ただし、東京の大学を選択した理由は至ってシンプル。
「バク転したかったから高校から器械体操を始めます。アイスホッケーもつづけていました。そして、もう一つ、高校3年生からサーフィンを始めるんです。サーフィンといっても瀬戸内海には波がないから、ともだちの兄に日本海に連れていってもらって。でね、サーフィンの雑誌をみてると、湘南とかがでてくるんですよ」。
<それで、東京へ?>
「広島からだと、ふつう福岡か大阪なんですけどね(笑)。1年浪人して関東学院に進みます。大学時代はバーミヤンなど飲食店でバイトをします。私の飲食の原点ですね。明治大学に友人がいて、アイスホッケーも同好会でつづけます」。
<活発な学生生活ですね?>
「東京にでてきてよかったのは、基本、あそびを通じてですが、いろいろな友人ができ、ネットワークが広がったことですね」。
サーフィンに、アイスホッケーに、バイトに、勉強を少々。小学校からはじめたアイスホッケーをつづけながら、中学はサッカー、高校は、器械体操とサーフィン。スポーツのキャリアは多彩の一言。
好奇心が止まらない。
様々なスポーツに挑戦することで人格が確立し、ネットワークが広がっていった。

異動先は、店舗開発。

大学を卒業した堀江社長は、カフェ・ド・クリエを運営するカフェチェーン「ポッカクリエイト」に就職する(現在、ポッカクリエイトは解散し、C-Unitedがカフェ・ド・クリエを運営している)。
「同期は10人。ただし、男性は私1人だった」と笑う。女性9人のなかで、男子1人。
「初めはカフェ・ド・クリエの桜木町店に配属され、店舗業務を務めます。大学時代のバイトを通じて、飲食っていいなと思っていたので、店舗業務の仕事はたのしかったです。ただ、しばらくすると『本社に来て、店舗開発をやれ』ってなるんですね(笑)」。
これが、もう一つの始まり。もう一つのターニングポイントだ。
ミッションは<1日100件の不動産を回り、名刺交換をする>こと。名刺が猛烈な勢いでなくなり、なくなった分、ネットワークが広がっていく。
「ポッカクリエイトには4年務めました。不動産関係のネットワークもそうですが、異業種交流会で、同業の部長さんや課長さんにお会いして、その方々と情報交換することで横のつながりが生まれました」。
「ただ、カフェ・ド・クリエは間口が広くって、フランスのカフェのように外に席を設けられる物件という条件があったので、クリアする物件自体ごくわずか。しかも、ファストフードや牛丼、ラーメン店などの競合もおなじ物件を狙ってきます。だから、じつは、実績を残していないんです」と苦笑する。
このあと堀江社長は、かつて隆盛をほこった飲食チェーンのタスコシステムに転職。テイクアンドギヴ・ニーズやエスクリといった企業も経験する。
もっとも仕事内容は、店舗開発一筋だ。
いずれの企業もタイミング的には絶頂期だったらしい。しかし、最初の2社と、3社目からは業態もずいぶん異なっている。
<どうして、ブライダル業界へ?>という疑問が浮かんでくる。

好奇心がいざなう。ブライダル業界へ。

「きっかけは人材紹介会社さんからのアプローチです。話を聞いて、え、結婚式場?ってなるじゃないですか。分野がちがいますからね」。
<でも、興味がわいた?>
「そうなんです。分野がちがうから、逆に好奇心が刺激されて。結婚式場の開発ってどんなんだろう?って。でね、面接に行くと知人がテーブルの向こうに座っていて。『よう、久しぶり』って(笑)」。
<面談されたのが、お知り合いだったんですね?>
「学生時代からの知人でした(笑)」。
さすが、ネットワークが広いだけある。
ポッカクリエイトにも、タスコシステムにも4年程度いたから、テイクアンドギヴ・ニーズに転職したのは、30歳くらいのとき。
「テイクアンドギヴ・ニーズからエスクリに移るんですが、この2社での経験は今に直接つながっています。テイクアンドギヴ・ニーズには4年程度、エスクリには1年半くらい。そして、スタイルズを設立します」。
話を先に進める前に、スタイルズについて少し説明しておこう。
スタイルズは現在、岡山、京都、名古屋、横浜で、ブライダル会場と、そこに併設したレストランを運営している。ホームページで確認いただくと話ははやいが、いずれも晴れのひと時を演出するにふさわしい造りになっている。

独立、スタイルズ設立。

設立までの経緯も気になるところだ。
「ウエディング会場の開発などをしていましたら、ますます交友関係もネットワークも広がります。そのなかでブライダル関連の事業をされている方と知り合い意気投合し、資金のサポートを受け独立します。また、不動産関連のネットワークもあって、岡山の物件を紹介いただきました」。
<岡山駅ちかくのランドマークの最上階ですね?>
「そうです。クレド岡山という大型ビルの最上階、式場だけで1フロア・300坪以上ありました。そちらが創業店となります。ロケーション的にも恵まれていましたし、当時はまだ、今のようにカップルも少なくなかったので(笑)」。
半年後には京都に新たな会場をオープンしている。こちらは、京都東山にたたずむ和の邸宅。投資額は創業店と比較しても格段にアップしたが、それに見合う売上を叩き出すことになる。
タイミングもよかったのだろう。画一化された結婚式とは異なる、ユニークで、おしゃれな式がブームになっていた頃だ。
<その後、名古屋、横浜ですね?>
「5年後に名古屋かな。じつは、京都から名古屋までの間にイタリアンのレストランをするんですが、これはちょっとうまくいかなかった」と笑う。
「慢心していたから」と笑われていたが、それ以外に特に躓いたことはなかった。経営者としてのセンスと手腕が、いかに優れているかを表していると言えるだろう。
だが、一つ、先行きがみえなくなったことがある。コロナ禍だ。

・・・続き

株式会社スタイルズ 代表取締役社長 堀江武吉氏

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株式会社雪ノ下 代表取締役会長 近藤正文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社雪ノ下 代表取締役会長 近藤正文氏登場。

本文より~

サルサのリズムにのって。

村上龍の小説を読んでサルサダンスに興味をもったという。たぶん「Kyoko」。日本人の女性が「音楽とダンスの国キューバ」へ向かい、青年と旅をする小説。自身で綴られた年表では「1996年、当時最年少でキューバンサルサのプロダンスチームに所属」とある。
調べてみると、サルサダンスはペアダンスで、キューバ音楽をもとに1960年代頃にニューヨークで生まれたそう。
ステップにちがいがあって、キューバンサルサは、とくに個性的なステップを踏むそうだ。
ユーチューブで検索すれば、だれもが一度は聴いたことがある軽快なリズムが流れだす。ラテン特有のダンサーの熱量が伝わってきた。
さて、今回は、そんなサルサに魅せられ、のちにダンス教室も主催することになる、現「雪ノ下」の代表、近藤さんに話をうかがった。

喧嘩と、簿記と、パソコンと。

近藤さんは、1976年、堺市に生まれ、東大阪で育っている。お父様は、経営センスがおありだったのだろう。おじい様から譲られた豆腐店を長崎屋(当時あった大手のスーパー)に出店。手広く経営されていたそうだ。
兄弟は3人。近藤さんは長男。小さな頃から格闘技を習っていたという。
正義感が旺盛すぎたのか、大人しいともだちをからかう奴がいれば、近藤さんの拳骨がとんだ。「ちょっかいかけてきたら、どつく。それだけ」と近藤さんは笑う。
他校にも名前が轟いていたようで、バイクで学校に乗り込み、グラウンドをぐるぐるまわっている少年たちから、「コンドーーー」「コンドーーー」と連呼されたこともあったそうだ。
そりゃ、こわい。近藤さんではなく、近藤さんの周りにいる生徒たちの心境である。もっとも、近藤さんは、眉一つ動かさない。ちょっかいだしてくれば、どつけば、それで済む。
「おかげで、先生たちにも目をかけられて、監視のつもりもあったんでしょうね、簿記を習わされてね。勉強は嫌いだったんですが、もともとロジカルな思考が好きで、簿記にはけっこうハマってしまいました」。
なにが幸いするかわからない。高校時代には教師に代わって、簿記を教えるまでになっていたそうだ。近藤さんが教壇に立てば居眠りはできない。船など漕いでいれば、たいへんなことになる。
「簿記と、パソコンかな」と近藤さん。
15歳の時からパソコンにハマって、自作のプログラムも作成している。「喧嘩」と「簿記」と「パソコン」。近藤さんの少年時代を表現すると、この3文字がキーワードになりそうだ。
ちなみに、最後のキーワード「パソコン」を仕事にするため、高校を卒業した近藤さんはコンピュータ専門学校に進学している。簿記では「全商1級会計」「1級工簿」を取得している。こちらは、のちに起業する際に役立ったにちがいない。

サルサとの出会いと、転々とする日々と。

1995年、近藤さんが29歳の時、長崎屋が民事再生となり、父親が経営していた豆腐店が倒産寸前に追い込まれる。
「それもあって、通っていた専門学校を辞め、ある大手音響メーカーに就職します」。
村上龍の小説を読んでサルサに心を動かされたのも、この年。才能があったんだろう。すぐにプロダンスチームに所属するようになり、無料でレッスンを開始するようになる。こちらがのちにダンス教室につながっていくのだが、これはまだ先の話。
近藤さんは、改めて簿記の専門学校に通ったのち、24歳で大手電機メーカーに転職し、経理を担当。2年後、海外転勤を袖にして、退職している。
「このあと、貸金業の会社に就職します。すぐに法務担当となって、裁判官や弁護士の対応までするようになります。ただ、私が担当していたお客様が、返済などを苦に亡くなられたことがあって」。
「返済より、日々の食事をちゃんとください」。
返済を迫るのではなく、自身を気遣う一言に、その方はいたく感謝されていたそう。
「その話を、ご子息から聞かされて、ご子息からも直接、感謝の言葉をいただいたんですが、あまりのことに言葉を失い、体調を崩してしまいました」。
「感謝の言葉をいただいたが、私のなかで整理がつかなかった」と近藤さん。「ストレスがいけなかったんでしょうね。間質性肺炎になって生死をさまよい、翌年には、三叉神経痛発症になります」。
心が痛む。仕事もできない。「職場に迷惑はかけられない」と退職している。
喧嘩もつよい。ちょっかをだされたら、すぐに、どつく。粗暴な少年時代はとうにすぎていたが、青年になっても近藤さんは、とことんピュアだった。

ダンス教室をオープン。

近藤さんが、貸金業の会社を退職したのは、30歳の時。「もう、好きなことをしよう」と、好きなサルサの教室をオープンする。
「たった16坪の小型のダンススタジオです。サルサの音楽とダンスが注目され、テレビ番組や女性ファッション誌にも取り上げられました」。
人気になったことで、近藤さんは、つぎつぎスタジオをオープンする。「ただし、過剰だったんでしょうね。2009年に縮小し、新たなビジネスを模索します」。
ちなみに、2010年には横浜に移住。新たなビジネスを模索するため海外も転々としている。
「東日本大震災もあって、一時期、キューバで生活していました。キューバのハバナでテレビ出演もしていて、光栄なことに、日本のサルサマエストロと紹介していただきました」。
そういって近藤さんは豪快に笑う。
ここまでがおよそ、近藤さんの第一章。だれもが、そう簡単にできないことを経験している。第二章はどうなっていくんだろう。

キューバにて、三島を知る。

「キューバにいると、日本の情報がなかなか入ってこないんです。共産国だからでしょうね。そのとき、私が唯一情報源にしていたのが、ネットブログで、それが静岡から発信されていて、はじめて三島を知ります」。
小説を読んで、サルサに興味をもった近藤さん。今度は、ブログに心を動かされる。
「三島を知ったといっても、もちろん地図上の話ではありません。そのエリアで息づいていることを知って、それがきっかけで、帰国後、三島に向かいます」。
三島に行って「三島の農産物にほれ込んだ」と、近藤さんはいう。
「これを関西にもっていったらどうなるだろう」。
それが、第二章の幕開け。このあと、近藤さんはカフェ「雪ノ下」をオープンされている。もっとも、そこにはパティシェの奥様との縁もあった。
「最初は経営指南的な役割だったんです。でも、彼女が焼いてきたクッキーを一口食べて、心をわしづかみにされました。それで、縁が深くなって」。
今も、奥様はパティシェとして腕をふるわれている。パンケーキは、奥様のアイデアだろうか。
「そうですね。彼女はカフェをオープンしたかったんです。ただ、食べ物にもブームのサイクルがあって、パンケーキでいうとたぶん10年。ダンスにも似たようなサイクルがあって、サルサのつぎは、フラダンスとか。だから、パンケーキだけではなく、もっとサイクルが短いものをいっしょにやらないといけないと、思って」。
<それで、かき氷ですか?>
「そうです。かき氷は1年サイクル。暑くなれば、食べたくなる。しかも、年々、猛暑日が多くなっていますから、ビジネスとして悪くありません」。
パンケーキとかき氷の「雪ノ下」が大阪の路地裏(7坪)にオープンしたのは2012年。厚焼きパンケーキと果実をつぶしてつくった氷を削るかき氷が、同時にブレークする。今は5店舗だが、最盛期には銀座、京都、名古屋、福岡ほかに20店舗以上をオープンしていたそう。
国内だけではない。台湾、香港、ジャカルタにもオープンしている。

パンケーキとかき氷と。ブームの二重奏。

「ダンス教室を経営していましたから、その点で、ビジネスセンスもみがかれていたんでしょうね。彼女はパティシェですから料理から入りますが、私は経営からスタートします。経営という観点でみると、飲食店も、ダンス教室もいっしょなんです」。 <飲食はたまたまということですか?>
「そうですね。ただ、からだを壊してから、鉄の味を感じるんです」。
<鉄の味ですか?>
「ええ。添加物などが入っていると、舌が反応するようになるんです。だから、たまたま三島市で感動するような食材に出会ったことは、飲食に進む大きなきっかけになった気がします。もちろん、『カフェをしたい』と言う女性に惹かれたのも、大きなきっかけですが」。
ただ、たまたまと言っても、飲食の本質を近藤さんは見抜いている。
「飲食の経営はむずかしいですね。『雪ノ下』も一時あった勢いはなくなって、今は縮小傾向です。これは、パンケーキのブームに左右された結果ですし、コロナ禍という、どうしようもないことがらがあったからです。ただ、縮小と言っても、それを悲観的にみていません。むしろ、店舗数を少なくして、『雪ノ下』らしさを凝縮したほうがいいと思っています」。
また、消費者の意識の変化にも言及する。
「とくに今は、食べに行くというより、応援しにいくっていうイメージがつよいんじゃないでしょうか。クラウドファンディングなんかもその一つですね。そう考えると、飲食店の立ち位置もかわってきます」。
<どういうことですか?>
「今までは『旨いものを食べさせてあげる』という不遜な態度でも、消費者は受けいれていました。今も、なかには、お金にギラギラして、金儲けのために飲食をしている人がいるでしょ。今まではそれもよかったかもしれないですが、時代はかわっています。そんな人をだれか応援しようと思いますか?」
「思わないでしょ」と近藤さん。
たしかに一理も、二里も、ある。時代をうまく表現している。ものづくりにおいて、プロダクトアウト的な発想が古くなり、マーケットインが主流になっているのも、その表れかもしれない。
「応援してあげよう、そこに介在するのは、料理ではなく、人だと思うんです。だから、これからは、はたらく人をもっと打ち出したほうがいいんじゃないかな」。
「店のファンじゃなく、人のファン」。たしかに、それが選択肢となれば、飲食ではたらく人の価値も今以上にあがるだろう。今からの時代の、重要なアイデアという気がする。
もう一つ。近藤さんは、「値上げじゃなく、値下げ」という。物価が高騰するなか、値下げはきついが、そうしないと生き残れない、と。実際、「雪ノ下」では、1500円だった標準的な単価を850円まで下げている。消費者とすれば値下げは大歓迎。そういう発想ができる経営者には、多くのファンがつくだろう。

・・・続く

株式会社雪ノ下 代表取締役会長 近藤正文氏

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2024年12月2日月曜日

全国11位!

キイストンは戦略型のオーダーメイドの人材採用会社ですが、もう一つの顔は食べログの正規代理店で初期からやらせてもらってます。

この9月に全国代理店の中で15位でしたが、11位になり、今もなんとか11位で頑張ってます。

下半期もいいスタート切ってますから来期が楽しみです。

こちらは業務支援部と営業が頑張ってくれ、特に平野の対応がスゴいです。

なんとか業務をもっと皆で分散していかないと今後大変なので手を打っていかねば…。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

12月はクリスマスツリー飾ってくれてます。

キイストンの受付にはいつも一輪刺しありますが、

今日から12月なのでクリスマスツリーも飾ってくれましたり

花は心を優しくしてくれます。

その都度、うちの岡本が変えてくれありがたいです。

花を飾る気持ちの余裕があれば、なんとかなりますね。

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