2025年1月7日火曜日

合同会社 Briller(ブルイエ) 代表 浦野康輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”合同会社 Briller(ブルイエ) 代表 浦野康輝氏登場。

本文より~

歌手の父と、浦野少年と。

父親は銀座のナイトクラブの歌手だったそう。
「バブルが弾けて銀座がダメになってしまった後も、個人で活動をして、TV出演やレコードのリリースもあったと聞きました。コンサートも開いています」。
バブル時代の銀座はさぞ煌びやかだったんだろうが、今の世代の人間にはイメージしにくい。
子どもたちに対する躾は厳しく、何かあると「鉄拳が飛んで来た」と笑う。ともだちまで父親をみると怖がっていたそうだ。
<お父様をみて、芸能界に入りたいとは思わなかったんですか?>そんな質問をぶつけると首を振る。
姉弟は3人。現在、「長女の姉は心理カウンセラー、弟はエンジニア系の会社を経営している」とのこと。3人とも芸能界とは距離がありそうだ。
「父も母も中卒だったから、子育てや教育と言っても知識がなかったんじゃないかな。勉強しろって言われたこともないし、大学に行けとも言われなかった。そういう意味では自由奔放だった気がします(笑)」。
「中学を卒業したら、働け」と、これは、お父様の言葉。
浦野少年は高校を卒業し、アメリカのハリウッドで皿洗い、帰国後ワイシャツ会社、骨董古道具屋、アパレル店アルバイトなどを経験し、20歳より外壁屋根壁の職人として勤め、その後、フリーになる。20代前半、飲食とはまだまだ接点がない。

何のために生きるのか。

「フリーになって10年。おなじことの繰り返しに、だんだん飽きてきた」と浦野さん。「まともな教育を受けていなかったから、人生を俯瞰できなかった」とも。
「オレは、何のために生まれてきたの?」。
職人を辞め、代行運転の仕事を始める。介護の資格を取り、二種免許も取った。
「介護タクシーをするためです。バカだけど、運転は得意。オレらなんて、そういう人種」と、なかば吐き捨てる。
実は、浦野さんは、18歳の時アメリカに渡っている。
「アメリカの映画が好きだったから『英語を勉強したい』と父親に言ったんです。そしたら航空券を買ってきて『アメリカに行ってこい』って」。
<お父さん、かっこいいですね>というと、苦笑い。
<アメリカはいかがでしたか?>
「父親の知り合いがいるハリウッドに行ったんですが、怖い思いを何度もしました。レストランで皿洗いをして、3ヵ月暮らしました。もう行きたくはないですが、アメリカに行ったことは意味があった。アメリカにはいろんな人種がいるでしょ。そりゃ、暗闇からのそっと現れて、「煙草や小銭をくれ」っていうような人もいた」。
「アメリカだけじゃなく、世界には食べることすらままならない人が少なくない。そういう人と比べ、日本に生まれただけでラッキー。なんだかんだといっても、ふつうに生きていけるでしょ」。
「日本に生まれただけでラッキー」と、浦野さんは何度かそのフレーズを口にした。
「日本は贅沢な国だから、私を含めてみんな、生ぬるいんです。そういうことが頭でわかっても、言葉になるまで何年もかかった」。
これは、フリーの職人を辞めてからの話。
「豊かなこの国でオレは何をすればいい」。心の均衡を失い、もがき苦しんだ。代行運転で、車を走らせながら浦野さんは何を思っていたんだろうか?

雌伏の時。

長い長いトンネルだった。「つぎに進む、きっかけになったのは、障がいをもっても強く生きている人をみたこと」。
もう少しつづける。
悩みつづけたことで、浦野さんの精神性がかたちづくられていく。
「人生に無駄はない。そういうことにも気づきました。燻っている時期に『クソみたいな人生だ』と何度も吐き捨てました。でも、じつはそれさえ無駄じゃなかったんです」。
「まるで、バネを縮めている時期だった」と表現する。
動くことで風景は動き出す。人生もおなじ。「だからね。言い訳をして、何もしない人には怒りを感じるし、逃げないで欲しいと思う」。立ち止まっているだけでは、景色もかわらないから。
浦野さんが動きだす。
ただし、もう39歳になっていた。
だが、霧は晴れていた。

「やきとんてるてる」誕生。

「何やるの?となった時に、少しでも楽しいことと思ったんです。単純ですよね。料理をつくるが好きだったし、だれかに食べてもらって「おいしい」って言ってくれたら嬉しいでしょ」。
料理はできた?と聞くと、「たいていなんでもできるんです。極めたことないんですが」と浦野さん。10ヵ月、修業したあと独立。たしかに、なんでもできる。
現在、浦野さんは飲食店など合計6店舗を経営している。
創業店は高田馬場にある「やきとんてるてる」。繁盛店だし、グルメサイトの評価も高い。<ロケーションは気にしましたか?>というと、「そういうんじゃなくって、家賃がむちゃくちゃ安かったんです」と一言。
「もう、お化け屋敷だった」と笑う。「だけど、職人をやっていたから、木造だし、手を入れたらどうなるかだいたいわかるんです。お金もないから、職人時代の知り合いにお願いして、私も久しぶりに職人のような仕事をして」。
1階が店舗。2階が住居。
「店をオープンして、これで生きている」と思ったそう。「当時の私には何もない、だからこそ自由だった」とも。
もう、モヤモヤはしてなかったんですか?
「そうですね。私自身が立っている位置を移すと、違った世界が広がったんです」。

・・・続き

合同会社 Briller(ブルイエ) 代表 浦野康輝氏

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