2025年1月29日水曜日

株式会社鐘庵 代表取締役会長 大鐘正敏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鐘庵 代表取締役会長 大鐘正敏氏登場。

本文より~

父と零式艦上戦闘機と。

「零戦をつくっていた」と今回、ご登場いただいた株式会社鐘庵の大鐘会長。つくっていたのは、もちろん会長ではなく、会長のお父様の話。
「零戦のエンジニアだから戦地には赴いていないと言っていました」。零戦といえば、小説で読み映画でも観た「風立ちぬ」が思い浮かぶ。
「日本を転々として北海道までいったときに終戦だったそうです」。
お父様のエンジニア気質は、子である会長にも色濃く受け継がれている。冒頭でいうのもなんだが、会長は大学ではリニアカーの研究を行い、卒業後はトヨタ自動車に入社。トヨタ自動車ではお父様同様エンジニアとなり、開発を担当されている。
ただ、それだけじゃない。「ない」ものは「ない」で済ますのではなく、自作する。それも、お父様の影響。
「父は戦後、県庁に入るんですが、堅物というか、お酒も飲まない、すごく真面目な人なんです。ただ、かわりにというのもヘンですが、趣味で作業場をつくって、そこで色んなものを自作していたんです。それをみていましたからね。影響は大きかったでしょうね」。
ものづくりを通して父と息子はつながっている。ただ一つ、石橋を叩いても渡らないような慎重な父親と比べ、会長は、かなり大胆だ。
エンジニアとして円熟していく30歳で、トヨタ自動車をあっさり辞め、1人、リスクのある冒険の旅にでる。今回は、そんなお話から。

幼稚園児、電車に1人乗る。

「私は一人っ子なんです。だから、親の目が私1人に注がれるわけです」と会長は笑う。とはいっても話を聞いていると過保護だったわけではない。園児の頃から1人で電車に乗り、旅していたそうだ。
「冒険心というのか、それは昔からあったかな」。
学生時代には自転車で日本一周にもでかけている。
「じつは、このときね。ダンプに追突されたんです。ばーっと飛ばされたんですが、柔道の経験があったので、受け身をとって軽症で済みました。自転車は弁償してもらったけど、それだけで。何事もなかったように旅をつづけました」。
海外にも出かけている。いろんなことがあったが「なんとかなるもんだ」と会長は笑いとばす。
大学は名城大学の理工学部 。
「名城大学に進んだのは、リニアカーの研究をされていた教授がいらしたので」とのこと。高校を卒業する段階で、リニアカーの研究に興味をもつ学生はどれだけいるんだろう。一般の高校生にすれば、別世界の話。ただし、お父様をみてきた会長には、特別な選択ではなかったのかもしれない。
すでに書いた通り、大学を卒業し、トヨタ自動車に入社。開発の道を歩み、そして、その道を離れる。

30歳からの大冒険。

「独立心がないわけじゃなかった。ただ、仕事は面白かったし、不服があったわけじゃなかった。そのまま行けば、将来も、まぁ安泰。結婚し、子どもも生まれたときでしたから、なおさらですね。妻は何も言いませんでしたが、慎重派の両親は猛反対でした。それでも、若いうちじゃないとできないと30歳で脱サラを決断します」。
なんでも歳を重ねてしまうと、辞め難くなるばかりだし、自由が効かなくなると、30歳で脱サラ決行したそうだ。脱サラすれば、当然、トヨタ自動車という天下の肩書はなくなる。
「そこなんですよね。けっきょくトヨタって看板で仕事をしていたんです。そうじゃない世界で仕事をしてみたかった。つまり、大鐘正敏という1人の人間としてどこまでできるか試してみたかったんです」。
会長は話上手で、説明が丁寧だから決断の背景もよくわかった。ただ、トヨタ自動車を辞めてまでやりたいことがあるかというと、そうでもなかったようだ。
「最初は貿易会社をやろうと思っていたんですが、起業するにあたってお金がないでしょ。飲食なら現金商売だから、まずそこからだと思って。飲食の経験ですか?ありません。まったくの素人です。食べるのは好きでしたが(笑)」。
「妻の弟が喫茶店をオープンしていたので、そちらで少し修業して」と会長。
「経験したことがないから、ぎゃくになんとかなるだろうって簡単に考えてオープンしちゃうんですね」。
初期投資を聞いて、びっくりした。
「もういいと思うんですが、だまって実家を担保にしてね。金融機関から2000万円、融資していただきます。1階が駐車場で、2階と3階の一部が吹き抜けになっていて。融資いただいたといってもお金がないから、私も大工仕事を手伝いました」。
なんとデザインしたのは会長とのこと。「スイスのレマン湖でみた別荘をコピーした」という。
「ものづくりが好きだからでしょうね。図面を描くのも好きなんです。今でも、厨房の図面は私がすべて描いています」。
これが1980年のこと。店名は「羅比亜」。かくして、30歳からの大冒険がスタートする。

喫茶店とパスタマシンとイタリアン。

創業事業である喫茶店は3年。自動販売機に珈琲がならぶのをみて、あっさりクローズし、今度はイタリアンをオープンする。
「売上も利益もあったからなんでやめるんだ。バカじゃないのかって言われました(笑)。でも、時代の風を読むとそれが潮時だったんです」。
「それにね」と会長はニヤリと笑う。
「じつは、喫茶店時代にパスタマシーンを開発していたんです」。
<パスタマシン?>
「ええ、そうです。パスタって茹で時間がかかるでしょ」。
<そうですね>と相づちを打つと、「当時は太いパスタだったから茹で時間が15分もかかっていたんです。それで、パスタが1000円。なぜだかわかりますか?」。
<?>
「つまりね。リードタイムが長いから1時間に1回転しかしない。そのぶん、利益を取ろうとすると、どうしても高くなるでしょ」。
<なるほど。でも、それがどうパスタマシンとつながるんでしょう?>
「じつは、圧力をかけてやればパスタだって早く茹で上がるんです。それがわかっていたから、ちょうどいい1.5気圧をかけて茹でるマシンをオリジナルでつくったんです」。
熱源はガス。遠赤外線の釜で1分半で茹で上がったそう。当然、リードタイムが短縮できる。
「これはいける!って思った(笑)。だから、デモストレーションじゃないですが、そのマシンをつかってイタリアンを始めるんです」。
パスタマシンが売れまくるという絵を思い浮かべたが、思惑はあっさり打ち砕かれた。
「私がつくったマシンは300キロもあったんです。そのあとすぐに大手のメーカーがコンパクトなマシンをつくっちゃって」。
会長の話を聞いていると、頭がぐるぐる回転する。
<それでどうしました?>
「これじゃ太刀打ちできないと、あきらめて、そのマシンをつかったイタリアンを、そうですね。8店舗まで展開して。パスタだけじゃなく、ピザもやっていたから、宅配のオーダーがだんだん増えていって」。いただいた年表には、1987年、パスタ・ピザ宅配事業を開始とある。
<デリバリーですね?>
「そう、そのあとドミノさんとかが登場するんですが」。
<こちらも、さきがけですね?>
「そう。ただ、将来性がないと思ってね。やめちゃいます(笑)」。
なぜか。簡単にいうと、イタリアの食材が輸入できなかったから。
イタリアンの運営をはじめた会長はイタリアに渡る。向こうでみつけた食材をコンテナに積んで輸入しようとしたが、保菌検査で実質輸入できないと知った。
「だっておかしいでしょ。イタリアでは高価な食材でもないのに、日本ではバカ高い。イタリアにはもっと安くておいしい食材があるのに、輸入しようとすると、検査だけで1ヵ月かかるっていうんです。バカじゃないの?って話でしょ。1ヵ月もかかったら、みんなだめになる(笑)」。
<それで、撤退?>
「そうなんですよね。みんなからは、また『バカか』って言われました。だって、業績は文句なかったですからね。でも、つづけていても将来性がないと思ったんです」。見切り発車に、見切り停車。話についていくだけでたいへんだ。
このあと会長は、今までとは異なる食材で勝負する。それが、蕎麦。もう少しお付き合いいただきたい。

ターゲットは、ルーズソックスの女子高生。

ちなみに、イタリアンは橡麺坊(とちめんぼう)というネーミングだったそう。漱石の「吾輩は猫である」にでてくる。
「たぶん、読めないけどね」と会長は笑う。
<ところで、その後はどうされたんですか?>
「喫茶店にも、イタリアンにも将来がないと思うわけでしょ。イタリアンのケースは食材に光がなかった。だから、なにか将来に光をさす食材はないかって」。
<それで蕎麦だったんですね?>
「そうです。昔からあって、日本の食文化の一つ。そのベースがあるから、将来にも光がとどく。ただね。私、蕎麦が好きじゃなかったんです(笑)」。
「ラーメン派だった」と会長。「私だけじゃなく、マーケットでも大きいのは上から順にラーメン、パスタ、うどんで、蕎麦はいちばん下。大好きって人がいるにはいるんですが、私には、その気持がわからない(笑)」。
「でもね、そんな私が食べたいという蕎麦をつくればいいじゃないかと、蕎麦で勝負しようと決意するんです」。
「でね。また、バカと言われた」と会長は笑う。
「蕎麦は大きく2つのカテゴリーにわけられるんです。立ち食いそばで食べる大衆のお蕎麦と、老舗のようなお蕎麦屋さんで食べる高価なお蕎麦です。後者で仕事をしている蕎麦職人たちに、パートやアルバイトメインの専門店をつくるといったら、彼らはパートやアルバイトにできるわけがない。バカかっていうんです」。
「そりゃそうですね。でも、私はいうんです。『蕎麦の専門店と言っても私が相手にするのはルーズソックスを履いているような高校生なんだ』って。いうなら和のファストフード、蕎麦の原点です。でも、旨い蕎麦は職人たちがいうように、そう簡単にはできないのはたしかです」。

蕎麦職人たちも唸るオートリフト。

では、その難問を会長はどう解決したんだろう?
「オートリフトです。オートリフトがあれば、パートさんでも旨い蕎麦が簡単にできるんです」。
<オートリフト?>
「今はふつうにあるでしょ。みたことがないかな? ザルに棒がついていて、ザルに麺を入れて時間が立つと、棒といっしょにザルがあがってくる…」。
「あるでしょ。あれを最初につくったのは私なんです。熱伝導を高めるために熱源にはトタン板のように波をつくって。気泡がないといけないから、気泡が逃げる穴をつくって、気泡といっしょに対流をつくる。そういうふうにすればね。蕎麦職人といっしょと言ったら失礼だから言わないけども、アルバイトやパートさんでも旨いお蕎麦をつくることができるんです」。
まるでメーカーのエンジニアのように説明してくれる。その一方で、お蕎麦のマーケットに対しても、するどい目を向けていたことがつぎの話でわかる。
「旨い蕎麦屋ってレトロな店って決まっているでしょ。でも、私はカジュアルなお店があっていいと思っていたんです。それに、蕎麦ってほかの麺と比べ、のど越しが今一つだし、何より、賞味時間が短くて、数分で劣化します。オペレーションも難しいから、大手は手をださない。茹でたらすぐに召し上がっていただかないといけないですしね。ただ、そういうハードルがあるから、私にすればぎゃくに面白いと思えたんです。ニッチだけど、そこにチャンスがあるって」。
今度は、蕎麦が、主。
「オートリフトのほうはね。パスタマシンで失敗した経験があったんで、自作はあきらめて、特許も何もいらないからって、アイデアだけだしてメーカーにつくってもらいました」。
新たな発明で、旨い蕎麦が気軽な値段で食べられるようになる。昔ながらの和のファストフード。蕎麦職人たちも唸ったに違いない。

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株式会社鐘庵 代表取締役会長 大鐘正敏氏

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株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏登場。

本文より~

ピュアな少年と座右の銘と。

奈良出身。いまでもイントネーションに関西弁が残っている。今回、ご登場いただいた株式会社梅の花の代表取締役社長COO、鬼塚さんの話。
小学校は奈良女子大学文学部附属。奈良女子大学は奈良公園にちかく鹿も学内を闊歩しているらしいが、ネットで調べてみると附属の小学校は少し離れたところにあった。
中学校もおなじ女子大附属に進学したが、中学2年の時に父親の転勤で兵庫県西宮市に引っ越している。
姉弟は姉が1人。
小学生時代は「積極的なのか、消極的なのかよくわからない子どもだった」と鬼塚さん。「内弁慶」とも表現されているが、野球チームを作り、練習のスケジュールや内容を決めていたというから、大人しい少年というイメージではない。
「当時の担任の先生から教わった 『人のふり見て我がふり直せ』が座右の銘」と鬼塚さん。
「中学進学時は東大寺学園を受験しましたが惨敗。それで、そのまま女子大附属に進み、野球部に入部します。その後2年生になる時に西宮の市立中学に転校しました」。
転校先の中学では野球部ではなく、水泳部に入っている。
「マンモス校だったこともあって部員が100名もいたんです。何より坊主頭にしなくっちゃいけなかったので。それがいやで。水泳部にしたのは、どう見ても一番ぬるかったもんですから(笑)」。
どんな中学生でしたか?と質問すると、鬼塚さん曰く、「ごく普通の中学生だった」とのこと。
鬼塚さんは「普通」というが、子どもの頃から「良いことは真似、良くないことは戒めとする。そして、 相手の立場で考える」ようにしていたというから、普通のレベルがちょっと高い。
ここまでが、鬼塚さんの少年期。話のなかで、ピュアな鬼塚少年が何度も姿を現した。

なんとか、なんとか、大学卒業。

「高校は関西学院高等部に進みました」。もちろん、有名校だ。「苦手な英語の長文問題がなかったからラッキーだった」と鬼塚さん。
「高校に入学して両親が離婚します。これも一つのターニングポイントだった気がします。それと高校1年の秋くらいから楽器に目覚めて吹奏楽部に入ったことも、ターニングポイントだったかもしれません」。
「吹奏楽部での担当はパーカッションだった」そうだが、鬼塚さんは、「じつはドラムがしたかった」という。
「でも、軽音楽部がなかったから、吹奏楽部でしたし、マンションだったからさすがにドラムは置けないでしょ(笑)。それで、ベースギターを購入して、高2の時に山下達郎のコピーバンドに加入して」。
ライブハウス、学祭などで演奏したそうだ。つまり、かなり巧い。念願かなって軽音楽部に入ったのは大学に進学してから。
「ただ、しばらくして所属する意味がわからなくなって幽霊部員になりました(笑)。大学ですか? エスカレーターで関西学院大学商学部に進学しています」。
関西学院大学といえば、関西のなかでもトップの大学の一つ。仁川の阪神競馬場からちかいらしい。
「大学には原付で通っていました。ただ、あんまり行かず、勉強もしなかったですね」。
「先輩から『大学は勉強しなくてもやっていける』と言われていて、鵜呑みにしちゃったんです(笑)」。
かわりにアルバイトは熱心だった。
「『シェーキーズ』でしょ。『宝塚ホテル』のコーヒーショップ、『神戸オリエンタルホテル』ではフレンチレストランで働きました」。
当時の時給は、「シェーキーズが500円、ホテルが800円だった」という。いまと比較すれば半値程度。「それでも、ほぼ毎日、仕事をしていましたから10万円くらいにはなりました。ただ、バイトに専念していたおかげで、3年生で留年が確定。卒業には140単位がいるんですが、4年終了時点で残り、40単位」。
「さすがに5年の時には大学に通いました。なんとか、なんとか卒業できたって感じで、それから15年くらい『卒業できない』『卒業試験に間に合わない』って夢を見てうなされました(笑)」。
今や、大会社の社長にもそういう学生時代があったと知ると、人生、何をしてもマイナスはない。そして、社会も捨てたもんじゃないと思えてくる。

就職先は、阪神百貨店。

<就職はいかがでしたか?>
「時代は悪くなかったんですが、1年留年していますからね。それでも、まぁ、落ちたところもありましたが、阪神百貨店に就職することができました。これが1989年のことです」。
<百貨店と決められていたんですか?>
「大学時代、ホテルでアルバイトしていたでしょ。英語ができないんでホテルは除外して(笑)。ただ、ホテルで身についたホスピタリティがあったんで、百貨店がいいんじゃないかって。単純な発想ですね」。
いただいたプロフィールをみると、入社して3年後に経理部に。10年後に経営企画室に異動。
2005年には経理部経理課マネージャー、2006年には経営企画室マネージャーに昇格。
「もう一つのターニングポイントは2007年に『阪神百貨店』が『エイチ・ツー・オーリテイリング』の傘下に入ったことですね。そちらで経営統合推進室・部長を拝命します」。
阪神百貨店は大阪の中心地である梅田にあり、阪急百貨店と道路をへだて、ならんで建っている。2つの百貨店は今もそうだが、長らく大阪のランドマークだった。
もともと資本は異なっていたが、2007年、株式交換により「エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社」の完全子会社となり、阪急百貨店と経営統合している。
「おなじ百貨店と言っても、言語が違っていて最初は戸惑いました」。経営統合と一口に言っても、現場では一言では済まされない苦労がある。混乱もあったに違いない。
その後も鬼塚さんは昇格を続け、2009年には経営管理室・関連事業担当部長、2010年には経営企画室・予算計画部長になっている。
だんだんと、経営の中枢にちかづいている。

出向、そして「梅の花」へ。

「今まで資本がかわったと言っても、阪神百貨店というブランドの下で仕事をしてきたんですが、初めて外にでるというか、2011年に『家族亭』に出向します」。
<ご自身で希望されたとお伺いしています>
「そうなんです。当時私はM&Aの業務に関わっていて『家族亭』さんもそのうちの1社だったんです。いろいろとお話しているうちに惹かれて、社長さんにお願いして」。
<出向を希望されたのは、家族亭を買収されたからではないんですね?>
「買収したからではなくって。もともと飲食に興味があったのと、会社から少し距離を置いてみたかったんです」。
<それで「家族亭」の社長にお願いされたんですね?>
「そういうことです」。
プロフィールでは2011年10月「家族亭」経営企画室・執行役員、IR・広報部長となっている。
「ただ、出向期間は1年ちょっとと短かったです。その後『エイチ・ツー・オーリテイリング』と『梅の花』が資本提携することになって、今度は『梅の花』に出向になりました」。
2013年1月「梅の花」経営計画室部長。2015年12月「梅の花」取締役経営計画室長。
「出向期間は2013年1月から2016年3月のほぼ3年間。出向が終わるタイミングで今の会長ですが、本多さんから『残らないか』とお誘いいただいたんです。ちょうど私が50歳の時です」。
「梅の花」の本社は福岡県の久留米市にある。単身赴任。「子どもが中学進学ということもあって連れて行けませんでしたから」。
2015年12月、正式に「梅の花」に取締役として経営に参加。以来、経営の中枢を担って来られたことになる。
プロフィールをもとに簡単に触れておくと、2017年には「梅の花」にて取締役経営計画室長を務め、子会社である「古市庵」の代表取締役COOを兼務。2019年には「古市庵」の代表取締役CEOとなり、その1ヵ月前には同じく子会社の「三協梅の花」代表取締役を兼務。
同年「梅の花プラス」代表取締役CEOも兼務。「梅の花」では子会社を含めたグループのハンドリングを担当。そして、2024年7月「梅の花」のCOOに抜擢されている。

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株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏

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2025年1月23日木曜日

株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏登場。

本文より~

社長になるか、ジョッキーになるか。少年が導き出した答え。

ジョッキーになるには、パイロット同様、視力がよくないといけないらしい。今回は、そんな話から始まった。今回、ご登場いただいたのは株式会社Drapocketの代表取締役、塩川社長。
塩川さんは1985年、福岡県若宮市で生まれている。塩川さんによれば、若宮市はかつて炭鉱で栄えた町だったそう。地図で観ると福岡市と北九州の真ん中。炭鉱の名残りは今、炭鉱跡や資料館で観ることができる。
「うちの祖父は炭鉱が盛んだった頃に区画の整理などを行っていて、その時の功績が認められて石碑が建っています。まだ、健在なんですが。叔父は今、若宮市の市長を務めています」。
お父様は建設会社を興し、塩川さんいわく「今も細々とつづけている」とのこと。仕事が好きなんだそう。姉弟は4人。塩川さんは3番目で、長男。
祖父や叔父をみていたからだろうか。小さな頃から社会をみる目が育っている。
「小学2年生の時、世界には学校にも行けない、ご飯もたべられない子がいることを初めて知りました」。
貧困な子どもたちの映像が、ピュアな少年を奮い立たせた。貯金箱をあけ、お正月にもらったお年玉をそっくりそのまま寄付。
「ユニセフだったと思うんですが、機関を通して寄付をしました」。その額、3万円。大金だ。
「ただ、いいことをしたという思いはあり、お礼の手紙もいただいたんですが。具体的にどう使われたのかがわからないから不完全燃焼っていうか」。
なぜ、彼らは貧困なのか?
少年は、そこに目を向けた。
「根本的な原因は教育だとわかったんです。じゃあどうしたらいいか。学校をつくろうと」。
結論が早い。頭の回転が早い証。
「でも、それにはお金がかかるでしょ。それくらい子どもにもわかります。じゃあ、今度は、どうすればお金持ちになれるか」。
頭のなかで、ぐるぐると思いが走り回る。
「社長になるか、ジョッキーになるか」。
これが、少年が導き出した答え。

ジョッキー、断念。残されたのは。

<ジョッキーってあの競馬の?>
「そうです。中学生のときに、友達と将来について話していたんです。私は背が低かったし、体重も軽い。『だったら騎手がいいんじゃないか』って話になって。小倉競馬が近くにあったんで、その影響もあったんでしょうけど」。
「引くに引けなくなった」と塩川さん。
「『塩川が騎手になりたいと言っている』と学校中に広がって。先生が何を思ったのか資料を一杯集めてくださって」。
「否定できる雰囲気じゃなかった」と苦笑する。本人も、その気になっていく。寄付の時もそうだが、こうだと決めたら突き進むタイプ。
「うちの両親は反対どころか、母親に至ってはノリノリでした」と笑う。
ただし、簡単にジョッキーになれるわけがない。道も狭い。そこをこじ開けるのも塩川さんらしい。
「たまたまですが、うちから自転車で30分のところに乗馬クラブがあったんです。そちらで、トレーニングさせていただきます。ただ、お金がかかるんです。だから、お願いして、厩舎の手伝いをする代わりにトレーニングを積ませていただきました」。
朝8時に出勤。馬の世話を一通りして、昼ご飯を食べて、トレーニング。
<進学はされなかったんですか?>
「定時制の高校に進学しました。トレーニングが終わって、夕方6時頃から学校です。カリキュラムを自由に組める学校だったので、トレーニングと学校を両立することができました」。
馬の背に乗ると、どんな風景が望めるんだろう?
サラブレッドの場合、馬の肩までがおよそ170センチメートル。座高が加わるから2メートルを超えることになる。
走らせれば、当然、スピードもでる。TVで騎手目線の映像を観たことがあるが、トップギアに入れば、風景が後ろにぶっとんでいく。
塩川少年は、障害のトレーニングを積んでいた。
「トレーニングを始めてから半年。大会に出場して優勝します」。
<優勝ですか?>
「大阪であった大会なんですが。将来はオリンピック選手になんて話もいただきました。じつはこの時、競馬の関係者の方とお話することができて」。
「騎手になるのを断念した」という。
冒頭の話だが、騎手になるには視力も問われる。だから、視力を矯正するために、塩川さんはわざわざ東京まで行っている。
「関係者の方と色々お話させてもらって、『騎手になりたい』というと『難しいだろう』って言われたんです。倍率が高い。それだけだったらいいんですが、騎手は『縁故の世界だ』って言われるんです」。
<つまり、外部からはむずかしい?>
「そうです。その話を聞いて、急に冷めてしまって」。
華やかで自由な世界が、急に束縛された色褪せた世界になった。
「ジョッキーになって、お金持ちになって学校をつくって貧困をなくす、というプランは、これでなくなります」。
<残すは、社長になるプランだけですね?>
「そうなりますね(笑)」。

キッチンカーの幸せ。

「父親を継ぐ、というのも選択肢の一つでした。実際、実家でバイトをしながら建築系の専門学校にも進みます。父親は設備系の仕事をしていたんですが、私はデザイン設計をしたかったので。資格を取るには、実務経験もいるとわかり、設計会社に就職します」。
「ただ、」と塩川さん。「ある大きな事件に、そちらの会社もかかわっていたようで、倒産してしまうんです」。ある大きな事件とは、姉歯事件のことだそう。
「そのあとフリーで現場監督を、3年くらい仕事をつづけました」。
<今とはまったくちがう業種ですね?>
「180度ちがいますね。建設関係の仕事もけっこうしがらみがあるんです。職種も、内装業者から空調や電気工事業者など、もう様々です。そういう人たちが、それぞれの思惑で仕事を進めるわけですから」。
どこの世界にもあることだ。だが、交錯する様々な思惑を整理する現場監督の仕事は、たしかに骨が折れる。「そんな時に、偶然、キッチンカーをみたんです」。
たのしそうにはたらくスタッフ。笑顔で商品を受け取るお客様。その世界観に、いっぺんで惹かれた。
現場にはないシンプルな「幸せ」を観たんだろう。
「キッチンカーの周りには、現場にはなかったピュアな世界が広がっていたんです」。
いったんやると決めたら、行動が早い。今度もおなじ。フリーだったことも幸いしたんだろう。
「福岡にはキッチンカーっていう文化がなかったもんですから、勉強するなら東京だと思って」。
所持金わずか30万円。塩川さんは、30万円を握りしめ新幹線に乗り込んだ。ちなみに、やるなら、あの甘い世界をつくるクレープと決めていたそうだ。

幸福のキャッチボール。キッチンカーの世界。

話を加速させるとこうなる。塩川さんは26歳で上京。原宿でみつけた一つのキッチンカーの会社に就職。1年半後、務めた会社を辞め、独立している。
「そちらの会社に決めたのは、キッチンカーが牽引式だったからなんです」。
<一般のキッチンカーと牽引式ってどうちがうんですか?>
「みなさんが一般的にイメージされるエンジン付きだと思うんですが、牽引式はエンジンがついていなくて、車高が低い分、お客さんと同じ目線で接客ができるんです」。
お客様と同じ目線の高さ。オーダーいただいたクレープをお渡しすると、それだけで笑顔の花が咲いた。
「今、私はクレープじゃなく、スムージのお店をしているんですが、じつは、そこにも一つのきっかけがあるんです」。
そのきっかけを聞いて、何かが一つにつながった気がした。塩川さんという人の輪郭が明瞭になったというべきだろうか。
「毎日、来てくださる常連さんがいらっしゃったんです。クレープとタピオカをオーダーいただいて、毎日、クレープを食べ、タピオカを飲まれていたんです。もちろん、ありがたいお客様です。車高のあるキッチンカーだったら気づかなかったかもしれません。でも、私はすごく近い距離で、お客様と接していたからでしょう。最初は、ありがたいだけだったんですが、少しずつ、心配になってきたんです」。
<心配ですか?>
「決して悪いものが入っていたわけじゃないんですが、毎日、毎日ですからね。体に良いとは言えない気がしたんです」。
<それで体に良いスムージーですか?>
「毎日飲んでも飽きない。そして健康にいい。うちのスムージーには砂糖もつかってないんです。だから、とてもナチュラルで、体を内側から綺麗にしていきます」。
<おいしいうえに、からだにいい。もう無敵ですね?>
塩川さんが、力強く頷く。

・・・続き

株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏

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株式会社吉吾 代表 原田祐輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社吉吾 代表 原田祐輔氏登場。

本文より~

ジョッキーの祖父と、ウンコ拾いの孫。

その昔、大阪府の南部の都市、岸和田市に競馬場があったそうだ。春木競馬場というらしい。調べてみると現在は岸和田市中央公園となっていて公園南西側にトラックの跡が林として残っているとのことだった。
じつは、今回ご登場いただいた株式会社吉吾の原田社長の父方のお祖父様は春木競馬場でジョッキーをされていたそう。だから、今回は、そんな話から始まった。
「私が生まれた大分県の中津市にも競馬場があって、私が小さなころ、祖父はこちらに移り調教師の仕事をしていました。私が小学2年生のときに両親が離婚して、父についていった私は、父がまだ若かったこともあって、祖父母に育てられました」。
なんでも、競馬にかかわる人たちが暮らす村社会だったそう。「私も馬のちかくで育っています。お手伝いもしていました」。お手伝いは「ウンコ拾いだった」と笑う。
「そういう世界で生活をしていたからでしょうね。ジョッキーになりたいと思っていた時期もありました。ただ、中津のような地方競馬から中央競馬に行くなんて、まず無理。今、うちの店の一つを運営してもらっている叔父さんがいるんですが、その叔父さんくらいで。だから、やめておけと。それに背も高かったから」。
ジョッキー、調教師の祖父と、ウンコ拾いの孫。馬の嘶き、藁の匂い、勝つか負けるか勝負の世界。そんななかで、原田社長の少年期は過ぎていった。

打ち込むことがない青年はどこへ行く?

お祖父様に似て、運動神経はよかったはず。ただ、スポーツもそうだが、一つのことに打ち込むことはなかったという。実際、中学では野球部に入部したが1年でやめている。
「飽き性だった」と原田社長。
その一方で、「調子に乗りすぎていじめられたこともあった」と笑う。中学3年生のときのこと。
「そのことがあって、周りをみることができるようになった」。一つの挫折が一つの経験値となり、視界を広げたということだろうか。
「中津の外をみたいという思いはつよかったですね。その頃には経営者という目標もあった。高校を卒業したあと、工場のアルバイトで100万円をためて大阪にでました。大阪に来てからはパチンコ店で勤務します。じつは、こちらでサービスのイロハをマスターします」。
なんでも、先輩のスタッフに叩き込まれたそう。「接客でいうとパチンコは超一流なんです」。原田社長はそういって当時を振り返る。
「とにかく、細かいことまで、うるさくいうんです。ちょっとでも汚れが残っていれば文句を言われる。最初は、なんでやねん!って(笑)。負けず嫌いなところもあったんで、心のそこで反発していたんです」。
「その頃には経営の本も読んでいたし、啓発本も漁っていました。だから、ちょっと偉いんだぞって気持ちがあったのかもしれません。でもね。怒られるのもイヤだし、なにくそって、言われたこと以上にやっていると、だんだんとサービスの意味がわかってきて、成果というか、周りからの評価もちがってきたんです。数年後にほかのパチンコ店で仕事をするんですが、その店のスタッフとはサービスに対する心がけに歴然とした差があって、サービスの本質を改めて認識することができた。もちろん、このサービスのイロハは今も私の原点になっています」。
「はじめて仕事が面白くなった」ともいう。ただし、まだこれだと思うものには出会っていない。ともだちに誘われ、名古屋に行き、半年後に、今度は福岡へ。そして、ふたたび大阪へ。
「大阪では、自動販売機や携帯の販売のような仕事をしていましたか゛、上手くいかなくて」と苦笑する。

からあげの聖地。

「当時は、ひと儲けをねらっていたんですね」。
<でも、つづかない?>
「つづかないというより、打ち込めなかった。仕事も色々と経験しましたが、打ち込めているのは、今の、この仕事だけなんです」。
<では、その「中津からあげ」を始める経緯を教えてください>
「まだ私が小さな頃の話ですが、父親が『からあげの店をオープンしたい』と言っていたんです。実際、鶏肉を買ってきて、つくった唐揚げをもって関西や関東の知人に『どうだ?』って食べてもらっていたときがあって。私も父についてどこにでも行っていましたから、その記憶があったんです」。
<つまり、お父様が言い出しっぺ?>
「そうですね。父自体は再婚して、無謀なことはしないようになって、その話はなくなっていたんですが(笑)。たまたま、ともだちの結婚式があって実家に帰ったときにですね。父と、のちに事業をいっしょに始める仲間に、からあげ店をしてみようという話をして」。
<中津といえば、唐揚げの街。唐揚げで起業って話にもなるんですね?>
「いまでは全国区ですが、中津は唐揚げ店がいっぱいあって。中津からもう少し南に行くと、鶏天でしょ。もっと下っていくとチキン南蛮」。
大分だけではなく九州に鳥料理の名店が多いのは、戦後の食糧難対策として政府が養鶏を推進したことが背景にあるらしい。「中津からあげ」は中国の鶏料理を再現したことからスタートしているとのことだ。保存食でもあったらしい。
醤油に生姜、にんにくなどの薬味を加えたタレに漬けた鶏肉を使用するのは、そういった起源から。
「唐揚げっていえば小麦粉って人も多いと思いますが、中津の唐揚げは片栗粉で軽やかなイメージです。それでいて、鶏肉に味がしみていてジューシーです」。
「中津からあげ」のブランド化をめざす「聖地中津からあげの会」のホームページには「肉の中心まで味がしっかり付いていて、噛めば噛むほどにあふれ出る肉汁がたまりません」と書かれている。
原田社長も、当然、会の一員。
「中津にはからあげ専門店がたくさんあって、いい意味で競いあっています。私のように小さなころから『中津からあげ』を食べてきた人間が今、唐揚げ専門店を経営している。そういう意味では、代々受け継がれてきたソウルフードだし、中津の人間には、これで起業という志がある人が少ないから専門店もたくさんあるわけです」。
さすが「からあげ」の聖地。食べるだけではなく、「からあげ」でビジネスも生まれている。

駒込にオープン。「中津からあげ」が東京人の心をつかむ。

話がとんでしまったが、原田社長は、今、打ち込めることをみつけている。原田社長が言う通り、「この仕事」だ。
「父と、ともだちと、『じゃぁ、いっしょにやろう』って話になるんですが、思い立ってすぐにオープンできたわけではありません。起業したのは私が26歳のときですから、2年程、準備に時間がかかっています」。
料理人のともだちは、からあげ店で修業。原田社長は様々な店で店舗運営の経験を積み、資金をためた。めざすは、独立。ただし「最初から東京で勝負」というのは、こちらの頭にまるでなかったから、その話を聞いて驚いた。
「『中津からあげ』っていうローカルなソウルフードの価値を最大化するには、じつは大分ではなく、東京だと。ただ、起業前に東京で暮らしますが、さすが東京ですね。家賃も高いし、怖気づきます(笑)」。
そりゃ、大分に比べれば、家賃だって高い、高い。
「1号店をオープンしたのは、ちょうど東北大震災のあとです。たまたま駒込でコロッケ屋さんの居抜きがでてきて、家賃も安くて、6坪13万円。掘り出し物件です」。
「ここなら」と、祖父譲りの勝負勘がはたらいた。
<いかがでしたか?>
「6坪の小さなショップでしたが、月商300万円。料理人のともだちと2人ですから利益も十分にでました。正確には父親にも資金をだしてもらっていたので3人ですね」。
「中津からあげ専門店」が、東京で暮らす人たちの心をつかむ。
そして、いよいよ原田社長の快進撃が始まっていく。
ここから先は、ホームページの年表で、その快進撃を追いかけていこう。

・・・続き

株式会社吉吾 代表 原田祐輔氏

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2025年1月14日火曜日

株式会社PERFECT BEER 代表取締役 藤沼正俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社PERFECT BEER 代表取締役 藤沼正俊氏登場。

本文より~

理由を考え、ひとつずつ修正していく。考えずに努力しても意味がない。

藤沼氏は自動車整備技師である父と元保育士の母の下、3人兄姉の末っ子として誕生した。家族仲は良好で、特に父親から怒られた記憶はほとんどない。カメラと車、ビールをこよなく愛する父の影響か、兄は大手カメラメーカー、姉も間接的ながら自動車関連企業に就職した。晩酌の度、さも美味しそうにビールを飲む父の姿を眺めながら育った藤沼氏が、のちにビールの道を選んだことは必然だったのかもしれない。
東京農業大学第三高等学校に進んだ藤沼氏は、弓道部に入部。毎年全国大会に出場するほどの強豪校で、100人あまりの新入部員が最終的に15~20人まで減ってしまうほど練習が厳しく、時には鬼コーチの拳が飛んでくることもあったそうだ。
「基本は精神論だけど、とにかく走り込みと筋トレばかり。怒られて『走ってこい!』と言われたらグランド10周、『走ってろ!』と言われたらストップがかかるまでずっと走り続けるという謎のランニングがありました(笑)」。
あまりの厳しさに耐え兼ねた藤沼氏は、仮入部時に一度、正式に入部した後ももう一度退部している。髪を金髪に染めて遊びまくる一方で、「どうもこれじゃないな」という想いはあったようだ。彼の才能に目をつけていた鬼コーチからの度々の説得もあり、再び射場へ戻る決心をした彼は、その後誰よりも練習に励み、あっという間にレギュラー入りを果たした。
「弓道では精神力や集中力、努力の仕方などいろんなことを学びました。で、いろいろ考えながら、何百本も打つ練習をしたんです。基本に忠実にやっても、どうしても自分のクセは出てくる。だから外した時はどこに外したか、なぜ外したかを考えて、ひとつずつ修正するんです。考えずに練習したってうまくならない」。
この客観性と分析力は、のちに藤沼氏が独立する際にも大いに役立つことになる。
「あと単純に、めちゃくちゃ練習しました。だからコーチに『お前はセンス』って言われるのは、ちょっとムカつきました。センスじゃない、頑張ってるんだってね」。
穏やかで人懐っこい笑顔からは想像できない、彼のガッツを感じさせるエピソードだ。

日本で唯一のビール醸造免許を持つ大学へ。

弓道の5人立(5人一組)競技で、チームの要となる5番目の射手としてメンバーをまとめるなど好成績を残した藤沼氏だが、退部時代の試合欠場が響き、弓道での推薦枠からは外れてしまった。そこで北海道網走市にある東京農業大学・北海道オホーツクキャンパスを選択する。同大はビール醸造免許を所持する日本唯一の大学であり、キャンパスにはビール研究に欠かせない設備が整っていたという。
― では最初からビールの道に進もうと? ―
「犬好きなんで、最初は獣医でもいいかなって思ってたんですけど、授業でビールの美味しさにハマっちゃって。それにやっぱりお父さんの影響が大きいですね。『ビールってそんなに美味しいのかな』って、子供のころから興味がありましたし」。
大学ではビールの香りについて研究していたそうだが、いつごろから独立について考え始めたのだろう。
「絵がすごく上手な友達がいたんです。自分の姉も絵が上手かったんで、それをネットで販売できないかと思って調べたら、ちょうどBASEっていうECサイトを作るアプリのベータ版が売られたタイミングでした。それで(シリアル・アントレプレナー、実業家、投資家の)家入一馬さんのことを知って、自分も“連続起業家” になりたいって」。
大手の経営コンサルタント企業から内定を受けたものの、「スタートアップに関わりたい」と株式会社マネタイズに就職。そこでグルメメディアの立ち上げに参画した。
「でも自分はどこかの会社に所属するのは向いていない、やっぱり自分でやらなきゃだめだって思いました」。

ビール関係のバイトを経て、キリンビールに入社。

半年ほどで退職した後、埼玉の実家に戻った藤沼氏は、当時勢いのあった居酒屋の鳥貴族、酒類量販店のカクヤス、ブリューパブの阿佐ヶ谷ビール工房、これらビールに関わる3業態での掛け持ちバイトを始め、ビールのさらなる魅力やその現状について多方面から学んでいった。
大学を卒業してからの目まぐるしい一年を経て、23歳の時キリンビール株式会社に就職。「面接官にビール愛を思いっきりぶつけて」入社した藤沼氏は、新商品の案内やサーバーのメンテナンスで飲食店をまわるうち、ほとんどの店がサーバーのメンテナンスを怠っていたり、整備されていないサーバーで劣化したビールを提供していることを知った。その理由を深堀りしていく工程で見えてきた流れは次のようなものだった。
1、同じビール、同じサーバーを使っているのに、店によって味が全く違うのはなぜか?
→それはサーバーの洗浄をしていないところが多いから。
2、なぜ店はサーバーを洗浄しないのか?
→顧客からクレームがつきにくく、優先順位が低いから。
3、なぜクレームにならないのか?
→サーバー管理でビールの品質が左右され、味が変わるということを知らないお客様がほとんどだから。
4、なぜメーカーは『もっとサーバーの洗浄をしましょう』と指導しないのか?
→メーカーにとって店はお客様だから強く言えない、徹底させられない。
「……って考えた時に、『もし第三者機関が認定する制度があれば、店側もメンテナンスにもっと力を入れるようになるんじゃないか。サーバーの品質管理次第でビールの味が大きく変わるということが一般常識になれば、美味しくないビールに対してクレームも増えるし、おのずと店側も洗浄やメンテナンスに注力してくれるんじゃないか』って思ったんです。だから独立して、まずは一般の人に品質の大事さを伝えたいなって」。
この状況を変えたい、もっと美味しいビールを飲んでもらいたいという熱い想いが、彼を独立へと突き動かしたのだ。

独立・開業・閉業、そして再出発。

キリンビール在職中にクラウドファンディングで集めた360万円と借入金500万円を元手に、藤沼氏は2016年株式会社パーフェクトビールを設立。キッチンカーを購入し、イベント出店がメインの事業を始めた。経営は未経験だったが、クラファンで獲得したファン層からの支持もあり、スタートはまずまず。その後、埼玉県所沢市を中心に5店舗を展開するほど成長した。
「でも資本提携関係のあった人との人間関係とか、人を雇うことにちょっと疲れてしまったんですよね。で、もともと3年定期借款契約だった一号店の契約が切れたこともあり、一度全部白紙に戻しました」。
フリーになった藤沼氏は、キッチンカーでビールを売りながら日本一周の旅に出る。1年ほど放浪したころ、知り合いに声を掛けられたことがきっかけで出店を決意し、2019年11月20日に株式会社PERFECT BEERを設立。東京都江東区門前仲町に「PERFECT BEER GARDEN MONNAKA」と「PERFECT BEER KITCHEN MONNAKA」をオープンした。

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株式会社PERFECT BEER 代表取締役 藤沼正俊氏

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株式会社桝元 代表取締役 長曽我部 隆幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社桝元 代表取締役 長曽我部 隆幸氏登場。

本文より~

「延岡にフィリピンパブがない」という話まで。

ウハウハだった。苦労もあったが儲かった。
フィリピンパブ! 女の子たちにお金がかかったが、それでも残る、正確には、残りまくる!
「当時は、そうでしたね。ためときゃよかったんですけどね」と笑う。
今回、ご登場いただいたのは、あの辛麺で有名な「桝元」の代表、長曽我部さん。苗字がふるっている。14歳で父親を亡くし、苦労も重ねた。転勤族のお父様がご健在の頃は10数回も転勤したそう。父親が亡くなり、地元の宮崎にもどった長曽我部さんは、叔父のアドバイスを受け、高校1年からラグビーをはじめ、強豪校でレギュラーになる。
高校2年の時のこと。
「先輩たちの最後の大会で、私がマークしていた敵チームのエースに、タックルをかわされて、大事な試合を落としてしまいます。私のミスだったので申し訳なくて、号泣しました」と、ピュアだった頃の話をする。
「卒業後は父親が務めていた南日本ハム株式会社に就職します」。
お父様はだれからも慕われていたという。「私が南日本ハム株式会社に就職できたのも、父のおかげ。ありがたい話ですね。でもね。当時は、まだ若かったもんだから1年くらいで退職して、ともだちのお父さんが経営している建設会社に転職してしまいます」。
よくある話だが、そちらの建設会社ではどうだったんだろう?
「面白かったですね。今、うちの専務は私の従兄弟なんですが、彼も誘ってね。建設っていうのは、自然と対峙し、地図に残るというか、完成しますから、とくかく達成感があるんです」。25歳の頃には、業者から接待を受けるような要職にも就いた。「ま、それも、面白かったことの一つ」と笑う。
じつは、この接待が、長曽我部さんのつぎの道をひらく。
「接待でよく連れていかれたのが、フィリピンパブだったんです。これが、たのしい」と長曽我部さん。当時、建設会社があった日向の市内には、6軒くらい同様のバーがあったとのこと。「もちろん、日向市以外にもあったんですが、隣町の、私の今のホームの延岡は日向より断然、人口が多かったんですが、実は、フィリピンパブが一軒しかなかったんです」。
秘密を打ち明けるように呟く。

ブルーオーシャンで、儲かりまくる。

<なんでですか?>
「おかしいでしょ。延岡だってド田舎じゃない。でも、事実ないわけで。だったら、延岡にフィリピンパブをつくったらどうなる?って、頭で数字がぐるぐる回って。こりゃ、とんでもないことになるぞって」。
長曽我部さん、29歳の時の話。
こうと決めれば、動きは早い。建設会社を退職し、お金をかき集めて、延岡にフィリピンパブをオープンしてしまう。従兄弟をはじめ、長曽我部さんを慕う仲間もついてきた。
<大繁盛ですね?>
「うん? フィリピンパブの業績ですか? う~ん、それがね。想像とちがって大苦戦」と苦笑い。
長曽我部さんによると、想定したセールスを下回り、経費にもまったくおいつかない。「スタッフは元建設会社の人間でしょ。適性がない(笑)。でも、実はそれ以上に問題だったのは…、延岡には、そもそも、そういう遊びの文化がなかったんです」。
「もちろん、延岡にも繁華街があります。ただ、フィリピンパブって、日本人の女の子が採用できないから始めたらしくて、延岡は、そういう人には困ってなかったから、わざわざフィリピンパブをオープンしようって野心家はいなかったわけです」。
<でも、長曽我部さんはオープンしちゃった>
「そう、そういう背景がわかっても、こちらはもう命がけで始めたわけですから、あとにはひけません」。
想定外。
ただし、ある意味、ブルーオーシャン。とはいえ、新たな文化をもち込むことは、難しい。
「どうすることもできなかったのが、逆に幸いしたのかもしれません」。
知恵を絞った。
<フィリピンパブは、たのしい、だけども>
「接待といっても、私もサラリーマンです。たのしく遊んで盛り上げっていても、やっぱりどこかで『今いくらだろう?』ってのが、頭をよぎるんです。だから、心からたのしめない(笑)。じゃぁ、そこを逆手に取って、1時間いくらと、時間制にしたらどうだろう、って。そういうアイデアが浮かぶんです」。
<明朗会計を謳うフィリピンパブ?>
「まさに、そうです。時間制を採用したのは、宮崎県ではいちばん早かったんじゃないかな。それに、お1人様なら5000円、2人だったら4000円、4人以上は3500円とか、人数制にしたんです」。
<お金が安くなるなら、仲間を誘っていきますよね?>
「そうです。それにプラスして、お店の女の子が飲むお酒はキャッシュにしました。女の子のお酒代って、けっこうな額になるケースもあるんですが、毎回、キャッシュなら財布の中身とちゃんと相談できるから安心でしょ」。
「お客さんの気持ちがわかる私だからできたこと」と長曽我部さん。閑古鳥が鳴いていたフィリピンパブは、盛況になり、「月商は2000万円を軽くクリアするようになった」という。むろん、ブルーオーシャン。競合もない。
<ウハウハだった時ですね?>と投げかけると、「そうそう」と長曽我部さんは豪快に笑う。

女の子の強制送還と、桝元の始まり。

ちなみに、言わなくてもいいことだが、長曽我部さん、「結婚3回(数回)、子どもは合計12人」という。「長男、3男、4男、5男、6男、長女の婿は、今、うちの会社にいます」とのこと。別れても、つながっている。なんとなく、長曽我部さんの性格が表れている気がして、微笑んでしまった。
しかし、12人も育てるとなるとたいへんだ。
じつは、ビジネスもたいへんだった。
「2005年のことですね。入管法が改正されます。どういうことかというと、『興行』で在日資格を取得することが難しくなったんです」。
<つまり、外国人の女の子がはたらけなくなった?>
「そういうことです。実際、翌年の1月31日、女の子が全員護送車に乗せられて国に返されてしまいました」。
2度目の大ピンチ。オープン当初よりも、大ピンチであるのは明らか。
「ですよね。だって、女の子がいないとパブはオープンできません。ただ、ある意味、タイミングがいいと言いますか、当時、桝元の創業者が、うちの店に飲みにいらしていたんです。当時、10店舗くらいで、私も1店舗、経営させていただいていました。ただ、どうも上手くいっていなかった。私ももうフィリピンパブをつづけていくのができなかったので、その創業者さんと話し合って、桝元を買い取らせていただきました」。
<それが、始まりなんですね?>
「そうです。私にしたら、またまた大きな賭け。なんとかV字回復もできましたが」。
今の桝元を知ると、「なんとか」程度ではないことがわかる。危機をきっかけに、フィリピンパブの経営者は大変身をとげている。
当時の話を聞くと、必死だった長曽我部さんの様子が浮かび上がる。
「現在、直営、FC合わせて68店舗です。直営40、FC28です」。
ちなみに、FCといってもロイヤリティはないらしい。「食材費だけ頂戴しています」とのこと。これも戦略の一つだろう。フランチャイズが広がれば、「宮崎辛麺」の名も広がる。
狙い通り、今や、宮崎の辛麺といえば、全国区だ。ウィキペディアによれば、テレビ番組「秘密のケンミンSHOW」で知れ渡ったとなっているが、むろん、長曽我部さんの仕掛けがあってこそ。
しかし、ここまで大きくなると、今までとは異なる問題もでてくる。人材問題もその一つ。その点についてもうかがった。

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株式会社桝元 代表取締役 長曽我部 隆幸氏

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2025年1月7日火曜日

株式会社鳳凰 代表取締役社長 網代代二郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鳳凰 代表取締役社長 網代代二郎氏登場。

本文より~

小学3年生がみた海外。

今回、ご登場いただいた株式会社鳳凰の代表、網代社長は1982年に世田谷区に生まれている。お父様は着物職人だったそう。
「祖父の代から」とのこと。網代社長が小さい頃は業績もよく、海外旅行にも行っている。
「小学3年生のときオーストラリアに初めて連れていってもらって、このあとの人生でもでてきますが、海外好きになってしまいました笑」。
「中学までは世田谷でボーイズリーグに所属。評価をいただき、野球推薦で日大鶴ケ丘に進学しました。高校では2番手のキャッチャー。周りと比べてどうだってことではなく、もともとプロという意識はなかったです」。
野球は好きだが「真剣にはなれなかった」というようなことをおっしゃっている。
「大学はそのまま日大に進学しました。大学時代にもアメリカや東南アジアによく行きました。アメリカには4回、行きました。父親の知人がサンノゼにいましたので、そちらをべースにあちこちをみて回りました。バイトは飲食でしたが、とくに飲食の仕事に惹かれたわけじゃありません」。
大学を卒業した網代社長は5度目となるアメリカに渡る。
「就職という選択肢はなかったです。このときアメリカには3ヵ月滞在しました。そのとき出会った雑貨ショップを経営する日本人のオーナーから『30歳までやりたいことをみつければいい』と言われて。それが一つの指標になった気がします」。
<ジブン探しですね?>
「ええ、ただ父親も事業をしていましたので、なにか一つの仕事というよりも会社を経営するというのに興味があって。それで、飲食店だったらスケールは小さいかもしれませんが、経営のマネジメントが勉強ができそうだと思って、帰国後、クリエイト・レストランに就職します。これが23歳のときです」。
幼い頃に海外を体験する少年少女は少なくない。ただ、それがきっかけに海外を好きになる少年少女は案外少ない。網代少年はオーストラリアでなにをみたんだろう。日本の伝統的な文化を守る着物職人の父親をちかくでみてきたことで、異国の文化を鮮明に描き、知ることができたのかもしれない。

飲食と網代社長。

「クリエイト・レストランで配属されたのは汐留の地中海レストランでした。当時ですか? そうですね、もう300店くらいはあったんじゃないかな」。
クリエイト・レストランはいうまでもなく、日本を代表するレストラングループだ。ただ、網代社長はこちらを1年半で退職している。
「じつはヘッドハンティングの会社から電話をいただいて。ちょうどサービスは勉強できても、それ以上はないかなと思っていたタイミングだったこともあって。ただ、その電話がきっかけになりましたが、けっきょく自分でみつけた会社に転職します。そちらの会社は当時、FCを含め10数店舗だったと思います。クリエイト・レストランツと比較すれば小さな会社ですが、そのぶん社長との距離もちかく、29歳になるまで3年半くらいですが、こちらでマネジメントを含め、飲食の仕事を徹底的に叩き込んでいただきました」。
「その3年半でビジネスの根幹ができた」と網代社長は、当時の社長に感謝する。とにかく型破りの社長だったらしい。飲食の仕事は「コンサルティングだ」と言っておられたそうだ。
<2つの会社を経て、ジブンはみつかりましたか?>
「そうですね。クリエイト・レストランのときもそうですが、私はホールで料理は調理くらいしかできません。ただ、そのぶんお客様と接することが多いので直接、お言葉をいただくことも少なくありませんでした」。
網代社長は「鳥肌が立った」という。「お客様から『ありがとう』や『たのしかったよ』といっていただけるんですね。そのたびに、『ありがとうございました』と頭を下げながら、脳みそで鳥肌が立っていたんです」。
相手を思う言葉は「言霊」になる。多くの飲食経営者が「ごちそうさま」の一言に魅了され、飲食の道を進んでいる。ただし、もう一度、海外に渡る。

南十字星の下で、ジブン探しの旅が終わる。

「ワーキングホリデーで海外に行けるのは30歳までなんです。だから、行くなら今だと、退職させていただきました」。
29歳になった網代社長は駆け込むようにして、海外を志向するようになった原点でもあるオーストラリアへ渡る。
「オーストラリアでは、日本の社長が経営されているマスヤさんという日本食のレストランで仕事をさせていただきました」。
飲食の経験は長い。
「たぶん、喜んでいただけたと思います。ふつうのワーホリとはちがってキャリアがありましたから。それに、マネージャーとも気があって。バーカウンターを担当させていただき、私もふつうじゃできない経験を積ましていただきました」。
カウンターの向こうには様々なお客様がいらしたことだろう。「ありがとう」「たのしかったよ」。海の向こうで投げかけられた言霊は、網代社長にどう響いたのだろうか。
「オーストラリアではアッシフィールドというシドニーから少し離れたところに住んでいました。離れているといっても電車で30分くらいですが」。
地図で確かめるとシドニーから少し離れたところにアッシフィールドという地名があった。
オーストラリアで、網代社長はしっかりとジブン探しの旅を終えている。
「異国の、そう小学3年生のときに渡ったオーストラリアで、改めてジブンの天職をみつけた気がしています」。それはお客様の「ありがとう」「ごちそうさま」を追いかける飲食という万国共通の仕事。夜空を見上げればもちろん南十字星がかがやいている。

・・・続き

株式会社鳳凰 代表取締役社長 網代代二郎

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