in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にDAVELLO gastropub 代表 吉田 慎氏登場。
食べて、飲む。「飲食」という世界に、憧れた少年。
お父様は、ジーンズの職人から縁があったんだろう。ファッション雑誌の編集などに従事し、モデルやスタイリスト、美容師と接点をもたれるようになる。そのなかで、独立を希望する美容師をサポートしながら、複数店舗の美容室をオープンされていたそうだ。今は、縮小しているが、かつては10店ちかくあったというから、経営センスがおありだったんだろう。
兄弟は2人。5つ上に兄がいる。話をうかがっていると、真面目な兄(今はテレ朝で仕事をされているそう)より、吉田社長のほうが、色濃くお父様の性格を受け継いでいる気がした。実際は、どうなんだろうか。
「私は、1993年、うちの店がある二子玉川で生まれました。だから、このエリアには詳しいんです。小学校から兄と一緒の私立に進みます。千代田区にある行政学園。医者の息子が多くいるような学校です」。
「私自身は小さな頃から飲食をしようと決めていました。もっとも中学1年からバンド活動もはじめ、ドラムを叩きつづけていたんですが」。
<ドクターをめざす少年は少なくないように思いますが、飲食を、という少年はそう多くないのでは?>
「そうかもしれませんね。私の場合、一つは、小さな頃から家族で色んなお店に連れて行ってもらったからだと思います。もう一つは、父の仕事の関係でうちには、美容師さんや、それ以外のお客様もたくさんいらして、時にはみんなで食事をされていて、そういう空間が子ども心に好きだった。そして、少し大きくなって、なぜ好きだったかがわかるんです」。
「これが、もう一つの理由ですが、首脳会議もそうですが、会談の後、食卓を囲んで、ご飯を食べて、心を開く。そして、仲良くなるでしょ。言葉はわからなくても、おなじものを食べて、飲むと、心が響き合う。そういう、だれもがハッピーになれる、飲食という世界に惹かれていたんです」。
<ドラムと飲食の二刀流ですね?>
「これは私もそうですし、両親もそう思っているようですが、とにかく、昔から人前に立って、人を喜ばせるのが好きだったんです。ドラムも、飲食も、そこがスタートかもしれませんね」。
ホテルニューオータニで、ベルマン吉田、誕生。
実は、吉田社長、小学校の時には合唱団に入っていたそう。全国のコンクールに出場し、優勝しているからすごい。中1でドラムを始めたのは、音楽に興味があった証だろう。
「飲食は、高校1年の時から具体的にスタートします。父親の知人に高級なレストランを経営される方がいらして、その方にお願いして皿洗いの仕事をさせていただきます」。
<まるで、料理人の下積みですね?>
「いえ、それほどたいしたことではないです。その時の経験は大事にしまっていますが、実は大学に進学して、飲食もそうですが、サービスのトップってなんだろうってふと思って。昔から思いったらすぐ行動するタイプだったので、帝国ホテル、ホテルニューオータニ、ホテルオークラの3つのホテルに『なんでもしますから』って書いた履歴書を送って(笑)」。
<大胆ですね(笑)>
「今なら、外資のホテルという選択もあるんでしょうが、当時は、やはりその3つのホテルがトップでした。いずれのホテルからも返事をいただくんですが、いちばん早かったホテルニューオータニで『ベルマン』としてスタートします」。
ホテルニューオータニは、むろん、日本トップのホテル。そのぶん、客室も多い。ベルマンは、たいへんだ。
「その通りで、2棟ありましたしね。お客様をお迎えして、客室までご案内するわけですが、15分くらいかかるんです。いっしょに歩いて、いっしょにエレベーターに乗って。黙っていることは許されません。ビジネスと観光とで、テンションがぜんぜんちがいますし、国によってキャラクターもちがいます」。
そんなお客様と、一つのエレベーターに乗る。数分でも、気まずい思いはさせたくない。何しろ、人を喜ばせるのが大好きな性格。「英語は、ある程度、できるようになりましたね。そりゃ、1日、何人ものお客様と会話するわけですから」。
「それにね。日本にいらしたんだから、日本のいいところを知ってほしいでしょ」。とにかく、サービス精神が旺盛だ。だから、言葉を交わすのに、躊躇はない。
「とてもいい経験をさせていただきました。これが19歳の時で、大学3年の時にアメリカに渡ります」。
ロン毛のアジア人、ドラムを披露する。
<アメリカ?> 「そうです。サービスはアメリカが進んでいますから、奨学金をいただいてアメリカに渡ります」。
なんでも、レストランマネージメントを本格的に学ぶため、渡米。アメリカの大学に3年生から編入したそうだ。「トランスファー」というらしい。
奨学金は、レストランではなく、ドラムでいただけたという。どういうことだろう?
「アメリカの大学には、ペップバンドというバンドがあって、アメリカンフットボールやバスケットの試合に参加して選手を応援するんです。そのバンドの一員になることが認められれば奨学金が支給されます。私は日本から音源と映像を送って。無事、採用してもらって」。
「奨学生は、週に1回、アメフトやバスケの選手について遠征して、試合を盛り上げます。演者たちのまんなかで、ドラムを叩く、ロン毛のアジア人がユニークだったんでしょうね」。
色んな学生が声をかけてくれたそう。人気者になったアジア人が叩くドラムの音と、笑い声が聞こえてくる。
<アメリカの大学を卒業した後、ニューヨークのレストランではたらいたんですね?>
「2年程度、勤務しました。Buvetteという、食のアカデミー賞って言われるジェームスビアード賞を受賞しているニューヨークの名店です。アメリカは労働ビザを取るのが難しくて、なかなか取れないんですが、卒業生には、おまけじゃないですが、期限付きの労働ビザが渡されるんです」。
「私はマネージメントも、サービスも勉強してきたんですが、料理はまったくしていない。だから、そうだと思って」。
ニューヨークの片隅。キッチンは、スパニッシュの世界。
思い立ったら、行動は早い。
「レストランの予約画面に『料理の仕事をさせてくれ』と打ち、送りまくった」という。マスターシェフから返信が来たのが「Buvette」。
「日本への進出が念頭にあったんだと思います。タイミングがよかったんでしょうね」。無事、採用。
最初の3ヵ月は皿洗い。24時間、営業。汚れた皿は、途切れることはなかった。
「勤務は朝4時から、夕方の4時くらいまで。キッチンにアメリカ人はいません。キッチンの公用語はスペイン語です」。
メキシコ、ベネズエラ、コロンビアから来た労働者だった。
「アメリカではホールが花形です。ウエイターは、モデルで、俳優で、タレントなんです。キッチンは、違う。ハードワーカーで、給料だってちがいます。それでも、ニューヨークで週休1日、2年はたらけば、メキシコに家が建つって話していました。それだけ物価もちがっていたし、ドル/ペソにも差があったんでしょう」。
日本人の青年にとっても、ニューヨークの物価は高い。
「ハリーポッターってご存知でしょ。あのハリーがおじさんの家に住んでいた時の部屋って、階段の下にあったじゃないですか、私の部屋も、あれそっくりで、ベットしかありません」。
仕事はハードワーク。しかも、朝4時に間に合うようニューヨークの地下鉄に揺られ、レストランに向かう。日本での修業ともまた違うハードな世界。
2年間、つづけただけでも頭が下がる。メンタルコントロールができるようになったそう。そして、帰国。Buvetteが日本に出店する。思いを描いて、海を渡った青年は、Buvetteに少し遅れて帰国することになる。
英語も、スペイン語も、サービスも、マネジメントも、そして、料理もできる。オールマイティだ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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