in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏登場。
東京、八王子。和田さんの思春期の話。
「マイクに向かって、バカヤローってやっていた」と、今回ご登場いただいた株式会社AZismの代表取締役、和田敏典さんは笑う。パンク・ロックをやっていた頃の話。
和田さんが生まれたのは東京都八王子市。駅すぐに自宅があった。デパートやスーパーがあって賑やかだったという。「ダイエーがあったんですが、ダイエーにその土地を売ったのが、うちの祖父」。
お祖父様は、数十にも及ぶ事業を営んでいた稀代の事業家だった。そして本家を継いだ叔父様も才覚を受け継ぎ、事業をさらに拡大した結果、大豪邸を建てるに至る。その自宅は映画やドラマの撮影にも使われたこともあるそうで、3メートルくらいあるドアを開けると、甲冑がこちらを睨んでいたらしい。
「ちなみに、私はこの叔父に可愛がられ、ビジネスマンとして育てていただきました」。
叔父様も、お祖父様に似た多彩なビジネスマンで、パチンコ店を経営するなど「商才、センスに溢れた人でした」と和田さん。その一方で「うちの父はね」と苦笑いする。
「うちもけっして貧しかったわけじゃないんですが、叔父のところに比べたらね。そりゃ、向こうは豪邸だしね」。少年は叔父と父親を比べ、ため息をついたのかもしれない。
叔父様は、偉ぶるわけではなく、弟を心配して、和田さんのお父様に何度もアドバイスを送っている。
「雀荘も叔父さんのアドバイスで始めたことの一つ。もっとも、事実上、母がやっていたんですけどね」。和田さんは「私は母似」だという。母親とおなじように人を喜ばせるのが好きなタイプ。明るい性格も、母譲り。
「雀荘って風営法で24時以降はやってちゃだめなんです。だから、カーテンを閉めて光が漏れないようにするんです。でもね、おまわりさんが、その時間でもリーチ!ロン!なんてやっている。子ども心にグレーの世界をみたよね(笑)」。
「幼少時、祖父はモーテルも経営していましてね。私ら子どもたちはお正月、挨拶を兼ねて神奈川にあったモーテルまでお年玉をもらいに行くの。最初は、なんだろうなここは?って感じだった。お城みたいなね(笑)」。
「父がラーメン店をオープンしたのは、私が中学生くらいのとき。これも、叔父さんのアドバイスだったと思うんですが、うまく経営ができなかったみたいです」。
叔父と父の経済格差。うっせきした何かを背負う父をみて、和田さんもまた、マイクに向かって吠えた。「バカヤロー」。これが、和田さんの思春期の話。
電気屋で、才能開花。
和田さんは、1965年3月24日、生まれ。3人兄弟の長男。スポーツは卓球。なんでも雀荘に卓球台があって、父親ともラリーをしたことがあるそうだ。「でもさ、部活じゃさ。卓球っていうよりね。卓球台の下に潜るでしょ。女の子のブルマとかね、そんなのを追いかけてた。バカですね(笑)」。
中学2年から高校3年まではパンク・ロック。おなじ舞台に上がったアーティストのなかには、のちに「ニューロティカ」のギターになった人もいたそうだ。
和田さんは当時を振り返って、「パンクだから、バカヤローってやっていたんですが、案外、真面目だからさ。そういや、あの頃からマネジメントの真似事をやっていましたね。プリントショップに飛び込んで、バンドのチケットをつくってもらったり。チケットを販売するには、どうしたらいいかってね」。
「あの頃は、行動力があったね」と今も行動力バツグンの和田さんがいう。「リスペクトする叔父さんから、敏典はおじいちゃんに似て商売人だな、って言われた時は、うれしかったですね」。
もっとも、当時は叔父様のようにビジネスに関心があったわけじゃない。
「高校を卒業して就職するんだけど、とにかく、うちを出たくてさ。就職課にあった求人のなかでいちばん給料がいい会社に就職。うちは、親父と喧嘩して、でていっちゃった、そんな感じ」。
「電気屋じゃなくても、どこでもよかった」と和田さん。しかし、いざ仕事を始めると、和田家に流れる商売人の血が徐々に目を覚ます。
「言ってたでしょ。人を喜ばせるのが好きだって。私は髭剃りやアイロンの担当だったけど、とにかく、お客さんが喜んでくれる。最初はね。もちろん、苦労しましたよ。だって、パンク野郎だからね。情けないことに、つっぱっちゃって先輩にも聞けないんです。だから一人で、何が、どこが先輩らとちがうんだろうって。ひたすら、アイロンの説明書を読んだりしてね。それでね、1ヵ月くらいで花開くっていうか、私個人の名前でお客さんがいらしてくださるようになったんです」。
そうなると、もうたまらない。「ひたすら楽しかった」と和田さん。「辞めるつもりは一切なかった」とも言っている。ちなみに、この頃になると、お父様とも酒を酌み交わす間柄になったらしい。
「年に数回、うちに戻るでしょ。仕事が楽しいから、その話をするでしょ。すると、母親だけじゃなく、父親もうれしそうに聞いてくれるの。こちらは、それがうれしくて、だんだんわだかまっていたものまで忘れちゃうんだ。電気屋さんではたらいたのは3年だったけど、私の人生観をいい意味でかえることができた3年間でした。もちろん、感謝しています」。
アダルトで、大逆転。
「父親とは、根っ子でちゃんとつながっていたんでしょうね。電気屋さんを辞めたのは父の頼みを断り切れなかったから。親父はラーメン店をやっていましたが、そっちがうまくいかず、叔父さんの勧めもあって、今度はレンタルビデオショップを始めるんです。それを手伝ってくれっていうわけです」。
「さすがにむげにはできなくて始めたわけですが、3ヵ月で辞めたくなっちゃった。だって、電気屋さんの頃より、給料は下がったしね。だいたいビデオショップって言ったって、まだポピュラーじゃない頃で、叔父さんが経営しているほうは、さすがに上手くいっていたようなんだけど、こちらはさっぱり。親父も私もため息ばかり」。
「で、どうしたかって? 私が21歳のときかな。さすがに、このままではダメだって、親父と経営方針について真剣に話したらさ。親父は『じゃぁ、お前がやれ』って」。
借金3600万円。こちらも背負うことになる。「まぁ、それは親父の借金ですからね。そんなにプレッシャーはなかったんですが。それにしても、どうすればいいかわからない」。
「いろんな街をあるいて、ある日、新橋でアダルト専門のビデオショップを見つけたんです。若い人にはわからないと思いますが、当時はVHSとベータの時代です。まだお店が赤字で銀行からもう資金の借り入れができず、ベータのビデオを全部売っぱらって、そのお金でお店を改装します。風営法の都合でぜんぶアダルトにすることはできなかったんですが、それが逆によかったかもしれません」。
実は、風営法で売場面積の20%以上になると、許可を取らなければいけないらしい。「で、外からみたら、ふつうのビデオショップです。だから、女の人もいらっしゃいましたが、外見はふつうのビデオショップだから、男性がとにかく入りやすいんです。なかに入るともちろん、アダルトの世界です」。
商魂と、商才が、姿を現す。
「アダルトビデオは月に200タイトルくらいリリースされるんですが、それぜんぶ買ってね。○○監督の最新作とか、電気屋さんの時といっしょで、こちらからドンドン提案するんです。アダルトは一般のビデオに比べ、仕入れ額が安くて、お客さんは3本とかまとめて借りてくれるんです。だから、もう、ね」。
<アダルトで大逆転したわけですね?>
「そう(笑)」。
借金の3600万円も小さく映るようになったにちがいない。貯金通帳の残高に毎月100万円以上が積み重なる。今まで、みたことのない世界。
もっとも、それで浮かれないのは父親譲りの慎重さ。「むちゃくちゃ調子がいい時期は、案外、早く終わります。だってあのTSUTAYAがでてくるんですから、かないっこない(笑)。それで、今度は、ゲームのリサイクルが来るっておもって」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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