2025年1月7日火曜日

株式会社鳳凰 代表取締役社長 網代代二郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鳳凰 代表取締役社長 網代代二郎氏登場。

本文より~

小学3年生がみた海外。

今回、ご登場いただいた株式会社鳳凰の代表、網代社長は1982年に世田谷区に生まれている。お父様は着物職人だったそう。
「祖父の代から」とのこと。網代社長が小さい頃は業績もよく、海外旅行にも行っている。
「小学3年生のときオーストラリアに初めて連れていってもらって、このあとの人生でもでてきますが、海外好きになってしまいました笑」。
「中学までは世田谷でボーイズリーグに所属。評価をいただき、野球推薦で日大鶴ケ丘に進学しました。高校では2番手のキャッチャー。周りと比べてどうだってことではなく、もともとプロという意識はなかったです」。
野球は好きだが「真剣にはなれなかった」というようなことをおっしゃっている。
「大学はそのまま日大に進学しました。大学時代にもアメリカや東南アジアによく行きました。アメリカには4回、行きました。父親の知人がサンノゼにいましたので、そちらをべースにあちこちをみて回りました。バイトは飲食でしたが、とくに飲食の仕事に惹かれたわけじゃありません」。
大学を卒業した網代社長は5度目となるアメリカに渡る。
「就職という選択肢はなかったです。このときアメリカには3ヵ月滞在しました。そのとき出会った雑貨ショップを経営する日本人のオーナーから『30歳までやりたいことをみつければいい』と言われて。それが一つの指標になった気がします」。
<ジブン探しですね?>
「ええ、ただ父親も事業をしていましたので、なにか一つの仕事というよりも会社を経営するというのに興味があって。それで、飲食店だったらスケールは小さいかもしれませんが、経営のマネジメントが勉強ができそうだと思って、帰国後、クリエイト・レストランに就職します。これが23歳のときです」。
幼い頃に海外を体験する少年少女は少なくない。ただ、それがきっかけに海外を好きになる少年少女は案外少ない。網代少年はオーストラリアでなにをみたんだろう。日本の伝統的な文化を守る着物職人の父親をちかくでみてきたことで、異国の文化を鮮明に描き、知ることができたのかもしれない。

飲食と網代社長。

「クリエイト・レストランで配属されたのは汐留の地中海レストランでした。当時ですか? そうですね、もう300店くらいはあったんじゃないかな」。
クリエイト・レストランはいうまでもなく、日本を代表するレストラングループだ。ただ、網代社長はこちらを1年半で退職している。
「じつはヘッドハンティングの会社から電話をいただいて。ちょうどサービスは勉強できても、それ以上はないかなと思っていたタイミングだったこともあって。ただ、その電話がきっかけになりましたが、けっきょく自分でみつけた会社に転職します。そちらの会社は当時、FCを含め10数店舗だったと思います。クリエイト・レストランツと比較すれば小さな会社ですが、そのぶん社長との距離もちかく、29歳になるまで3年半くらいですが、こちらでマネジメントを含め、飲食の仕事を徹底的に叩き込んでいただきました」。
「その3年半でビジネスの根幹ができた」と網代社長は、当時の社長に感謝する。とにかく型破りの社長だったらしい。飲食の仕事は「コンサルティングだ」と言っておられたそうだ。
<2つの会社を経て、ジブンはみつかりましたか?>
「そうですね。クリエイト・レストランのときもそうですが、私はホールで料理は調理くらいしかできません。ただ、そのぶんお客様と接することが多いので直接、お言葉をいただくことも少なくありませんでした」。
網代社長は「鳥肌が立った」という。「お客様から『ありがとう』や『たのしかったよ』といっていただけるんですね。そのたびに、『ありがとうございました』と頭を下げながら、脳みそで鳥肌が立っていたんです」。
相手を思う言葉は「言霊」になる。多くの飲食経営者が「ごちそうさま」の一言に魅了され、飲食の道を進んでいる。ただし、もう一度、海外に渡る。

南十字星の下で、ジブン探しの旅が終わる。

「ワーキングホリデーで海外に行けるのは30歳までなんです。だから、行くなら今だと、退職させていただきました」。
29歳になった網代社長は駆け込むようにして、海外を志向するようになった原点でもあるオーストラリアへ渡る。
「オーストラリアでは、日本の社長が経営されているマスヤさんという日本食のレストランで仕事をさせていただきました」。
飲食の経験は長い。
「たぶん、喜んでいただけたと思います。ふつうのワーホリとはちがってキャリアがありましたから。それに、マネージャーとも気があって。バーカウンターを担当させていただき、私もふつうじゃできない経験を積ましていただきました」。
カウンターの向こうには様々なお客様がいらしたことだろう。「ありがとう」「たのしかったよ」。海の向こうで投げかけられた言霊は、網代社長にどう響いたのだろうか。
「オーストラリアではアッシフィールドというシドニーから少し離れたところに住んでいました。離れているといっても電車で30分くらいですが」。
地図で確かめるとシドニーから少し離れたところにアッシフィールドという地名があった。
オーストラリアで、網代社長はしっかりとジブン探しの旅を終えている。
「異国の、そう小学3年生のときに渡ったオーストラリアで、改めてジブンの天職をみつけた気がしています」。それはお客様の「ありがとう」「ごちそうさま」を追いかける飲食という万国共通の仕事。夜空を見上げればもちろん南十字星がかがやいている。

・・・続き

株式会社鳳凰 代表取締役社長 網代代二郎

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合同会社 Briller(ブルイエ) 代表 浦野康輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”合同会社 Briller(ブルイエ) 代表 浦野康輝氏登場。

本文より~

歌手の父と、浦野少年と。

父親は銀座のナイトクラブの歌手だったそう。
「バブルが弾けて銀座がダメになってしまった後も、個人で活動をして、TV出演やレコードのリリースもあったと聞きました。コンサートも開いています」。
バブル時代の銀座はさぞ煌びやかだったんだろうが、今の世代の人間にはイメージしにくい。
子どもたちに対する躾は厳しく、何かあると「鉄拳が飛んで来た」と笑う。ともだちまで父親をみると怖がっていたそうだ。
<お父様をみて、芸能界に入りたいとは思わなかったんですか?>そんな質問をぶつけると首を振る。
姉弟は3人。現在、「長女の姉は心理カウンセラー、弟はエンジニア系の会社を経営している」とのこと。3人とも芸能界とは距離がありそうだ。
「父も母も中卒だったから、子育てや教育と言っても知識がなかったんじゃないかな。勉強しろって言われたこともないし、大学に行けとも言われなかった。そういう意味では自由奔放だった気がします(笑)」。
「中学を卒業したら、働け」と、これは、お父様の言葉。
浦野少年は高校を卒業し、アメリカのハリウッドで皿洗い、帰国後ワイシャツ会社、骨董古道具屋、アパレル店アルバイトなどを経験し、20歳より外壁屋根壁の職人として勤め、その後、フリーになる。20代前半、飲食とはまだまだ接点がない。

何のために生きるのか。

「フリーになって10年。おなじことの繰り返しに、だんだん飽きてきた」と浦野さん。「まともな教育を受けていなかったから、人生を俯瞰できなかった」とも。
「オレは、何のために生まれてきたの?」。
職人を辞め、代行運転の仕事を始める。介護の資格を取り、二種免許も取った。
「介護タクシーをするためです。バカだけど、運転は得意。オレらなんて、そういう人種」と、なかば吐き捨てる。
実は、浦野さんは、18歳の時アメリカに渡っている。
「アメリカの映画が好きだったから『英語を勉強したい』と父親に言ったんです。そしたら航空券を買ってきて『アメリカに行ってこい』って」。
<お父さん、かっこいいですね>というと、苦笑い。
<アメリカはいかがでしたか?>
「父親の知り合いがいるハリウッドに行ったんですが、怖い思いを何度もしました。レストランで皿洗いをして、3ヵ月暮らしました。もう行きたくはないですが、アメリカに行ったことは意味があった。アメリカにはいろんな人種がいるでしょ。そりゃ、暗闇からのそっと現れて、「煙草や小銭をくれ」っていうような人もいた」。
「アメリカだけじゃなく、世界には食べることすらままならない人が少なくない。そういう人と比べ、日本に生まれただけでラッキー。なんだかんだといっても、ふつうに生きていけるでしょ」。
「日本に生まれただけでラッキー」と、浦野さんは何度かそのフレーズを口にした。
「日本は贅沢な国だから、私を含めてみんな、生ぬるいんです。そういうことが頭でわかっても、言葉になるまで何年もかかった」。
これは、フリーの職人を辞めてからの話。
「豊かなこの国でオレは何をすればいい」。心の均衡を失い、もがき苦しんだ。代行運転で、車を走らせながら浦野さんは何を思っていたんだろうか?

雌伏の時。

長い長いトンネルだった。「つぎに進む、きっかけになったのは、障がいをもっても強く生きている人をみたこと」。
もう少しつづける。
悩みつづけたことで、浦野さんの精神性がかたちづくられていく。
「人生に無駄はない。そういうことにも気づきました。燻っている時期に『クソみたいな人生だ』と何度も吐き捨てました。でも、じつはそれさえ無駄じゃなかったんです」。
「まるで、バネを縮めている時期だった」と表現する。
動くことで風景は動き出す。人生もおなじ。「だからね。言い訳をして、何もしない人には怒りを感じるし、逃げないで欲しいと思う」。立ち止まっているだけでは、景色もかわらないから。
浦野さんが動きだす。
ただし、もう39歳になっていた。
だが、霧は晴れていた。

「やきとんてるてる」誕生。

「何やるの?となった時に、少しでも楽しいことと思ったんです。単純ですよね。料理をつくるが好きだったし、だれかに食べてもらって「おいしい」って言ってくれたら嬉しいでしょ」。
料理はできた?と聞くと、「たいていなんでもできるんです。極めたことないんですが」と浦野さん。10ヵ月、修業したあと独立。たしかに、なんでもできる。
現在、浦野さんは飲食店など合計6店舗を経営している。
創業店は高田馬場にある「やきとんてるてる」。繁盛店だし、グルメサイトの評価も高い。<ロケーションは気にしましたか?>というと、「そういうんじゃなくって、家賃がむちゃくちゃ安かったんです」と一言。
「もう、お化け屋敷だった」と笑う。「だけど、職人をやっていたから、木造だし、手を入れたらどうなるかだいたいわかるんです。お金もないから、職人時代の知り合いにお願いして、私も久しぶりに職人のような仕事をして」。
1階が店舗。2階が住居。
「店をオープンして、これで生きている」と思ったそう。「当時の私には何もない、だからこそ自由だった」とも。
もう、モヤモヤはしてなかったんですか?
「そうですね。私自身が立っている位置を移すと、違った世界が広がったんです」。

・・・続き

合同会社 Briller(ブルイエ) 代表 浦野康輝氏

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2025年1月6日月曜日

食べログの順位、またまたアップするかも。

新年明けましておめでとうございます。

キイストンは初期から食べログの正規代理店ですが、2024年は順調に件数伸ばし、徐々にランキングをアップさせ、現在全国11位になってますが、どうやら2025年早々には念願のBest10入りしそうな状況です!

なんでもコツコツ続けてると、まわりが脱落していき最後には良いことありますね。

コロナ前、コロナ時期とは比べものにならないくらい業績伸ばしてくれてます。

ただ、キイストンの本業は飲食業界に特化した戦略型の人材採用会社ですのでこの1〜3月は全社で求人シフトします!!

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