in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社CARTON 代表取締役 櫻井 航氏登場。
楽天・三木谷社長の生い立ちに「かっこいい!」
公務員の父と、保育園勤めの母の間に生まれた櫻井氏は、子供のころから運動神経が抜群で、小中高時代は一貫してサッカーに打ち込んだ。少年サッカーの人気が高く強豪校も多い千葉県で、市の選抜大会に抜擢されるほど実力のある選手だったが、自身は「これくらいでプロになれるわけがない」とどこか冷めた気持ちでいたという。
中学卒業後は、サッカー推薦を蹴って地元の柏中央高校に進学。その後もサッカー漬けの日々を送ったものの、やはりプロを夢見ることはなかった。
「でも同級生に日本代表選手になったのが1人いたんですよ。彼とはずっと一緒にやってたし、当時はそんなにレベル差はなかったと思うんです。だからもっとちゃんと向き合っていればって、思うこともありますね」。
高校3年のある日。何気なくテレビに目をやると、楽天・三木谷社長の生い立ちが紹介されていた。この番組が櫻井氏の将来を左右することになる。
「めちゃくちゃかっこいいって、その時に『社長になりたい!』って思ったんです」。
学生ビジネスは敢え無く玉砕。
指定校推薦だった日本大学でもサッカー部に所属し、1年生で早くもレギュラー入りを果たした。しかし、サッカーに高校時代ほど情熱を注げなくなったこと、また『社長になる』という新しい夢ができたことから2年生の終盤で退部。その後は起業家セミナーに参加するなど、ビジネスについて研鑽を積むようになる。
― 一番最初に始めたビジネスはなんですか? ―
「パワーストーンを売ってました。まあ今思うと、騙されたかなって思いますけどね(笑)」。
思うように売れない上に、無理やり買わせた友人にも嫌われる始末で、パワーストーンビジネスからは早々に撤退。次に始めたのは、店舗にフリーWi-Fiを導入させる仕事だった。
「契約してもらうと、僕にキャッシュバックがあるっていうビジネスで。最初はスーツで飛び込み営業してたんですが、ある日ふと思いついて、パーカーで行くようにしたんです。そしたら店の人も『大学のゼミの一環?』って感じで、気軽に応対してくれて。月々の電気代もわずかなんで、ガンガン契約が取れるようになったんですよ。いい時は月50万くらい稼いでいました。学生でしたからね、大金でした」。
ところがフリーWi-Fiの普及であっという間に売れ行きが落ち、気が付けば稼ぐどころか50万もの借金を抱える事態に陥っていた。返済のためアルバイトを始めたものの、「毎日、出勤の5分くらい前まで今日のシフトをどうやって断ろうか考えていた」くらい仕事が嫌で、どこも3か月程度しか続かなかった。そんな学生時代、最後に出会ったのが地元柏市のイタリア料理店での接客という仕事だった。
イタリア料理店で接客サービスの醍醐味を知る。
「それまで居酒屋とかでバイトしてたんですが、そのイタリア料理店はおしゃれだったし、ホスピタリティというか、サービスがすごくしっかりしてたんですよね。で、『接客サービスって面白いな』って思って」。
在学中には将来の“保険”として教職課程を履修し、親を安心させるため就職活動も行ったが、社長になる夢を諦めることはなかった。大手アパレルメーカーから内定を得るも、大学卒業の直前親にその辞退を報告。「自分でやろうと思ってる」と宣言し、そのままそのイタリア料理店に就職した。
アルバイト時代の手腕を買われ店長に就任した櫻井氏は、100席を数える大型店を見事に采配。成績さえよければ比較的自由に動ける社風で、資金調達以外の業務はすべて経験させてもらったという。業績に応じたインセンティブもあり、やればやるだけ給料はアップ、月に100万円を稼ぐこともあった。
「最初は25歳で独立って考えていたんですが、『こんなに稼げるなら、独立する必要ないんじゃない?』なんて思って、結局27歳までいました」。
―それほど好待遇だったのに、なぜ辞めたんですか?
「会社が大きくなるにつれて、オペレーションが均一化してきたんです。インセンティブも周りと一緒で、つまらなくなって」。
話し合いの末円満退職となった櫻井氏に対し、社長は取引先銀行の担当者を紹介してくれた。その社長とは、今でも良好な関係が続いている。
順調な滑り出しで天狗に。
「会社を辞めようって思った時に、知り合いの不動産屋にすぐ相談したんです。そこで紹介されたのが、流山おおたかの森駅の物件でした」。
つくばエクスプレス開通にあわせて開発された同駅周辺には大型の商業施設があり、宅地の造成も進んでいた。当時はまだそれほど整備されていなかった駅北側の物件だったが、「ここは絶対当たる」と櫻井氏は即決した。
自己資金300万円と親からの支援金100万円、前述の社長が紹介してくれた銀行からの融資1800万円で開業準備に着手。35坪のスケルトン物件の内装工事に1500万円を要し、オープン前日手元に残ったのはわずか5万円だった。
「最初にコケたら、もうアウトでしたね。今はそんな怖いことできないけど、当時は自信しかなくて」。
2018年7月に、ワインとタパスの店「PORTA -albero cucina」をオープン。当初のヨミ通りスタートから好調で、月商は700万円を超えた。
「出来過ぎでしたね。商売って簡単だなって、思ってしまいました」。
半年後にはアメリカンダイナー「I.B Diner 柏の葉」をオープン。この2軒目も大当たりしますます勢いづいた櫻井氏は、2019年12月に3軒目の「VIGO-BISTRO&BAR-」を開店。滑り出しは順調だったが、翌年に始まったコロナ禍で状況は一変する。
辛い時期を乗り越え。
「子供のころに挫折したことがないのがコンプレックスで……自分は打たれ弱いところがあるんです。今は挫折を繰り返しているけど、若い時にそういう経験があったら、もっと強い経営者になっていたかもって思います」。
当時の従業員数は、12~13名の社員を入れて合計70人弱。政府からの協力金とコロナ融資でなんとか乗り越えたが、パンデミックが終息し始めたころに辞めた社員がいた。
「厳しい業績の中、給料だけはずっと下げずに頑張ったのに、『給料が上がらないから辞めます』って言われて。苦しかったし、悔しかった……。なんでこの思いが通じないのかって」。
そこに追い討ちをかけるように、コロナ融資の返済が始まった。通帳からどんどんお金が消えていく恐怖。櫻井氏にとって、2022年の暮れから翌年ぐらいが人生で最も辛い時期だったという。
「去年一年間はいろいろあって辛かったけど、この夏くらいから(将来の展望)が開けてきて。これはいけるなって思いました」。
それが“夜パフェ”だ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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