in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社DEED 代表取締役 千葉俊宏氏登場。
千葉少年と、父の言葉。
「4畳半と6畳の部屋に5人で暮らしていた」と千葉さん。「懐中電灯で照らさないと、真っ暗で風呂にも入れなかった」と笑う。
「私が中学2年の時に、自宅を購入するんですが、その頃は金利がMAXの時で、程なくしてバブルが弾け、左官業だった父は返済に苦労していました」。
千葉さんが中学2年と言えば、1992年の頃。バブル崩壊の始まりの1年。「バブル期には従業員もいた」と千葉さん。バブルが弾けたあともお父様は1人で細々と仕事をされていたそうだ。
「父は、私が36歳の頃に他界するんですが、病に侵されても弱音一つ吐かない人でした。ローンの返済もつづけ、左官の仕事だけではなく、夜間に東京メトロの補修工事もしていました」。
その姿を千葉少年はみている。「尊敬していた」と千葉さん。いつか父の仕事を継ごうと思い、お父様からも「大学に行って一級建築士の資格をちゃんと取って、人を使う側になりなさい」と言われていたとのこと。
「ところが、私が高校2年の時ですね。担任から『父に』と渡された封筒を開けて、学費が滞納されていることを知ります。それからしばらくして、父親から『申し訳ない。大学進学はあきらめてくれ』と」。
<ショックはなかったですか?>
「だいたい想像はしていましたから、学費についてはショックではなかったですが、『もう、一級建築士をめざすことはない。今からは好きなことをしなさい』と言われたのは、たしかにショックでしたね」。
お父様は、どんな思いで、息子に、その一言を言われたんだろうか。バブル経済の破綻は、市井の片隅でいくつもの物語を生んでいる。千葉家の話もその一つかもしれない。
美容師の道へ、進む。
退学という選択肢もあっただろうが、千葉さんはバイトを掛け持ちして学費を払いつづけ高校を卒業している。
バイトを始めて外の世界と接点を持つようになったことで、ファッションに興味を抱き、高校2年生の時に、初めて美容室でカットを体験した。そこの男性スタッフのセンスやファッションに心を打たれ、将来の目標が美容師になったという。
そう、千葉さんは、飲食ではなく美容師の道を進んだ。「実を言うと、飲食にも惹かれたんですが、『手に職をつけろ』という父の教えもあり、美容師を選択します」。
千葉さんの話を聞いていると、大事な時にお父様が登場する。その度に、父と息子の関係が浮き彫りになった。
「元住吉にあった美容室に就職します。こちらに見習いで入社し、専門学校に通いながら美容師の免許を取得しました」。当時のことを千葉さんは、つぎのように語っている。
「すべてが初めてなんです。シャンプーでしょ。パーマの巻き方、カットの技術、ヘアメイク…と。高校生の時にはなかったモチベーションで、仕事にのめり込んでいきます。朝は7時、タオルをたたんだりして、開店の準備をして、夜は仕事が終わってから23時まで自主練です」。
「努力すれば、それが結果になって現れるから面白い」と千葉さん。
ちなみに、結果がつぎつぎ現れるのは、その道のゴールを100%とすれば、70%くらいまで。「残りの30%を埋めるのは、多大な労力と時間が必要」と千葉さんはいう。千葉さんは、新たな領域にチャレンジすることで、その労力とモチベーションを維持できると自己分析している。
それが、飲食へのチャレンジとなって現れるのだろうか。ここでは、もう少し、美容師時代の話をつづける。
2002年、24歳、独立。川崎駅西口に「HAIR&SHOES TypeAB」をオープン。
「18歳の入社当時は、まだバブルの残滓というのか、羽振りのいい人がいらして、チップをいただくことも少なくなかったですね」と千葉さん。
「ただし、給料は実質の勤務時間で割ると最賃割れは確実でした(笑)。入社2年目には「教育部門リーダー」に抜擢され、新人教育を担当します。3年目に月間個人売上150万円を達成。新店舗の店長候補にしていただいたんですが、方向性にズレを感じて、4年目で転職します」。
転職先でも、千葉さんは躍動する。
ところで、千葉さんに<美容師で大事なのは、やはりセンスですか?>と質問してみた。
「そうですね。昔はセンスや創造性が大事でしたが、今は写真などをみせられてオーダーされるケースが多いので、創造性より、再現性ですね。人によって、毛量とか、髪質はちがいますから、再現するテクニックというのは、難しいんです」とのこと。
さて、上記のつづき。
「新たなステップ」と退職した千葉さんは、2002年11月、24歳で独立し、川崎駅西口に「HAIR&SHOES TypeAB」をオープンする。従業員6名でのスタートだったそう。
業績は好調。
2005年5月に「有限会社DEED」 設立。2007年には店舗を拡張し、「雑貨屋arinko」を併設オープンしている。2008年には、横浜に2店舗目「TypeAB-evolve-」をオープン。
そして、2010年1月、横浜に初の飲食事業1店舗目となる「F+affinity dining」OPENしている。ここまでがいわば千葉さんの第一章。
「F+affinity dining」好調。好調な飲食事業にシフトする。
<その後についても教えてください>
「そうですね。トピックスでいうと、2011年。震災があり、その影響もあってスタッフたちの退職希望が相次ぎます。翌2012年には美容室で年間2000万円をセールスしていた店長が退職。その翌年にも1700万円、1500万円のスタッフがつぎつぎ退職するなど(寿退社などを含めてですが)人材の流出がつづきます」。
流失した人材の売上を補いつつ、その一方、業績が好調な飲食事業へシフトしていく様子が、その後の年表で明らかになる。
2012年、自由が丘駅前に「HINATA KITCHEN」をオープン。翌2013年にも「JINGLE BEER&DINING」をオープンしている。
「業績は順調だったんですが、2014年、片腕だった取締役が他界。父もこの年に他界します」。
「きつい1年だった」と千葉さんはいう。だが、下を向かない。これも、父の教え。
2015年には、自由が丘に2店舗目となる「こかげ酒場」をオープン。
その後も、出店を続け、その一方で人材の育成や流失とたたかいつづけている。「美容師を育成するには3年かかります。それだけ時間をかけて育てても、技術をつければ独立を目指し退職していきます。現状、美容室の出店はストップしています」。
ただし、千葉さん自身は、美容師の仕事をリタイヤするつもりはない。今も、美容室に立っている。「接客業のなかでは、美容師が最高峰だと私は今も思っています。私たち美容師は、あの距離で多い人で月に400人と接しているんです」と千葉さん。
「お客様と、あの距離で1時間、時には2時間接する仕事なんてほかにないでしょ。大事な髪をまかせてくださったり、シャンプーでは体を預けてくださったりね」。
たしかに。
<その接客ノウハウが、飲食で活きている?>
「そう。まちがいないと思います。飲食の業績が好調な、一つの理由です」。美容師の接客技術を、飲食に移植する。そういう手もあるのかと、ある意味、目から鱗の話。
ただ、スタッフの定着は、それとは別の話。
「2019年11月ですが、女性スタッフの育休後の職場復帰を念頭に業態を模索して、高級食パン専門店「Omochi」をオープンします。ほかの飲食店とはちがって、帰宅が深夜になることはありませんから(笑)」。
この一手が功を奏する。以下は、コロナ禍になってからの話。
・・・続き
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