in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社プログレ 代表取締役 西村和則氏登場。
三重県伊勢志摩の小さな漁師町が物語の始まり。
父親は漁師。
「遠洋漁業でしたから鮪を追いかけているときは、年に1度しか帰って来ませんでした。ちっちゃい頃は父親ってわかんなかったんでしょうね。抱っこされるたびに泣いていたそうです(笑)」。
三重県伊勢志摩の小さな漁師町。今回ご登場いただいた株式会社プログレの代表取締役、西村さんは1970年にこの町に生まれている。
「寄港した船のなかに連れて行ってもらったことがあるんですが、ベッドなんてこんなんですよ」と手を小さく広げる。「だから、子ども心に漁師には絶対なるまいと決めていた」と笑う。
ちなみに、西村さんが生まれた漁師町は小さく、ご両親の実家は目と鼻のさき。「おーい」と言えば声が届いたらしい。「私らの代は第二次ベビーブームだったんで子どもは少なくなかったですが、今は子どもそうですが、人口がだいぶ減っています」。
空き家も少なくないらしい。漁村がさびれるのは、なんだか寂しい話でもある。
ベンツと8万円のブルーバードと。
高校に入学して、西村さんは生まれ育った漁師町から離れることになる。進学したのは「三重県の甲子園常連校」。野球部に入部し寮生活がスタートする。鉛筆を転がせば入学できたと西村さんはいうが、調べてみると偏差値は53。西村さんの居た野球部はまた違うのだろうか。
実は、甲子園にも出場している。1年ながら西村さんは控えのキャッチャーとして、ベンチ入り。当時の野球部の話も伺った。
「当時は『水飲むな』でしょ」と一言。なんでも「14時をまわると、陽があたっていても寒くなった」そう。
<それって間違いなく、熱中症ですよね?>
そういうと西村さんはしきりに頷く。365日、練習漬け。
「今、アッパーズってチームをつくって草野球をやっていますが、硬式の野球は高校で終わり。プロになった選手のなかにも知り合いがいますが、私は、そこまでの力はなかったです」。
大学は名古屋の大学に進学。しかし、すぐに中退。
「友達の1人がお金持ちの息子で、スカイラインやベンツを運転してくるんです。私は8万円で買ったブルーバード。格差を目の当たりにして、お金持ちになりたいと思って中退しました」。
<大学には、お金が落ちていない?>
「そういうことですね(笑)」。
「コンパ」という言葉すら知らなかったピュアな青年は、その格差を埋めるために大学を中退。飲食の仕事をスタートする。その頃、西村さんは今もアニキと慕う新田さんと出会っている。
西村さんがいう新田さんとは、株式会社ジェイグループホールディングスの代表取締役を務める新田治郎さんのこと。
アニキとの格差はベンツとブルーバードが象徴する経済的なちがいじゃない。新田さんの人間力に心を奪われたといっていいだろう。
アニキと出会ったのが21歳のとき。それから8年、和食料理店での店長を経て29歳で独立する。ホームページの年表によると「平成12年5月29日、鳥開名駅西口店、開店」とある。
鶏の総合デパート「鳥開」の始まり。
「鳥開」の話を聞いて、疑問が浮かんだので直裁にたずねてみた。
<どうして、魚ではなく鶏だったんですか?>
西村さんは笑いながら「たしかに、父親が漁師ですからね(笑)。ただ、だからこそ鶏だったんです。魚は鮮度もすぐに下がりますし、何より天候に左右されがちというのも知ってましたし、逆に鶏は仕入れが安定している。だから、魚じゃなく鶏というのが回答です」。
<とはいっても、名古屋には風来坊さんや世界の山ちゃんなど、名店も、競合店も少なくないですよね?>
「たしかにライバルは少なくありません、だから、差別化しないといけません。私の場合は親父が漁師ですし、生まれが食材が豊かな伊勢志摩だったこともあって『素材』そのものの旨さを知っていました。利益は少なくなりますが、鶏はすべて国産、とりわけ名古屋コーチンに決め、そこで差別化を図ることにしました」。
ここが最大のポイント。ちなみに、名古屋コーチンは比内地鶏、さつま地鶏と並ぶ日本三大地鶏の一つである。
話を聞くと、差別化は食材だけではなかった。
「煙もくもくの焼鳥店にはしたくなかった」と西村さんはいう。コンセプトは「鶏の総合デパート」。
「焼鳥だけだと職人に左右されてしまいます。和食時代の経験から、職人がいらないこともコンセプトの一つにしました」。
経験からシンプルな回答を導きだすのが西村さんのストロングポイントの一つ。
じつは、工夫はまだある。
スタッフは全員がパリッとしたコック服を着ている。熱々の「瓦」の上に乗せられた焼鳥が、香ばしい香りをたたせる。こちらは「食べ歩きのなかでひらめいた」という。それ以外にも、戦略的な差別化が、つぎつぎ図られていく。
当時、飲食人が意識していなかった戦略的なアプローチも行っている。
「プロモーションに200万円くらいは使った」と西村さん。わざと行列ができるように仕掛けている。もちろん、期待を裏切らない味とサービス。メディアが突然現れた人気店をこぞって追いかける。オープンした年の年末には、東海エリアでいちばんの人気番組にも取り上げられた。
有名なタレントが「鳥開」で歓声をあげる。
「年が明けると、予約の電話が鳴り止まなくなった」と西村さんは笑う。これが「鳥開」の始まりの話。
倒産寸前の大ピンチ。
「鳥開名駅西口店」の成功をきっかけに、つぎつぎにオープンを重ねる西村さんにピンチはなかったかと、ふたたびストレートにうかがった。
「鳥インフルエンザ、リーマンショック」と西村さん。ただし、リーマンショック以前に「倒産寸前まで追い込まれたことがある」と苦笑する。
どういうことだろう?
「たまたまお話をいただいてオーストラリアで流行っている高級なケーキショップをオープンすることになりました」。
なんでも、ビル1棟を借りるなどして、投資額は1億円にのぼったという。
「準備万端、あとはケーキ職人をまつだけだったんですが、その職人が来ず、ついに話が頓挫してしまいます」。
<ビルを借りたあとにですか?>
「そうです。契約書もまいてなかったから、どうしようもありません」。
1億円のビルが宙に浮く。
「そのビルに『鳥開』をオープンするんだったらよかったかもしれないんですが、なにしろその投資したビルに対して高級なイメージが刷り込まれていましたから、アッパーな和食店をオープンしてしまいます。『大間のマグロと松坂牛を個室でいただく』というコンセプトのお店でした」。
西村さんによれば「そのコンセプト自体は絶賛された」とのこと。
ただし、半年で5000万円の赤字を積み上げてしまう。
「コンセプトを知って『いいね』って来店してくださったお客様が、『サービスが話にならない』って帰っていかれるんです。そりゃそうですよね。今まで客単価4000円の焼鳥を売ってきた人間に、いきなり1万円のワインを売れっていっても無理な注文だったんです。当時の私は、そこがわからなかった」。
「それだけじゃありません。財務のこともよくわかってなかったから、なんとかなるんじゃないかって。甘かったですね、全部ね」。
「早急に対応しなければ倒産する」と、財務の担当から指摘されたらしい。
「あの時、やらなければならないことを書き出したんです。7つあったかな。すぐに5000万円を用意することでしょ。オープンした和食店も売らないといけない。こちらも、もちろん早急にです」。
絶体絶命。歯車が一つでもくるったら終わり。「まるで、ドラマだった」と西村さんはそう表現する。ただし、下を向かない。
もとキャッチャー。「キャッチャーは1人だけ、視点がちがうでしょ。私が人とおなじような思考をしないのは、キャッチャーをしていたからだと思っています」。
キャッチャーの目線で、ピンチに立ち向かう。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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