in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鐘庵 代表取締役会長 大鐘正敏氏登場。
父と零式艦上戦闘機と。
「零戦をつくっていた」と今回、ご登場いただいた株式会社鐘庵の大鐘会長。つくっていたのは、もちろん会長ではなく、会長のお父様の話。
「零戦のエンジニアだから戦地には赴いていないと言っていました」。零戦といえば、小説で読み映画でも観た「風立ちぬ」が思い浮かぶ。
「日本を転々として北海道までいったときに終戦だったそうです」。
お父様のエンジニア気質は、子である会長にも色濃く受け継がれている。冒頭でいうのもなんだが、会長は大学ではリニアカーの研究を行い、卒業後はトヨタ自動車に入社。トヨタ自動車ではお父様同様エンジニアとなり、開発を担当されている。
ただ、それだけじゃない。「ない」ものは「ない」で済ますのではなく、自作する。それも、お父様の影響。
「父は戦後、県庁に入るんですが、堅物というか、お酒も飲まない、すごく真面目な人なんです。ただ、かわりにというのもヘンですが、趣味で作業場をつくって、そこで色んなものを自作していたんです。それをみていましたからね。影響は大きかったでしょうね」。
ものづくりを通して父と息子はつながっている。ただ一つ、石橋を叩いても渡らないような慎重な父親と比べ、会長は、かなり大胆だ。
エンジニアとして円熟していく30歳で、トヨタ自動車をあっさり辞め、1人、リスクのある冒険の旅にでる。今回は、そんなお話から。
幼稚園児、電車に1人乗る。
「私は一人っ子なんです。だから、親の目が私1人に注がれるわけです」と会長は笑う。とはいっても話を聞いていると過保護だったわけではない。園児の頃から1人で電車に乗り、旅していたそうだ。
「冒険心というのか、それは昔からあったかな」。
学生時代には自転車で日本一周にもでかけている。
「じつは、このときね。ダンプに追突されたんです。ばーっと飛ばされたんですが、柔道の経験があったので、受け身をとって軽症で済みました。自転車は弁償してもらったけど、それだけで。何事もなかったように旅をつづけました」。
海外にも出かけている。いろんなことがあったが「なんとかなるもんだ」と会長は笑いとばす。
大学は名城大学の理工学部 。
「名城大学に進んだのは、リニアカーの研究をされていた教授がいらしたので」とのこと。高校を卒業する段階で、リニアカーの研究に興味をもつ学生はどれだけいるんだろう。一般の高校生にすれば、別世界の話。ただし、お父様をみてきた会長には、特別な選択ではなかったのかもしれない。
すでに書いた通り、大学を卒業し、トヨタ自動車に入社。開発の道を歩み、そして、その道を離れる。
30歳からの大冒険。
「独立心がないわけじゃなかった。ただ、仕事は面白かったし、不服があったわけじゃなかった。そのまま行けば、将来も、まぁ安泰。結婚し、子どもも生まれたときでしたから、なおさらですね。妻は何も言いませんでしたが、慎重派の両親は猛反対でした。それでも、若いうちじゃないとできないと30歳で脱サラを決断します」。
なんでも歳を重ねてしまうと、辞め難くなるばかりだし、自由が効かなくなると、30歳で脱サラ決行したそうだ。脱サラすれば、当然、トヨタ自動車という天下の肩書はなくなる。
「そこなんですよね。けっきょくトヨタって看板で仕事をしていたんです。そうじゃない世界で仕事をしてみたかった。つまり、大鐘正敏という1人の人間としてどこまでできるか試してみたかったんです」。
会長は話上手で、説明が丁寧だから決断の背景もよくわかった。ただ、トヨタ自動車を辞めてまでやりたいことがあるかというと、そうでもなかったようだ。
「最初は貿易会社をやろうと思っていたんですが、起業するにあたってお金がないでしょ。飲食なら現金商売だから、まずそこからだと思って。飲食の経験ですか?ありません。まったくの素人です。食べるのは好きでしたが(笑)」。
「妻の弟が喫茶店をオープンしていたので、そちらで少し修業して」と会長。
「経験したことがないから、ぎゃくになんとかなるだろうって簡単に考えてオープンしちゃうんですね」。
初期投資を聞いて、びっくりした。
「もういいと思うんですが、だまって実家を担保にしてね。金融機関から2000万円、融資していただきます。1階が駐車場で、2階と3階の一部が吹き抜けになっていて。融資いただいたといってもお金がないから、私も大工仕事を手伝いました」。
なんとデザインしたのは会長とのこと。「スイスのレマン湖でみた別荘をコピーした」という。
「ものづくりが好きだからでしょうね。図面を描くのも好きなんです。今でも、厨房の図面は私がすべて描いています」。
これが1980年のこと。店名は「羅比亜」。かくして、30歳からの大冒険がスタートする。
喫茶店とパスタマシンとイタリアン。
創業事業である喫茶店は3年。自動販売機に珈琲がならぶのをみて、あっさりクローズし、今度はイタリアンをオープンする。
「売上も利益もあったからなんでやめるんだ。バカじゃないのかって言われました(笑)。でも、時代の風を読むとそれが潮時だったんです」。
「それにね」と会長はニヤリと笑う。
「じつは、喫茶店時代にパスタマシーンを開発していたんです」。
<パスタマシン?>
「ええ、そうです。パスタって茹で時間がかかるでしょ」。
<そうですね>と相づちを打つと、「当時は太いパスタだったから茹で時間が15分もかかっていたんです。それで、パスタが1000円。なぜだかわかりますか?」。
<?>
「つまりね。リードタイムが長いから1時間に1回転しかしない。そのぶん、利益を取ろうとすると、どうしても高くなるでしょ」。
<なるほど。でも、それがどうパスタマシンとつながるんでしょう?>
「じつは、圧力をかけてやればパスタだって早く茹で上がるんです。それがわかっていたから、ちょうどいい1.5気圧をかけて茹でるマシンをオリジナルでつくったんです」。
熱源はガス。遠赤外線の釜で1分半で茹で上がったそう。当然、リードタイムが短縮できる。
「これはいける!って思った(笑)。だから、デモストレーションじゃないですが、そのマシンをつかってイタリアンを始めるんです」。
パスタマシンが売れまくるという絵を思い浮かべたが、思惑はあっさり打ち砕かれた。
「私がつくったマシンは300キロもあったんです。そのあとすぐに大手のメーカーがコンパクトなマシンをつくっちゃって」。
会長の話を聞いていると、頭がぐるぐる回転する。
<それでどうしました?>
「これじゃ太刀打ちできないと、あきらめて、そのマシンをつかったイタリアンを、そうですね。8店舗まで展開して。パスタだけじゃなく、ピザもやっていたから、宅配のオーダーがだんだん増えていって」。いただいた年表には、1987年、パスタ・ピザ宅配事業を開始とある。
<デリバリーですね?>
「そう、そのあとドミノさんとかが登場するんですが」。
<こちらも、さきがけですね?>
「そう。ただ、将来性がないと思ってね。やめちゃいます(笑)」。
なぜか。簡単にいうと、イタリアの食材が輸入できなかったから。
イタリアンの運営をはじめた会長はイタリアに渡る。向こうでみつけた食材をコンテナに積んで輸入しようとしたが、保菌検査で実質輸入できないと知った。
「だっておかしいでしょ。イタリアでは高価な食材でもないのに、日本ではバカ高い。イタリアにはもっと安くておいしい食材があるのに、輸入しようとすると、検査だけで1ヵ月かかるっていうんです。バカじゃないの?って話でしょ。1ヵ月もかかったら、みんなだめになる(笑)」。
<それで、撤退?>
「そうなんですよね。みんなからは、また『バカか』って言われました。だって、業績は文句なかったですからね。でも、つづけていても将来性がないと思ったんです」。見切り発車に、見切り停車。話についていくだけでたいへんだ。
このあと会長は、今までとは異なる食材で勝負する。それが、蕎麦。もう少しお付き合いいただきたい。
ターゲットは、ルーズソックスの女子高生。
ちなみに、イタリアンは橡麺坊(とちめんぼう)というネーミングだったそう。漱石の「吾輩は猫である」にでてくる。
「たぶん、読めないけどね」と会長は笑う。
<ところで、その後はどうされたんですか?>
「喫茶店にも、イタリアンにも将来がないと思うわけでしょ。イタリアンのケースは食材に光がなかった。だから、なにか将来に光をさす食材はないかって」。
<それで蕎麦だったんですね?>
「そうです。昔からあって、日本の食文化の一つ。そのベースがあるから、将来にも光がとどく。ただね。私、蕎麦が好きじゃなかったんです(笑)」。
「ラーメン派だった」と会長。「私だけじゃなく、マーケットでも大きいのは上から順にラーメン、パスタ、うどんで、蕎麦はいちばん下。大好きって人がいるにはいるんですが、私には、その気持がわからない(笑)」。
「でもね、そんな私が食べたいという蕎麦をつくればいいじゃないかと、蕎麦で勝負しようと決意するんです」。
「でね。また、バカと言われた」と会長は笑う。
「蕎麦は大きく2つのカテゴリーにわけられるんです。立ち食いそばで食べる大衆のお蕎麦と、老舗のようなお蕎麦屋さんで食べる高価なお蕎麦です。後者で仕事をしている蕎麦職人たちに、パートやアルバイトメインの専門店をつくるといったら、彼らはパートやアルバイトにできるわけがない。バカかっていうんです」。
「そりゃそうですね。でも、私はいうんです。『蕎麦の専門店と言っても私が相手にするのはルーズソックスを履いているような高校生なんだ』って。いうなら和のファストフード、蕎麦の原点です。でも、旨い蕎麦は職人たちがいうように、そう簡単にはできないのはたしかです」。
蕎麦職人たちも唸るオートリフト。
では、その難問を会長はどう解決したんだろう?
「オートリフトです。オートリフトがあれば、パートさんでも旨い蕎麦が簡単にできるんです」。
<オートリフト?>
「今はふつうにあるでしょ。みたことがないかな? ザルに棒がついていて、ザルに麺を入れて時間が立つと、棒といっしょにザルがあがってくる…」。
「あるでしょ。あれを最初につくったのは私なんです。熱伝導を高めるために熱源にはトタン板のように波をつくって。気泡がないといけないから、気泡が逃げる穴をつくって、気泡といっしょに対流をつくる。そういうふうにすればね。蕎麦職人といっしょと言ったら失礼だから言わないけども、アルバイトやパートさんでも旨いお蕎麦をつくることができるんです」。
まるでメーカーのエンジニアのように説明してくれる。その一方で、お蕎麦のマーケットに対しても、するどい目を向けていたことがつぎの話でわかる。
「旨い蕎麦屋ってレトロな店って決まっているでしょ。でも、私はカジュアルなお店があっていいと思っていたんです。それに、蕎麦ってほかの麺と比べ、のど越しが今一つだし、何より、賞味時間が短くて、数分で劣化します。オペレーションも難しいから、大手は手をださない。茹でたらすぐに召し上がっていただかないといけないですしね。ただ、そういうハードルがあるから、私にすればぎゃくに面白いと思えたんです。ニッチだけど、そこにチャンスがあるって」。
今度は、蕎麦が、主。
「オートリフトのほうはね。パスタマシンで失敗した経験があったんで、自作はあきらめて、特許も何もいらないからって、アイデアだけだしてメーカーにつくってもらいました」。
新たな発明で、旨い蕎麦が気軽な値段で食べられるようになる。昔ながらの和のファストフード。蕎麦職人たちも唸ったに違いない。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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