2025年4月12日土曜日

2025年度スタートしました!

 205年4月より新しい期がスタートしました。

前期は点数でいうと70点くらいですかね。

決めた目標に対して、アクシデントさえなかったら達成しました。

ただ部門でばらつきが大きかったのが反省材料です。

今期は各部門の戦略をもっと練って臨みます。

おかげさまで戦略型の人材採用会社=求人会社のキイストンは、食べログ正規代理店が現在38社に絞られましたが、悲願のトップ10入り(2024.12〜2025.2)出来ました。

皆の頑張りに、ただただ感謝です。

また、人材紹介部門は特定技能に力を入れていきます。

といっても、実績はほぼゼロからのスタートですが、

特定技能の分野でも業界内でシェア取れたらと考えてます。

もちろん、求人メディア部門はキイストンの本業なのでがガンガン行かせます!

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年4月8日火曜日

『鰻の成瀬』のフランチャイズビジネスインキュベーション株式会社 代表取締役社長 山本昌弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”『鰻の成瀬』のフランチャイズビジネスインキュベーション株式会社 代表取締役社長 山本昌弘氏登場。

本文より~

人の話を聞かない、何を考えてるかわからん奴。

山本氏が生まれたのは、京都にほど近い滋賀県高島郡(現在は市)。山本家は両親のみならず、祖父母や伯父伯母までもがみな公務員。3つ上の兄も教師というお堅いお家柄だ。
― じゃあ、小さいころからずっと「お前も将来は公務員に」って言われたんでしょうね ―
「言われたかどうか記憶にないくらい、人の話を聞いてなかったですね(笑)」。
周りからは「何を考えているかわからん奴」と思われるほど、自由奔放・唯我独尊。地元の小学校を卒業後、実家から電車で45分もかかる大津市内の私立学校に入学したのも、何をしでかすか分からない息子への親の配慮からだった。運動神経は抜群で、陸上部では3000m走で市内2位になるほどの実力を持っていたが、2年生になると毎週実施される英単語や漢字テストの補習に追われ、それどころではなくなる。別に勉強が苦手だったわけではない。親友のせいで、勉強することを“やめた”のだ。
「中学時代、一番仲良かった子が、学校で一番頭良くてね。ほかのことは努力すればだいたいなんとかなったけど、勉強だけはそいつに絶対勝てないし、一番になれない。『僕が勝負するのはここ(勉強)じゃないな』ってことで、勉強するのをやめました。僕が勉強しなくなったのは、絶対あいつのせいですよ」。
中・高時代、特になりたいと思うものはなかった。強いて言えば、海外への憧れだろうか。当時流行っていた「世界ウルルン滞在記」や「あいのり」以外に、母親の存在も影響した。教職を辞め専業主婦になった山本氏の母は、子育て終了後オペラ歌手に転身。日本とイタリアを行き来する生活をしていた。

イタリア留学で生きる術を学ぶ。

「世の中の人はもっと英語を喋れると思ってたんです。だから英語圏に行ってもしかたがないし、人と同じことをしても自分の特徴にならない。人と違うことをしようって」。
そこで選んだのがイタリア・ローマへの留学だ。母親のこともあり、「イタリアなら反対されにくいだろう」という計算もあった。その目論見通り、高校卒業と同時に山本氏はイタリアへと旅立つが、そこで待ち受けていたのは言葉の壁だった。
「ホームステイ先の人があれこれ説明してくれるんだけど、イタリア語だから全く分からないんですよ。バスの停留所が分からなくて終点まで行っちゃったり、お風呂のガスの使い方が分からなくて、4月なのに冷水シャワーを浴びたり。このままじゃ生きていくのもヤバいと思ってイタリア語を必死に勉強しました」。
もともと集中力があるのだろう。イタリア生活が3か月を過ぎたころ、突然先生の言葉が聞き取れるようになった。しかしヒアリング力を身に着けた途端、学校に行かなくなりアルバイトや夜遊び三昧。あれこれ言ってくるホームステイ先に嫌気がさし、ついには家を出てひとり暮らしを始めてしまう。親からの仕送りを“無限”と勘違いし、お金をガンガン引き出して怒られたが、そんなことは気にせず、どこまでも自由奔放だったという。

ECCで「使えないヤツ」から「トップセールスマン」に。

3年間のイタリア遊学、もとい留学を終えた山本氏は、帰国後英会話スクールのECCに就職するも、入社早々「使えないヤツ」とのレッテルを貼られてしまう。イタリアで悠々自適に暮らしていたため、PCスキルはおろかクラブやサークル活動を通じて社会性を学んだ経験もなかった。その上、面接時の「英語以外の言語が話せますか?」という質問には、「(英語は話せないけど)イタリア語が喋れます」と答えての入社だ。普通なら萎縮しそうなものだが、「どうやったら周囲をぎゃふんと言わせられるかなー」と考えていたというから驚きだ。
「自分のことを全く知らないお客様と対峙する新規営業(入会案内)なら、他の社員と同じスタート地点で戦える」と踏んだ山本氏は、そこに全力を注いだ。こうして、落ちこぼれだった新入社員が半年後には中部地区でダントツの営業成績を収める。さらに、FCであるECCジュニア(子供向け英会話教室)の収益に注目し、FCビジネスにも興味を抱くようになった。
トップ営業マンから店長に昇格した山本氏は、現場の仕事よりも責任者としての業務に忙殺されることが多くなっていった。会議に出席したり、ハンコを押したり、そんな日々を続けるうち、胸中に危機感が芽生えていく。「このままでは井の中の蛙だ。個人の能力を高めるためには、新たな世界に飛び込んだほうがいい」そう判断した山本氏は、トップセールスという栄光の座を自ら放棄した。

加盟店の目線に立ったサポートで、再びトップの座に。

山本氏が次に選んだのは、ハウスクリーニングのおそうじ本舗だった。入社後はとにかく大人しく、目立たないようにした。上司の言うことには「はい」と答えつつ、水面下で独自の営業スタイルを構築。そして1年後、再び営業の頂点に立った。
― お仕事はなんだったんですか? ―
「スーパーバイザー(SV)です。売上げアップのためのアドバイスやサポートと、本部が提供する販促品を加盟店に購入してもらうこと。本部と加盟店、両方の利益を考えるんです」。
― 成績を上げるコツは? ―
「加盟店のオーナーさんに、『山本は味方だ』って認識してもらうことですね。あれこれ指示するんじゃなく、『オーナーさんが今できそうな方法はAとBとCがあるけど、自分ができそうなものはありますか?』って、自分で決めてもらうんです。初期費用払ってFCで独立しようって人が、他人から命令されたいはずはないじゃないですか。自分で決めたことだと思わせたほうが、オーナーさんのモチベーションを維持しやすいんです」。
山本氏には「いくら店長といっても所詮は雇われなのに、本部は本当にうるさい。しかもごちゃごちゃいう癖に、責任だけはこっちに取らせようとする」というECC時代の不愉快な思い出があった。加盟店に寄り添ったサポートの重要性に早くから気づいていたのは、そうした経験をしていたからだ。

・・・続き
『鰻の成瀬』のフランチャイズビジネスインキュベーション株式会社 代表取締役社長 山本昌弘氏
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2025年4月2日水曜日

株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏登場。

本文より~

世界でただ一人の日米ゴルフ・ティーチングプロA級資格保持者。

飲食業で名をあげる社長には多才な人が少なくないが、その中でも三木智映子氏のプロフィールは群を抜いている。
全米女子プロゴルフ協会(USLPGA)と、日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)のティーチングプロフェッショナルA級資格を持つ世界でただ一人の女性にして、40年の歴史を誇るイタリア料理専門店・ミキインターナショナルの二代目社長。2021年開催の東京オリンピックゴルフ競技のテクニカルオフィシャルに指名される一方、在日イタリア商工会議所からは、『男性優位の日本の飲食業界で、女性ならではの感性とセンスを生かし、イタリア料理界に影響力を持つ女性経営者のひとり』として第1回「Phenomena賞」を授与されている。
ゴルフとイタリア料理。全く異なる2つの分野でプロとして活躍するのだから、どれほど切れ者の女性だろうかと思いきや、取材では開口一番「私はやんちゃで、すっごくおてんばでした(笑)」と屈託のない素顔を覗かせる。
それでは、「子供の頃は庭の木や塀に登ったり、木から木へと飛び移ったりして遊んでいた」という彼女のドラマティックな半生を見ていこう。

一世を風靡した「スパゲティーファクトリー」と、伝説の名店「パッパガッロ」。

智映子氏の父・三木忠彦氏が「スパゲティーファクトリー」をオープンしたのは、今からおよそ半世紀前。和風アサリや明太子、納豆など和風スパゲッティだけで100種類ものメニューがあふれ、そのジャンルの先駆けとして一世を風靡した名店である。寡黙だがインテリアセンスが抜群で、数字にも才覚があり、およそ10年で4~5店舗を構えるほどに成長した。
「でも、料理人たちにこう言われたんだそうです。『スパゲッティはイタリア料理なのに、僕たちはスパゲッティしか作れない。しかも和風しか作れない。僕たちはスパゲッティ以外のイタリア料理も作りたい!』って」。
従業員の切なる訴えを機に、本格イタリアンの道に進むことを決意した忠彦氏が目を付けたのは、イタリア料理「カプリチョーザ」だった。忠彦氏は飲食業界に入る前はインテリア会社に勤務していた背景があり、カプリチョーザ本店の設計をさせてもらった関係だった。今では国内外に100店舗を構えるものの、当時はまだ渋谷の1店舗だけ。そこに料理人を送り本場のイタリア料理を学ばせた。
1985年には株式会社 ミキインターナショナルを設立し、今では伝説の名店と謳われる「パッパガッロ」を世田谷代田の環七沿いにオープン。元JALのグランドホステスで接客や折衝が得意だった智映子氏の母が社長に就任し、以後同社を拡大させていくことになる。
「円筒形で目立つ建物だったのですが、初めはお客様もまばらで。当時まだ小さかった私は、サクラとして毎日のようにお店に連れて行かれました。最初は美味しいものが食べられて嬉しかったのですが、さすがに毎日となると、大好きなアイスクリームさえ残すという、食いしん坊の私としては衝撃の出来事がありました」。
娘のサクラぶりが功を奏したかはともかく、「パッパガッロ」の人気は80年代に起こったイタ飯ブームに乗り上昇、テレビや雑誌に何百回も取り上げられ店はますます繁盛していった。
この第一号店の成功により、ミキインターナショナルも店舗を増やしていったが、日本の至る所でイタ飯屋が増えていった。そこで、他社との差別化を考え、「“本場・本物”に徹底してこだわる」というミキインターナショナルの基本方針が確立。今も料理人をイタリアの提携店で修業させ、日本流にアレンジしない本場に忠実な味を再現。そしてホールスタッフにはお手本とするイタリア本場の店舗と同じおもてなしを学ばせている。

「お嬢様」というレッテルが、独立心の糧に。

さて、今回の主人公である智映子氏に話を戻そう。
三木家の第二子として誕生した智映子氏は、前述のとおり木登りが得意なおてんば娘だった。母は兄の教育にことさら熱心な一方、娘に対しては放任、さらに通っていた小中高一貫校が自由な校風だったこともありのびのび育った智映子氏だが、幼いころから「三木家のお嬢様」という扱いには我慢がならなかったという。
「祖父や両親はすごいかもしれないけど、私は私。私自身を見て欲しかった。だから『自分の力で生きていこう』って、ずっと思っていたんです」。
高校入学後は傘屋でアルバイトを始めた。当時はバブル経済に突入したばかりで値の張る傘が飛ぶように売れ、雨の日には傘の売り上げだけで100万円に達したと話す。月々のバイト代が10万円を超えていたというから、なんとも景気のいい話ではないか。ただ、アルバイトにのめり込みすぎて、高校を欠席することもあったらしい。ところが、もともと放任主義の両親のみならず、学校からも注意されることはなかったそうだ。
「高校の同窓会で、当時の担任の先生に『あの時、なぜ私のことを注意しなかったんですか?』って尋ねたんです。そしたら『お前のスイッチは俺が押してもダメだと思ってたからな。お前のスイッチはいつか入る、いつかやるヤツだって思ってた』って言われました」。
ひとたびこの“スイッチ”が入ると爆発的な力を発揮するのが智映子氏だ。たとえば、試合が秒で終わるほど下手だった高校時代のテニス部では、負けた悔しさから一人で猛練習を繰り返し、3年生の引退試合では見事すべて勝利を勝ち取っている。生来の運動神経の良さと負けず嫌いがうかがえるエピソードだ。

ゴルフを始めたきっかけは、父の何気ない一言。

女子大に進学した智映子氏は、ゴルフ部の美しくきらびやかな先輩たちやユニフォームの可愛らしさに惹かれ、幼少期から時折言われていた「智映子はゴルフに向いていると思う」という父の言葉をきっかけに入部を果たす。高校時代はアルバイトに明け暮れて父親と少し距離ができていたが、父親は大喜びしてゴルフレッスンにも通わせてくれた。
「ただ体育会系にありがちな理不尽なルールが多くて、一年生はいつも走らされてばっかり。『もう走りたくない。スポーツは実力の世界だから、まっすぐ、圧倒的に遠くへ飛ばしさえすれば、私も歩けるはず!』と思って、人一倍練習しました。それで、いつの間にかすごく飛ぶようになっていたんです」。
それからはぐんぐん腕を上げ、一年生ながら学外の試合にも出場するほどになった。しかし、18歳でゴルフを始め、強豪校の選手でもない智映子氏のことなど誰も知らない。そのため、試合で無視されることも少なくなかったそうだ。
「ここは実力の世界。実力を示して、相手が会話したくなるようにすればいいって、また練習を重ねました」。
彼女のゴルフに対する“スイッチ”が、こうして「ON」になった。

夢を打ち砕いた交通事故。

さらなる高みを目指し、智映子氏はアメリカ西海岸にある世界最高峰の「レッドベターゴルフアカデミー」に通い始めた。ゴルフ部に入って初めてのラウンドは150台だったスコアもわずか1年で90~80台、翌年には70台を叩き出し、メキメキと腕をあげていく。大学4年春と秋の大会ではフィールドでのベストスコア、メダリストも獲得した。プロの道を選んだ彼女は大学卒業と同時に渡米するが、猛反対していた母はそれ以降一度も連絡をくれなかったという。
LPGAの下部ツアー「ミニツアー」(野球でいうマイナーリーグ)に参戦して約3年が過ぎ、智映子氏のゴルフ人生は最高潮に達していた。そして「さあこれからトップツアーに参加しよう!」という矢先、人生最大の不幸が彼女を襲う。それは高速道路上の事故だった。まっすぐ運転していた智映子氏の車に左車線の車が後方から追突した。ハンドルを握っていた左手の関節が一瞬で7つずれた。ゴルファーの命ともいえる左親指を大きく損傷し、ツアープロへの道は完全に絶たれた。全てに絶望して泣きながら実家に電話した智映子氏に、母はこう言い放った。
「せっかくそこまでいったんだから、何らかのカタチにしてきなさい」。
母の厳しい言葉に智映子氏は、悲しさから一転、できる事に目を向けられるようになった。選手として習っていたアカデミーの先生を訪ねる。すると、「智映子はティーチングが向いている」という意外な言葉が返ってきた。こうして新たな希望を抱いた彼女は、指導者として再びゴルフと向き合う決意をする。その後は修練を重ね、ついに日本人で3人目(当時)となるUSLPGAのティーチングプロ資格を取得した。しばらくアメリカ西海岸でレッスン活動をし生徒が増えていたが、先代の社長である母の病気を告げられ、帰国を決意する。
帰国後にはJLPGAのティーチングプロ A級資格も取得し、ゴルフ指導の道に進むつもりでいた智映子氏だったが、母の急死を機に人生で三度目の転期を迎えることになる。それは二代目としての社長就任だった。

・・・続き
株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏
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2025年3月26日水曜日

株式会社ミナト開発/株式会社モアナ 代表取締役 安田典弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミナト開発/株式会社モアナ 代表取締役 安田典弘氏登場。

本文より~

高校3年で350万円のスープラを乗り回す!

安田氏の父親は福島県出身。安田氏が生まれたころに妻の出身地である小田原へと移り、建設業に着手。個人事業主としてスタートし徐々に商売を拡大、下請けを使わず自らできる範囲で業務を受注した。事業規模はさほど大きくなかったものの、時代背景もあり仕事は順調だったという。マイホームを購入してからは朝から晩まで黙々と働き、ギャンブルや派手なことには一切手を出さなかった。そんな父の唯一の道楽は車で、車庫にはクラウンやジャガーが並んでいたそうだ。
安田家の次男として生まれた安田典弘氏は、地元で義務教育を終え、マンモス校として知られる相洋高校に入学。運動神経には自信があり、また部活が必修だったことからとりあえず野球部に入るが、2~3か月で退部。その後は一転してアルバイトに精を出す日々を送る。レストランの厨房や旅館でのバイトに加え、週末には実家の仕事を手伝うこともあった。
車好きの父親に似たらしく、高校3年生の夏休み前に免許を取得。さっそく7年落ちの中古車を購入している。
「高校3年の暮れに就職が決まったんで、次は思い切って新車を買ったんです。スープラで、当時350万円くらいだったかな」。
- 就職が決まったとはいえ、そんな大金を返すあてはあったんですか? -
「就職先は、秦野にあるスタンレー電気でした。先輩に『工場勤務なら3交代で20~25万になる』って言われて、僕もそれを希望してね。ところが、そういう話で入ったのになぜか定時(の部署)に配属されて、手取りは結局10万もなかったんですよ」。
「せめてガソリン代くらい」と週末には父親の仕事を手伝っていたが、勤務先から副業禁止を言い渡されてしまう。業務内容や給与に不満があった安田氏はスタンレー電気を退職し、そのまま父親の会社に就職。その後、高校時代からの彼女と結婚し3人の子宝に恵まれた。その末っ子が愛里さんだ。

33歳で独立するも、コロナを機に事業を手放す。

- 社長の人生に影響を与えた人物はいますか? -
「僕の父親と、あと同級生のお父さんですね。父はとにかく黙々と仕事をするタイプで、友達のお父さんは同業者だったんですが、結構派手に、手広く事業をされていました。同じ業種でもやり方が全く違うんですよ。その両方のいいところを見せてもらったっていうのは、良かったと思います」。
営業スタイルの異なる2人の経営者に触れるうち、父親との意見の違いが明確になってきた。父のことは尊敬しているし、喧嘩もしたくない。でもこのままでは衝突してしまう。
当時33歳だった安田氏は独立を決意。15年間勤めた父の会社を辞め、新たに建設会社を立ち上げた。同社はリーマンショックを乗り越え、最盛期には従業員20人超の規模に成長。小田原から東京に進出するなど、事業は順調に進んでいった。
しかし、2020年初頭以降のコロナ禍が安田氏を襲う。ワクチンの接種が始まるかどうかという矢先、新型コロナに感染してしまったのだ。
「肺炎を併発して、2週間ほど入院しました。結構重症で、エクモ(体外式膜型人工肺)の装着寸前までいったんです」。
一時は死を覚悟したという安田氏。一命は取り留めたものの肺機能の回復に時間を要し、後遺症にも悩まされた。いったんすべてを整理しようと部下に会社を譲渡したものの、旧知の取引先から再起を促され、建物の解体や造成工事、リフォームを手掛ける㈱ミナト開発を設立。以前のような規模ではないが、これまでの経験と人脈を活かして業績は順調に推移している。

娘の夢を叶えてやりたい。

コロナ禍は、末娘の愛里さんにも大きな影響を及ぼした。ライブや撮影会の中止で活動が制限されたことから、所属グループ「ラストアイドル」は2020年5月末に解散。「学業に戻るか、留学するか……」芸能活動を終えた愛里さんは自分の進路について悩んでいた。
自宅にこもる生活の中で、今まで何気なく口にしてきた食に対する考え方が変わっていったという愛里さん。多忙で外食が多い父には、より健康的な料理を食べてもらいたい。母が収集した素晴らしい食器を活用したい……。愛里さんが出した結論は、「自分の店を持つこと」だった。もともと料理が好きで、自身のSNSに公開した手料理が評判だったことも背中を押した。
そんな娘の決意を全面的に支援したいと思うのが、親心というものだろう。仕事柄、物件探しやリフォームはお手のもの、地元小田原には絶品の干物やブランド豚の『和豚もちぶた』を扱う知人もいる。娘の目指す『身体に優しい料理』というコンセプトにピッタリではないか。安田氏はそう考えた。
そんな折、麻布十番駅から徒歩3分という好立地に新築物件が出た。10坪弱という広さは、娘が一人できりもりするのにちょうどいい。店のコンセプトや設計はすべて娘に任せ、安田氏は必要な部分だけ支援した。こうして2022年11月、母の味を前面に押し出す「安田食堂」がオープンした。
「料理はすべて娘が一人で作っていて、客回りは姪っ子が担当してくれています。え?姪ですか?あの子もかわいいですよ(笑)」。
これはもう食べに行くしかない。

株式会社モアナで、飲食業界に本格進出。

「愛里の店でも使っている『和豚もちぶた』の会社は、僕の知り合いなんですよ。その豚肉を使った店舗展開をと考え、株式会社モアナを設立しました」。
建設業から飲食分野への本格参入を決めた安田氏が選んだのは、調理人不要でオペレーションが容易な豚丼だ。この3月中旬にオープンするという店の名は『もあちゃん食堂』、第一号店は現在インバウンド需要急増中の浅草に開業する。元はバーだったというその物件はビルの2階で、4階はオーナーの住居。中古物件ということもあり、立地の割に家賃が控えめという好条件だ。こうした物件を“掘り出す”能力は、安田氏の本業(建設業)ならではの強みといえるだろう。
「実は今、目黒のクラフトビレッジ西小山で実験的な店を出してはいるんですよ。ここはスタッフ育成が主目的なので、大々的な宣伝は控えていますが。基本メニューは豚丼だけで、居酒屋風にはしません。今後はインバウンド客向けに展開していく予定です」。
安田氏にとって、飲食業と直接関わるのは高校時代のアルバイト以来だ。ほぼ未経験からの参入ではあるが、すでに信頼できる仕入先を確保し、好物件を探し出す力も秘めている。『もあちゃん食堂』が訪日客の人気を集め、浅草の新名所となることに期待したい。

株式会社ミナト開発/株式会社モアナ 代表取締役 安田典弘氏

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2025年3月18日火曜日

麺JAPAN株式会社 代表取締役 坂田敦宏氏登場。

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本文より~

中卒、日雇いバイト。21歳で起業す。

「中学3年の時、日雇いのバイトで日給が3000円。悪くなかったから中学を卒業して、それを仕事にした」と、今回ご登場いただいた麺JAPANの代表、坂田 敦宏さん。
 じつは、坂田さんには2020年、「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。今回で2回目。以前の坂田さんがアップデートして、もどってきてくださった。そんな感じで話がスタートした。
 「だから、中卒。こればっかりは何年経っても変わらないね(笑)」。
 中学を卒業した坂田さんは、建設現場を転々とした。鳶職もしたし、塗装もした。基本は日雇いバイト。それでいて、21歳で起業しているからユニークだ。
 <「成り上がり」ですよね?>
 「そう。永ちゃんの本を読んでね」。
 <きっかけはたしか、ダンプのなかの会話でしたね?>
 親方がダンプのなかで言うんだよね。『坂田さぁ、学歴がない奴が金持ちになろうと思ったら独立しかないんだぜ』って。毎日のように聞かされていたから、刷り込まれちゃって。19歳の時に、今まで漫画本しか買ったことがなかったのに本屋に行って」。
「成り上がり」は、いうまでもなく、矢沢永吉氏のベストセラー。「独立しかない」×「成り上がり」。2つのワードが交錯する。
「20歳で起業しようと決意して、21歳でハウスクリーニングで独立します。バブルの時だったけど、あんまり儲からなかった(笑)」。
それでも、のちに法人化し、ビルメンテナンス業を中心にフランチャイズを展開。リフォームや人材派遣、業務請負、IT、芸能、コンサルティングと次々と事業を立ち上げ、11社のグループ会社を育てている。
<まさに「成り上がり」ですね?>
「21歳で起業して、30代前半までは、そうですね。たしかに、成り上がっていました。売上も、グループで20億円くらいあったからね」。ただ、不慮の事故をきっかけに30代後半から、舞台は暗転する。

絶対、治るから。奇跡の復活。

その時の様子をもう一度、うかがった。
「40歳の時に倒産です。地元に戻ってタクシーの運転手を3ヵ月半しています。そして、43歳ですね。脳幹出血です」。
「幸い命は取りとめましたが、『半身不随は免れない』と言われました。当時あった仕事はすべてキャンセルして、2年間はリハビリに専念。ドクターから言語障害と半身不随といわれた絶望のなかで、看護師さんとリハビリの先生だけが『立てるようになれるかも』と励ましてくれたんです。それが、嬉しくて、力にもなって」。
今、坂田さんはYouTubeでも登場されているが、一般の人とまったくかわらない。「ここまで回復するのは珍しいです。以前にも言いましたが、NHKから取材も受け、珍しい症例としてテレビ出演しているんです」。
奇跡のような話は、それで終わらない。
<それからまた起業されますね?>
「リハビリが終わって、奇跡的な回復をするんですが、それは、支援してくださった看護師さんやリハビリの先生のおかげ。だから、そういう医療従事者の人に恩返しする事業を、と。もう一度、事業を開始します。今度は、リハビリをサポートしてくれた人たちに恩返しする事業です」。
2014年、坂田さんは「訪問看護ステーションリカバリー」を運営するRecovery International株式会社を設立する。訪問看護ステーション事業だ。坂田さん自身が、つい数ヵ月前まで利用者だったから訪問看護のニーズはだれよりわかっていた。
ちなみに、このRecovery Internationalは、2024年現在、東証に上場している。坂田さんは、当時、取締役会長職を経て、現在は株主という立場で事業を支援しているそうだ。
からだも、事業も、不死鳥のように蘇っている。
「そりゃ、つらかったよね。倒産でしょ。半身不随でしょ。天国から、真っ逆さまです。でもね。看護師さんとリハビリの先生の『立てるようになれるかも』って。あの一言のおかげで、からだはもちろん、事業まで復活することができました」。
「この数年で、性格も温厚になり、怒らなくなった」と笑っておられたのが印象的だった。その話をすると、「でも、実は温厚になったというより、怒ると血圧が上がるから注意しているだけ」と、笑った。

・・・続き

麺JAPAN株式会社 代表取締役 坂田敦宏氏

<2020年7月掲載 株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏>

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2025年3月11日火曜日

C-United株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”C-United株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

本文より~

C-Unitedの代表、友成勇樹が描くビジョン。

とにかく、話のスケールが大きい。
「日本飲食業株式会社のような気持ちで経営している」と、今回ご登場いただいたC-United株式会社の代表、友成勇樹さん。
その友成さんが率いる「C-United」は、2021年4月、珈琲館株式会社と株式会社シャノアールが統合することで誕生している。現在は「カフェ・ド・クリエ」も加わり、首都圏の様々な街で“一杯のコーヒーに心をこめて“提供。カフェ業界の頂点に立つ会社の1社となっている。
主要ブランドは「珈琲館」「カフェ・ベローチェ」「カフェ・ド・クリエ」。
ところで、友成さんにインタビューするのは今回が2回目となる。初回時にご紹介したプロフィールは以下。
<1963年、東京都文京区生まれ。中央大学卒。「日本マクドナルド」に入社し、異例のスピード昇進を重ねる。34歳から米国マクドナルド本社(シカゴ)へ。米国KGSMにてMBA修了。4年の海外勤務を経て帰国したあと、新会社の社長に抜擢。その後日本マクドナルドを退社し、独立後、飲食関連会社を立ち上げる。以降、モスフードサービスの顧問に就任。関連会社の会長職などを務めたのち、2018年7月に珈琲館の社長に就任する>
「日本マクドナルド」「モスフードサービス」、そして「珈琲館」。 いずれも日本を代表する飲食チェーンである。

34歳の青年が手にした辞令は「シカゴに行け」だった。

「日本マクドナルド」に入社し、25歳で店長に、30歳でスーパーバイザーに昇進。そして、34歳になった友成さんに下りた辞令は「シカゴに行け」だった。
「最初の辞令では『長野(冬季オリンピック担当)に行け』だったんですが、すぐに取り消され、『もう少し遠いところになった』と言われた」と、一度目のインタビュー時に面白可笑しく話してくださったのを記憶している。
そのシカゴで、MBAを取得。3年目からはアメリカ本社でプロフェッサーとして勤務。「世界のマクドナルドの本社ですからね。いい経験にもなりました」と軽くおっしゃったが、むろん、異例の人事。世界でも数名しかいないプロフェッサーへの抜擢だった。
38歳で、帰国。そして、新会社の社長に就任する。
友成さんの事業プロフィールは学生時代からスタート。中央大学在学中、新宿にレストランを開業する。だが、卒業前にクローズ。2000万円の借金を背負って「日本マクドナルド」に就職している。
25歳での店長昇進は、有能な人材が多い「日本マクドナルド」のなかでも異例の人事。「借金があったから頑張らないわけにはいかなかった」と友成さんは笑う。
さて、数年ぶりにお会いした友成さんは、「珈琲館」の社長から「C-United」の社長になっていた。その経緯から、今回のインタビューが始まった。

珈琲館の再生と、シャノアール(ベローチェ)の買収。

「珈琲館の社長になったのは、2018年の7月です。私が社長に就任した当初は、さすがに厳しい状況でした。珈琲館はフランチャイズがメイン事業ですが、本部機能が脆弱で、フランチャイズを支援する体制が十分に整っていませんでした」。
FCオーナーとの会話を重ね、同時に本部機能を整備するなどして「珈琲館」のリブランディングに着手する。
その結果、400万円~450万円だった平均月商(直営店)が、数年で約1.8倍になる(FC店の売上も約1.4倍アップ)。店舗数は、2025年1月現在、200店(内、直営100店)、最盛期に比べると30店舗くらい少ないが、法人契約が1.8倍にアップしている。
「今までは、個人オーナー、いわゆるシングルストアが多かったんですが、法人契約が進んでいることで、今まで以上に店舗数の拡大が期待できます」とのこと。
この「珈琲館」再生の最中の2020年、友成さんは株式会社シャノアールを買収している。
「シャノアールが運営するカフェ・ベローチェは、珈琲館とは違って、都会のオアシスとしてビジネスパーソンに支持されているのがストロングポイントでした」。
「from toの中間点」と友成さんは表現する。簡単にいうと、移動の合間に「いっぷくする」ということだろう。この「いっぷく」需要は案外、大きい。
今なら、プレゼンテーションに向かう途中に立ち寄り、ノートパソコンを起動し、企画書を作成しているビジネスパーソンもいるだろう。
友成さんが言う通り、シナジー効果も期待できる。
だから、新星、「C-United」は、新たな期待を背負いつつも、華々しくスタートする。そのはずだった。しかし、スタート直後、友成さんは大きな溜息をつくことになる。

コロナ禍と、一杯の珈琲の価値と。

「シャノアール社買収については、旧珈琲館株式会社の社員でも一部の人間しか知りませんでしたし、あちらも同様です」。
友成さんが、初めてシャノアール社を訪れた際の話。
「買収について、初めて聞くスタッフもいたようです。だからか、みんな私をみて、『こいつはだれだ?!』って(笑)」。
見解のちがいもあった。
「現場のスタッフたちは『店は儲かっている』っていうんです。マーケティングのメンバーも『プロモーションを仕掛け、売上は上がっている』っていうんです。たしかに、部署ごとでいえばPLは黒字。でも、全体は赤字だったんです」。
「だれも財務を理解していなかった」と友成さんは溜息をつく。だが、友成さんの溜息は、これだけではなかった。
「C-Unitedは2020年2月1日にスタートします」。
<コロナですね?>
「そう、ズバリ、コロナとおなじタイミングでした。都心ではビジネスパーソンの移動がなくなります。だから、ベローチェは大変だったんです」。
<資金繰りが苦しくなる?>
「そもそも赤字ですからね。そこに、コロナです。いつ終焉するかもわかりませんでした」。
ついに友成さんの口から深い溜息が漏れる。溜息を耳にした前任の社長が役員報酬の全額カットを申し出たほどだ。
その後もコロナ禍はつづいたが、行政から「協力金」が支給されるようになり、一息つくことができた。
もちろん、友成さんも黙っていたわけではない。
「シャノアールが所有していた研修施設があって、そこがいい値段で売却できたんです」。ほかにも「オープンが目の前だった新業態があったんですが、結局、オープンしないまま撤退させてもらいました」。カフェ以外、重荷になるブランドはすべてクローズする。
大胆な行動は、友成さんの真骨頂だ。
だが、コロナ禍は世界中を覆い尽くしたまま。
「コーヒーショップは『不要不急』の代表と言われた」と友成さんは笑う。
「たしかに、定食とかじゃないですからね。だからといって、ほんとに『いらない』わけじゃありません。必要だからこそ、珈琲館は50年以上つづいてきたんです」。
「くつろぎといった目に見えない部分で、コーヒーショップの役割がある」と、友成さんは語る。
「コーヒーそのものは不要不急かもしれませんが、くつろいで、ひといきつく空間もコーヒーショップの役割なんです。その役割からいうと、けっして不要じゃないんです。だから、閉めたくなかった」とも。
友成さんのなかでも、葛藤があったにちがいない。
だが、歩みは止めない。
コロナ禍の渦中の2022年には「カフェ・ド・クリエ」を買収している。そして、コロナ禍が終焉した今、業績はV字回復。
「2023年度でいうと、飲食全体の戻りが約80%ですが、カフェは約90%なんです。そのなかで私たち、C-Unitedは約140%を実現しています」。
そう言って、胸を張る。社会にとって、コーヒーショップがいかに重要な存在かを改めて示す結果になったからだ。

・・・続き

C-United株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏

<2019年9月掲載 珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏>

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2025年3月4日火曜日

株式会社beagle 代表取締役 花光雅丸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社beagle 代表取締役 花光雅丸氏登場。

本文より~

稀代の経営者であり、飲食人である、花光雅丸さん、登場。

「もう一度、食の世界に戻ります」。
仲間を集めたいので取材をしてください、とリクエストをいただいた。
リクエストをいただいたのは、飲食人で知らない人を探すのはむずかしいほどのカリスマ経営者。
2005年「サブライム」を設立したのち、M&Aを活用するなどして、90ブランド500店舗を展開する飲食グループを育てあげる。その一方、社員独立制度を導入し、独立希望者を育成・サポート・輩出してきたことでも知られている。
その数、100人を超える。
今も花光さんを慕う飲食経営者は多い。この「飲食の戦士たち」の取材でも、「花光さんのブログを読み漁った」という経営者に何度も出会ったことがある。
そして、花光さんが38歳の時の2019年11月1日。サブライムはカフェ・カンパニーと経営統合。「GYRO HOLDINGS」を設立する。
<コロナ禍がなければ、どうなっていましたか?>という質問に、花光さんは「そうですね。今頃は1000店舗にはなっていたかと思います」と回答。
もちろん、今やコロナも過去形だ。だが、このコロナ禍の下で飲食の経営者が翻弄されたのも事実である。花光さんも、翻弄された1人である。

異端児。学生時代に1000万円を貯蓄する。

10年以上も前になるが、じつは花光さんには「飲食の戦士たち」に一度ご登場いただいている。コチラ<第38回 株式会社subLime 代表取締役 花光雅丸氏>がその時の記事である。サブライム設立までの経緯は、こちらに詳しく書かしていただいたので、ここではかいつまんでお伝えする。
ちなみに、宣伝ではないが「飲食の戦士たち」は回を重ね、2025年1月時点で、1000回をオーバーしている。花光さんに最初に登場いただいたのは、38回だから、初期の初期。
花光さんは、1981年、和歌山に生まれている。
高校は進学校に進んだが、本人いわく、「勉強より遊びに熱中していた」そう。大学で東京にでた花光さんは、一転、起業を目標にアルバイトに打ち込むことになる。
改めて、当時の話を聞くと、朝9時から24時まではたらき、給料は通常月で40万円、多い月には60万円あったという。時給も今ほど高くない頃の話。当然、学生の領域を超えている。
「起業のために1000万円を貯蓄する。目標があったのもたしかですが、飲食の面白さにハマったのもアルバイトに熱中した理由です」。
漠然とした起業が、「飲食」という二文字に絞られる。
大学を卒業した花光さんは、いったん和歌山に帰り、有名な白浜海岸で軽トラックを改造した屋台をオープン。わずかな投資で大きな利益を上げた。これが、花光さんのビジネス原点となる。
ふたたび、上京した花光さんは有名チェーン店で店長を勤め、1年後の2005年、吉祥寺で屋台をオープンする。東京でも、当然、出店費用は極限まで絞ってのスタートだ。
花光さんの目標への執着は異常なほどだ。だが、設定したゴールテープを切っても、威張ることも、気取ることもない。「常に自然体」。これが、1981年生まれの花光さんのスタンス。

20代中の100店舗を目指し、仕掛けたM&A。

当時、花光さんが設定した目標は「20代のうちに100店舗をオープンする」ことだった。目標に向け、事業が加速したのは2011年に「レインボーハット」を買収したことによる。「目標達成のためにアクセルを踏んだ」と花光さんはいう。
「レインボーハット」の店舗が加わり、29歳で100店舗というゴールを駆け抜けている。
<これが初めてのM&Aですね? 相手先の業績はいかがだったんですか?>
「とくに問題点はなかったです。ただ、本部の経費が重く、それが全体の利益を圧迫していました。豪華な本部は、私たちが進める事業には不要です。利益を生むのはお店なので、それ以外の投資はしたくなかったです」。
花光さんの目に、豪華なビルは「愚の骨頂」に映る。
そういう花光さんを高く評価された人がいる。「つぼ八」の創業者である故石井誠二さんである。
「面識はなかったのですが、直接、お電話をさせていただいて。それが、始まりです」。石井さんは当時、経営されていた「八百八町」の売却先を探されていた。そういうタイミングだったそう。
「競合はもちろんたくさんあったはずです。それに、最初は金額もまったく折り合わなかったんです(笑)」。
それでも花光さんは、あきらめない。
「私が、電話をしたのは、社長の石井さんが引退を考えていると知ったからでした。『八百八町』が仲間になることで出店エリアが一気に広がります。店舗だけではなく、様々なノウハウも得られるので、そう簡単にはあきらめられません。話し合いをつづけさせていただき、最終的には『言い値でいい』とおっしゃってくださったんです」。
花光さんにとって石井さんは、今も慕う飲食人だ。
「今でも毎年命日にお参りさせていただいています」。
頭脳明晰というより、義理、人情に厚い。義理堅く、人を騙すこともない。これが、多くの人が花光さんに惹かれる理由だろう。
「『八百八町』が仲間になったのは僕が32歳の時です」。そして、38歳の2019年、カフェ・カンパニーとの経営統合に打って出る。

・・・続き
<2009年3月掲載 株式会社subLime 代表取締役 花光雅丸氏>
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1985年3月から求人一筋40年か…。

 1985年3月16日、大学卒業し、同年代よりも少しだけでも早く社会人になろうと、社会のこと分からず、求人情報誌見て、リクルートに応募。

アルバイト職から契約社員、正社員、管理職と7年お世話になったリクルート時代含め求人一筋40年、自分でもビックリしてます。

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2025年3月3日月曜日

いよいよ3月と、2024年度最後の月となりました。

 2024年度最後の月(決算月)となりました。

今期はいろんな意味で成果のある実りの年でした。

反省する点も多々あり、発見もありました!

さあ、来期が楽しみ。

やはり「飲食の戦士たち」の1,000掲載突破!は大きかったです。

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2025年2月28日金曜日

来期に向けて、新たな取り組み計画中。

若手の勢いある営業マン、なかなか採れませんね。

ならばと、正社員にこだわらず学生インターン、またキャリア変更考えてる社会人インターン、定年過ぎたシニア層の方たち、主婦の方たちなど集め、社長特命チーム結成し、新規社長取材部隊、企業フォロー部隊、制作サポート部隊も考えています。

コロナ禍で少しずつ業務内容を変化させ、ストック型を増やしたことで、いろんな対応できる状況です。

なので、自社の人材募集(正社員)はこだわって良い人材(素直で明るく理屈言わない)を採用したいです。

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2025年2月25日火曜日

有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏登場。

本文より~

寡黙な父と野球少年。

4人姉弟の3番目に生まれた渡辺哲也氏。彼の父はスポーツ万能で多才な人物だったが、子供の誕生を機に脱サラし、スルメなどの珍味を生産加工する工場を営んでいた。“寡黙”という言葉がぴったりな父親で、仕事のことはおろか、自分の過去についても一切語ろうとはしなかったという。渡辺氏も子供のころは地味で大人しく、両親が共働きだったことから2つ年上の姉やその友達と遊ぶことが多かった。
父は家族との時間を何よりも大切にしていたのだろう、毎日夕方6時には家族そろって食卓を囲み、近所の居酒屋にもしょっちゅう連れて行ってくれた。小学3年生から始めた野球の練習や試合への付き添いは欠かさず、家族思いであることは子供心にも伝わった。
中学、高校を通じ野球を続けていた渡辺氏は、守備を担当。甲子園出場こそかなわなかったものの、野球中心の生活を送った。ただ他にやりたいことは何もなく、彼の進学や就活について両親も口を出してこなかった。同級生のように進路を決めることはなく、高校卒業後はそのままフリーターになった。

飲食への興味と阪神大震災。

高校卒業から1年が過ぎたころ、当時タイで加工したスルメを日本に輸入・販売すべく多忙を極めていた父の代わりに、渡辺氏は家の仕事を手伝うことになった。その仕事がひと段落し、今度は父の知人が経営する車の整備工場で働くことになる。
「そこの社長とオヤジと、板金のおっちゃんらが、毎日近所の居酒屋に行くんです。で、僕も連れてってもらって、初めてビール飲んで。店のマスターが面白い人で、なんや楽しそうやし、いい車に乗ってるし、それで『あ、飲食って面白いな、こんな仕事あんねんな」って思ったんです。それが飲食との出会いですね」。
渡辺氏が成人を迎えた数日後。1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が関西の街を襲った。奇しくもその日は、父親が注文した加工品を積んだ船がタイから神戸港に寄港する日でもあった。船は港に到着したものの、日本中がパニックに陥り荷を降ろせるような状況ではない。社運を賭けた商品は船上で腐敗し、渡辺家には多額の借金だけが残った。消費者金融の連帯保証人には息子と娘が名を連ねている。その負債を肩代わりしてもらうため、父はなりふり構わず親戚に頭を下げて回った。
「その時、オヤジがおかんの兄貴と弟に(金)借りてるって、初めて知ったんですよ。おかんもそれまでまったく知らなかったんです。オヤジ、えぐいなーって(笑)」。

父の借金2000万を返済すべく、独立を決意。

消費者金融やカードローンの負債を肩代わりしてくれた親族への借金は、2000万円に膨らんでいた。20人を超える親戚の前で頭を下げる父。周囲の非難にじっと耐えるその姿に、初めて父の弱さを感じた。
「それでね、オヤジがかわいそうやと思ったんです。だから僕も働いて、一緒に(借金を)返したら早く返せるって」。
整備工場の仕事は気楽だったが、その分ときめくこともなかった。毎年の昇給が5000円程度では借金返済の目途すら立たない。やがて父の自己破産により親族への返済義務は免除された。しかし「親戚の借金だけは返さなあかん」と心に決めた渡辺氏は、飲食業での独立を目標に、京都市内の飲食店で働き始める。そうして複数の店を渡り歩き、売上げだけでなく原価や経費など経営に必要な数値も把握していった。何をどれくらいで出したら、いくら残るのか…それは渡辺氏にとって貴重な経験となった。

26歳で独立。

24歳で結婚し、独立のための物件を探し始めた渡辺氏。とはいえ、なんの実績もない若者に店を貸し出してくれるところはない。やっとチャンスをつかんだのは、26歳の時だった。もと焼き鳥屋というその物件はビル地下で10坪。父の借金返済で自己資金が枯渇していた身に月30万の賃料はこたえたものの、妻は夫の独立に賛成してくれたし、国民金融公庫の保証人は義父が引き受けてくれた。こうしてなんとか小さな居酒屋をオープンさせると、渡辺氏の前には次々と“支援者”が現れ始めた。「こいつを応援してやろう!」と周囲に思わせる不思議な力。それが渡辺氏の最大の強みかもしれない。
オープンから1年半後、「地下の狭い店じゃなく、地上のもう少し大きな店で勝負したい」と、出町柳に2軒目を開く。1号店は妻と若い者に任せ、渡辺氏は2号店の経営に専念した。その時「起ち上げの間だけでも手伝って」と声をかけた知人が、後に有限会社らくちんのメインブランド『フレンチマン』の総料理長となる吉丸清孝氏だった。

銀行の融資担当者が出店を後押し。

2号店オープンからさらに1年半後、3軒目の出店が決まった。そのお膳立てをしてくれたのが、銀行の融資係を担当している人物だったのである。
「その人は(店の)常連さんで、毎週来てくれてむっちゃ仲良くなって。それで出店の相談をしたら『ここを買ってやれ』って、ある物件を紹介してくれたんですよ。ローン組んで、改装費も出してやるからって、全部絵を描いてくれて。町屋を買うなんて考えたこともなかったけど、その辺からパーンと変わりました」。
融資係が薦めた物件だけあって、その店は大当たりした。借入金は土地代と改装費をあわせ4000万円近くに膨らんだが、月々約16万の返済で20年後には自分のものになると思うとやりがいもあった。渡辺氏はこれを機に「有限会社らくちん」を設立。10年後に前述の店を倍の値段で売却したことで、同社のキャッシュフローは著しく改善された。

税理士のアドバイスにより、両親は借金を無事完済!

会社設立当時から世話になっている税理士先生に、ある日「オヤジの借金をどう返していったらいいか?」と相談。それを聞いた先生の奥さんは、「親にお金を渡すんじゃなくて、自分たちで返済させたほうがいい」と言う。
「親にしたら嬉しい反面、子供に面倒を見てもらうなんて痛恨や。私やったら嫌やし、死んでも死に切れん。自分で返したいわ」。
その言葉にハッとした渡辺氏は、「店舗の契約や開業資金は僕が出すから、オヤジとおかんは自分で店を繁盛させて、その利益で借金返していくってのはどう?」と両親に提案。息子の助言で大いにやる気を出した2人は、やがて小さな焼肉屋を始める。
この焼き肉屋、当初は“渡辺氏がスタッフと一緒に賄い料理を食べに行く店”という立ち位置だった。同業者にも、「たまに使ってやって」と忘れずに声をかけた。そのうち“おっちゃん、おばちゃんがやってるアットホームな焼肉店”はみるみる評判になり、あっという間に繁盛。2000万あった借金を2人はたった2年で完済してしまった。
「(税理士の先生に相談した)あの時ね、相手の気持ちを推し量るってことを学んだんですよ。子供に借金返してもらうなんて、それこそ(気持ちが)重い、重い。こっちが良かれと思ってやっても、あっちは『迷惑かけたな』って辛いだけなんやって。あれが僕の経営の中の根幹にある感じ。あ、人を活かすってこれやなって」。

・・・続き

有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏

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株式会社Visca 代表取締役 由利拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Visca 代表取締役 由利拓也氏登場。

本文より~

料理人の気持ちがわかるオーナーに。

由利氏の故郷は“天女の羽衣伝説”で知られる京都市北部の小さな町。丹後ちりめん発祥の地といえば、その歴史と伝統の重みが感じられよう。しかし近くに大学はなく、地元の子供たちは高校卒業と同時に他府県の大学へと進学していく。
3人兄弟の末っ子だった由利氏は、大学生になった兄たちの姿を見て「大学で学ぶものなんて何もない」と進学を拒否。「お前はおじいちゃん子だから、福祉の道がいいのでは?」という両親のアドバイスに従い、大阪にある福祉関係の専門学校に入学した。しかし他者を介護する仕事は荷が重いと感じ、結局その道に進むことはなかった。
専門学校を卒業した後も、地元には戻らず京都市内のしゃぶしゃぶ店でアルバイトを始める。
「そこの店長というか、ほぼ社長みたいな人がすごく頭のいい方で。終業後はみんなでカードゲームや麻雀をしたり、スノーボードにも行きました。とにかくバイトが楽しくて、月30日くらい入ってた。飲食に進んだきっかけと言えば、このバイトですね」。
アルバイトは楽しかったが、その一方で「このまま京都にいてはダメになる。今の環境を変えたい」という想いもあった。フリーター生活が1年になろうかという2月、渋る両親を説得して今度は東京の調理師専門学校に進んだ。当初は経営を学ぶつもりだったが、講師に「経営は30歳からでも学べるから、とりあえず10年間は料理を学びなさい。料理人の気持ちがわかるオーナーになったほうが、後々絶対君のためになるから」と言われ、デザートもあるフレンチを選択。そこで料理の面白さに魅了されていった。

スペインで本場の味を学ぶ。

一つの料理を極めるより、世界の料理を広く学びたいと常々思っていた由利氏は、専門学校卒業後に3年間務めたフランス料理店を辞め、スペインを目指すことにした。必要部分を書き換えたスペイン語の履歴書を片手に単身渡西したものの、観光ビザで雇ってくれる店などなく、ビザが有効な3か月間を食べ歩きに充てることにした。ひと月ほど経ったところで「だいたいつかめた」と感じた由利氏は、出国前に紹介されていた日本料理店に連絡を取り、そこで残りの2か月間を過ごす。冗談を言い合うような同僚もでき、社長からは「就労ビザを出してやろうか」という言葉も貰ったが、由利氏はその申し出を断った。
「僕はこの店が好きだけど、やりたいのはスペイン料理だからここで働くのは違うと思うし、ビザだけもらってすぐ辞めるような、裏切るようなことはしたくない」。
そう答えた由利氏に、社長は「ちゃんとスペイン料理を学びなさい」と気持ちよく背中を押してくれた。その社長とは、今もいい関係が続いている。
日本に戻り学生ビザを取得した由利氏は、帰国からわずか3か月でスペインに戻り、バルセロナの語学学校に通うかたわら、ミシュラン一つ星の「ラサルテ」や「アルキミア」で研鑽を積んだ。人種差別でブチ切れることもあったが、ただ我慢するのではなく、がんがん言い返していたという。差別といってもその大半は悪気からではなく、無知や勘違いからくるものが多かったし、説明すればわかってもらえた。明るく大らかで屈託のないスペイン人や、彼らを育んだスペインという国が好きになっていった。
二度目のスペインで3年が過ぎたころだった。「あと1年だけ、自分が働きたい店で働こう」と思い立った由利氏は、ミシュランの三つ星に輝く「エルス・カサルス」の門を叩く。
「『給料はいらないから働かせてくれ』と言ったら、『いいよ』って。じゃあここを最後にして帰ろうと思いました」。

日本一周から独立へ。

日本への帰国を果たした由利氏に、前職のフランス料理店オーナーから「スペイン料理の店を出すからやらないか」と声がかかった。この社長とはあまりいい思い出がなく一度は断ったものの、店側の熱心なアプローチに加え、自分を表現する場が欲しかったこともあり、調理場からホールまですべて任せてもらうことを条件にオファーを受け入れることにした。
― すぐに独立しようとは思わなかったんですか? ―
「当時は独立願望ってそんなになかったんです。それにみんな簡単に独立って言うけど、やっぱり恐怖はありますよ。その一歩をなかなか踏み出せないってことはあると思います。彼のもとで一生働くわけじゃないし、なら今ここで働いてもいいかって」。
シェフ兼店長として采配を振るいつつ、「国際パエリアコンクール」日本大会に出場し2年連続で準優勝に輝いた。池尻大橋駅から徒歩10分、23席というこじんまりしたスペイン料理店はいつも予約でいっぱいだった。
「でもやっぱり社長とは合わなくてね。約束だった保険にも入れてくれないし、喧嘩別れしました」。
店を辞めた由利氏は、パエリア鍋と特注コンロ持参で日本一周の旅に出た。地方の民泊やカフェの庭先で、地元の食材を使ったパエリアをサーブして回る旅だ。地域活性化や地元発信に熱心なオーナーたちが、由利氏に快く場所を提供してくれた。店側が集客を受け持ってくれる点も都合がよかった。
「海外の人って、自分の国や故郷のことをよく知ってて、ちゃんと答えられるんですよ。でも僕は生まれ育った町の人口すら言えない。だから日本に帰ったら、あちこち行ってみようって思ってたんです。でも青森に行った後に和歌山とかって大変だし、だったら北から順番に回ればいいかなって。アポ取りは大変だったけど、やってよかったです」。
初めて口にするパエリアを、「美味しい、美味しい」と食べてくれる人々の姿を見るのは嬉しかった。1日1か所、料理を作ったらすぐ次の町へと移動する。そんな“ボヘミアン”スタイルを続け、最終的には57日間で52か所を回った。

・・・続き

株式会社Visca 代表取締役 由利拓也氏

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