in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社雪ノ下 代表取締役会長 近藤正文氏登場。
サルサのリズムにのって。
村上龍の小説を読んでサルサダンスに興味をもったという。たぶん「Kyoko」。日本人の女性が「音楽とダンスの国キューバ」へ向かい、青年と旅をする小説。自身で綴られた年表では「1996年、当時最年少でキューバンサルサのプロダンスチームに所属」とある。
調べてみると、サルサダンスはペアダンスで、キューバ音楽をもとに1960年代頃にニューヨークで生まれたそう。
ステップにちがいがあって、キューバンサルサは、とくに個性的なステップを踏むそうだ。
ユーチューブで検索すれば、だれもが一度は聴いたことがある軽快なリズムが流れだす。ラテン特有のダンサーの熱量が伝わってきた。
さて、今回は、そんなサルサに魅せられ、のちにダンス教室も主催することになる、現「雪ノ下」の代表、近藤さんに話をうかがった。
喧嘩と、簿記と、パソコンと。
近藤さんは、1976年、堺市に生まれ、東大阪で育っている。お父様は、経営センスがおありだったのだろう。おじい様から譲られた豆腐店を長崎屋(当時あった大手のスーパー)に出店。手広く経営されていたそうだ。
兄弟は3人。近藤さんは長男。小さな頃から格闘技を習っていたという。
正義感が旺盛すぎたのか、大人しいともだちをからかう奴がいれば、近藤さんの拳骨がとんだ。「ちょっかいかけてきたら、どつく。それだけ」と近藤さんは笑う。
他校にも名前が轟いていたようで、バイクで学校に乗り込み、グラウンドをぐるぐるまわっている少年たちから、「コンドーーー」「コンドーーー」と連呼されたこともあったそうだ。
そりゃ、こわい。近藤さんではなく、近藤さんの周りにいる生徒たちの心境である。もっとも、近藤さんは、眉一つ動かさない。ちょっかいだしてくれば、どつけば、それで済む。
「おかげで、先生たちにも目をかけられて、監視のつもりもあったんでしょうね、簿記を習わされてね。勉強は嫌いだったんですが、もともとロジカルな思考が好きで、簿記にはけっこうハマってしまいました」。
なにが幸いするかわからない。高校時代には教師に代わって、簿記を教えるまでになっていたそうだ。近藤さんが教壇に立てば居眠りはできない。船など漕いでいれば、たいへんなことになる。
「簿記と、パソコンかな」と近藤さん。
15歳の時からパソコンにハマって、自作のプログラムも作成している。「喧嘩」と「簿記」と「パソコン」。近藤さんの少年時代を表現すると、この3文字がキーワードになりそうだ。
ちなみに、最後のキーワード「パソコン」を仕事にするため、高校を卒業した近藤さんはコンピュータ専門学校に進学している。簿記では「全商1級会計」「1級工簿」を取得している。こちらは、のちに起業する際に役立ったにちがいない。
サルサとの出会いと、転々とする日々と。
1995年、近藤さんが29歳の時、長崎屋が民事再生となり、父親が経営していた豆腐店が倒産寸前に追い込まれる。
「それもあって、通っていた専門学校を辞め、ある大手音響メーカーに就職します」。
村上龍の小説を読んでサルサに心を動かされたのも、この年。才能があったんだろう。すぐにプロダンスチームに所属するようになり、無料でレッスンを開始するようになる。こちらがのちにダンス教室につながっていくのだが、これはまだ先の話。
近藤さんは、改めて簿記の専門学校に通ったのち、24歳で大手電機メーカーに転職し、経理を担当。2年後、海外転勤を袖にして、退職している。
「このあと、貸金業の会社に就職します。すぐに法務担当となって、裁判官や弁護士の対応までするようになります。ただ、私が担当していたお客様が、返済などを苦に亡くなられたことがあって」。
「返済より、日々の食事をちゃんとください」。
返済を迫るのではなく、自身を気遣う一言に、その方はいたく感謝されていたそう。
「その話を、ご子息から聞かされて、ご子息からも直接、感謝の言葉をいただいたんですが、あまりのことに言葉を失い、体調を崩してしまいました」。
「感謝の言葉をいただいたが、私のなかで整理がつかなかった」と近藤さん。「ストレスがいけなかったんでしょうね。間質性肺炎になって生死をさまよい、翌年には、三叉神経痛発症になります」。
心が痛む。仕事もできない。「職場に迷惑はかけられない」と退職している。
喧嘩もつよい。ちょっかをだされたら、すぐに、どつく。粗暴な少年時代はとうにすぎていたが、青年になっても近藤さんは、とことんピュアだった。
ダンス教室をオープン。
近藤さんが、貸金業の会社を退職したのは、30歳の時。「もう、好きなことをしよう」と、好きなサルサの教室をオープンする。
「たった16坪の小型のダンススタジオです。サルサの音楽とダンスが注目され、テレビ番組や女性ファッション誌にも取り上げられました」。
人気になったことで、近藤さんは、つぎつぎスタジオをオープンする。「ただし、過剰だったんでしょうね。2009年に縮小し、新たなビジネスを模索します」。
ちなみに、2010年には横浜に移住。新たなビジネスを模索するため海外も転々としている。
「東日本大震災もあって、一時期、キューバで生活していました。キューバのハバナでテレビ出演もしていて、光栄なことに、日本のサルサマエストロと紹介していただきました」。
そういって近藤さんは豪快に笑う。
ここまでがおよそ、近藤さんの第一章。だれもが、そう簡単にできないことを経験している。第二章はどうなっていくんだろう。
キューバにて、三島を知る。
「キューバにいると、日本の情報がなかなか入ってこないんです。共産国だからでしょうね。そのとき、私が唯一情報源にしていたのが、ネットブログで、それが静岡から発信されていて、はじめて三島を知ります」。
小説を読んで、サルサに興味をもった近藤さん。今度は、ブログに心を動かされる。
「三島を知ったといっても、もちろん地図上の話ではありません。そのエリアで息づいていることを知って、それがきっかけで、帰国後、三島に向かいます」。
三島に行って「三島の農産物にほれ込んだ」と、近藤さんはいう。
「これを関西にもっていったらどうなるだろう」。
それが、第二章の幕開け。このあと、近藤さんはカフェ「雪ノ下」をオープンされている。もっとも、そこにはパティシェの奥様との縁もあった。
「最初は経営指南的な役割だったんです。でも、彼女が焼いてきたクッキーを一口食べて、心をわしづかみにされました。それで、縁が深くなって」。
今も、奥様はパティシェとして腕をふるわれている。パンケーキは、奥様のアイデアだろうか。
「そうですね。彼女はカフェをオープンしたかったんです。ただ、食べ物にもブームのサイクルがあって、パンケーキでいうとたぶん10年。ダンスにも似たようなサイクルがあって、サルサのつぎは、フラダンスとか。だから、パンケーキだけではなく、もっとサイクルが短いものをいっしょにやらないといけないと、思って」。
<それで、かき氷ですか?>
「そうです。かき氷は1年サイクル。暑くなれば、食べたくなる。しかも、年々、猛暑日が多くなっていますから、ビジネスとして悪くありません」。
パンケーキとかき氷の「雪ノ下」が大阪の路地裏(7坪)にオープンしたのは2012年。厚焼きパンケーキと果実をつぶしてつくった氷を削るかき氷が、同時にブレークする。今は5店舗だが、最盛期には銀座、京都、名古屋、福岡ほかに20店舗以上をオープンしていたそう。
国内だけではない。台湾、香港、ジャカルタにもオープンしている。
パンケーキとかき氷と。ブームの二重奏。
「ダンス教室を経営していましたから、その点で、ビジネスセンスもみがかれていたんでしょうね。彼女はパティシェですから料理から入りますが、私は経営からスタートします。経営という観点でみると、飲食店も、ダンス教室もいっしょなんです」。 <飲食はたまたまということですか?>
「そうですね。ただ、からだを壊してから、鉄の味を感じるんです」。
<鉄の味ですか?>
「ええ。添加物などが入っていると、舌が反応するようになるんです。だから、たまたま三島市で感動するような食材に出会ったことは、飲食に進む大きなきっかけになった気がします。もちろん、『カフェをしたい』と言う女性に惹かれたのも、大きなきっかけですが」。
ただ、たまたまと言っても、飲食の本質を近藤さんは見抜いている。
「飲食の経営はむずかしいですね。『雪ノ下』も一時あった勢いはなくなって、今は縮小傾向です。これは、パンケーキのブームに左右された結果ですし、コロナ禍という、どうしようもないことがらがあったからです。ただ、縮小と言っても、それを悲観的にみていません。むしろ、店舗数を少なくして、『雪ノ下』らしさを凝縮したほうがいいと思っています」。
また、消費者の意識の変化にも言及する。
「とくに今は、食べに行くというより、応援しにいくっていうイメージがつよいんじゃないでしょうか。クラウドファンディングなんかもその一つですね。そう考えると、飲食店の立ち位置もかわってきます」。
<どういうことですか?>
「今までは『旨いものを食べさせてあげる』という不遜な態度でも、消費者は受けいれていました。今も、なかには、お金にギラギラして、金儲けのために飲食をしている人がいるでしょ。今まではそれもよかったかもしれないですが、時代はかわっています。そんな人をだれか応援しようと思いますか?」
「思わないでしょ」と近藤さん。
たしかに一理も、二里も、ある。時代をうまく表現している。ものづくりにおいて、プロダクトアウト的な発想が古くなり、マーケットインが主流になっているのも、その表れかもしれない。
「応援してあげよう、そこに介在するのは、料理ではなく、人だと思うんです。だから、これからは、はたらく人をもっと打ち出したほうがいいんじゃないかな」。
「店のファンじゃなく、人のファン」。たしかに、それが選択肢となれば、飲食ではたらく人の価値も今以上にあがるだろう。今からの時代の、重要なアイデアという気がする。
もう一つ。近藤さんは、「値上げじゃなく、値下げ」という。物価が高騰するなか、値下げはきついが、そうしないと生き残れない、と。実際、「雪ノ下」では、1500円だった標準的な単価を850円まで下げている。消費者とすれば値下げは大歓迎。そういう発想ができる経営者には、多くのファンがつくだろう。
・・・続く
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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