2025年2月28日金曜日

来期に向けて、新たな取り組み計画中。

若手の勢いある営業マン、なかなか採れませんね。

ならばと、正社員にこだわらず学生インターン、またキャリア変更考えてる社会人インターン、定年過ぎたシニア層の方たち、主婦の方たちなど集め、社長特命チーム結成し、新規社長取材部隊、企業フォロー部隊、制作サポート部隊も考えています。

コロナ禍で少しずつ業務内容を変化させ、ストック型を増やしたことで、いろんな対応できる状況です。

なので、自社の人材募集(正社員)はこだわって良い人材(素直で明るく理屈言わない)を採用したいです。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン 

2025年2月25日火曜日

有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏登場。

本文より~

寡黙な父と野球少年。

4人姉弟の3番目に生まれた渡辺哲也氏。彼の父はスポーツ万能で多才な人物だったが、子供の誕生を機に脱サラし、スルメなどの珍味を生産加工する工場を営んでいた。“寡黙”という言葉がぴったりな父親で、仕事のことはおろか、自分の過去についても一切語ろうとはしなかったという。渡辺氏も子供のころは地味で大人しく、両親が共働きだったことから2つ年上の姉やその友達と遊ぶことが多かった。
父は家族との時間を何よりも大切にしていたのだろう、毎日夕方6時には家族そろって食卓を囲み、近所の居酒屋にもしょっちゅう連れて行ってくれた。小学3年生から始めた野球の練習や試合への付き添いは欠かさず、家族思いであることは子供心にも伝わった。
中学、高校を通じ野球を続けていた渡辺氏は、守備を担当。甲子園出場こそかなわなかったものの、野球中心の生活を送った。ただ他にやりたいことは何もなく、彼の進学や就活について両親も口を出してこなかった。同級生のように進路を決めることはなく、高校卒業後はそのままフリーターになった。

飲食への興味と阪神大震災。

高校卒業から1年が過ぎたころ、当時タイで加工したスルメを日本に輸入・販売すべく多忙を極めていた父の代わりに、渡辺氏は家の仕事を手伝うことになった。その仕事がひと段落し、今度は父の知人が経営する車の整備工場で働くことになる。
「そこの社長とオヤジと、板金のおっちゃんらが、毎日近所の居酒屋に行くんです。で、僕も連れてってもらって、初めてビール飲んで。店のマスターが面白い人で、なんや楽しそうやし、いい車に乗ってるし、それで『あ、飲食って面白いな、こんな仕事あんねんな」って思ったんです。それが飲食との出会いですね」。
渡辺氏が成人を迎えた数日後。1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が関西の街を襲った。奇しくもその日は、父親が注文した加工品を積んだ船がタイから神戸港に寄港する日でもあった。船は港に到着したものの、日本中がパニックに陥り荷を降ろせるような状況ではない。社運を賭けた商品は船上で腐敗し、渡辺家には多額の借金だけが残った。消費者金融の連帯保証人には息子と娘が名を連ねている。その負債を肩代わりしてもらうため、父はなりふり構わず親戚に頭を下げて回った。
「その時、オヤジがおかんの兄貴と弟に(金)借りてるって、初めて知ったんですよ。おかんもそれまでまったく知らなかったんです。オヤジ、えぐいなーって(笑)」。

父の借金2000万を返済すべく、独立を決意。

消費者金融やカードローンの負債を肩代わりしてくれた親族への借金は、2000万円に膨らんでいた。20人を超える親戚の前で頭を下げる父。周囲の非難にじっと耐えるその姿に、初めて父の弱さを感じた。
「それでね、オヤジがかわいそうやと思ったんです。だから僕も働いて、一緒に(借金を)返したら早く返せるって」。
整備工場の仕事は気楽だったが、その分ときめくこともなかった。毎年の昇給が5000円程度では借金返済の目途すら立たない。やがて父の自己破産により親族への返済義務は免除された。しかし「親戚の借金だけは返さなあかん」と心に決めた渡辺氏は、飲食業での独立を目標に、京都市内の飲食店で働き始める。そうして複数の店を渡り歩き、売上げだけでなく原価や経費など経営に必要な数値も把握していった。何をどれくらいで出したら、いくら残るのか…それは渡辺氏にとって貴重な経験となった。

26歳で独立。

24歳で結婚し、独立のための物件を探し始めた渡辺氏。とはいえ、なんの実績もない若者に店を貸し出してくれるところはない。やっとチャンスをつかんだのは、26歳の時だった。もと焼き鳥屋というその物件はビル地下で10坪。父の借金返済で自己資金が枯渇していた身に月30万の賃料はこたえたものの、妻は夫の独立に賛成してくれたし、国民金融公庫の保証人は義父が引き受けてくれた。こうしてなんとか小さな居酒屋をオープンさせると、渡辺氏の前には次々と“支援者”が現れ始めた。「こいつを応援してやろう!」と周囲に思わせる不思議な力。それが渡辺氏の最大の強みかもしれない。
オープンから1年半後、「地下の狭い店じゃなく、地上のもう少し大きな店で勝負したい」と、出町柳に2軒目を開く。1号店は妻と若い者に任せ、渡辺氏は2号店の経営に専念した。その時「起ち上げの間だけでも手伝って」と声をかけた知人が、後に有限会社らくちんのメインブランド『フレンチマン』の総料理長となる吉丸清孝氏だった。

銀行の融資担当者が出店を後押し。

2号店オープンからさらに1年半後、3軒目の出店が決まった。そのお膳立てをしてくれたのが、銀行の融資係を担当している人物だったのである。
「その人は(店の)常連さんで、毎週来てくれてむっちゃ仲良くなって。それで出店の相談をしたら『ここを買ってやれ』って、ある物件を紹介してくれたんですよ。ローン組んで、改装費も出してやるからって、全部絵を描いてくれて。町屋を買うなんて考えたこともなかったけど、その辺からパーンと変わりました」。
融資係が薦めた物件だけあって、その店は大当たりした。借入金は土地代と改装費をあわせ4000万円近くに膨らんだが、月々約16万の返済で20年後には自分のものになると思うとやりがいもあった。渡辺氏はこれを機に「有限会社らくちん」を設立。10年後に前述の店を倍の値段で売却したことで、同社のキャッシュフローは著しく改善された。

税理士のアドバイスにより、両親は借金を無事完済!

会社設立当時から世話になっている税理士先生に、ある日「オヤジの借金をどう返していったらいいか?」と相談。それを聞いた先生の奥さんは、「親にお金を渡すんじゃなくて、自分たちで返済させたほうがいい」と言う。
「親にしたら嬉しい反面、子供に面倒を見てもらうなんて痛恨や。私やったら嫌やし、死んでも死に切れん。自分で返したいわ」。
その言葉にハッとした渡辺氏は、「店舗の契約や開業資金は僕が出すから、オヤジとおかんは自分で店を繁盛させて、その利益で借金返していくってのはどう?」と両親に提案。息子の助言で大いにやる気を出した2人は、やがて小さな焼肉屋を始める。
この焼き肉屋、当初は“渡辺氏がスタッフと一緒に賄い料理を食べに行く店”という立ち位置だった。同業者にも、「たまに使ってやって」と忘れずに声をかけた。そのうち“おっちゃん、おばちゃんがやってるアットホームな焼肉店”はみるみる評判になり、あっという間に繁盛。2000万あった借金を2人はたった2年で完済してしまった。
「(税理士の先生に相談した)あの時ね、相手の気持ちを推し量るってことを学んだんですよ。子供に借金返してもらうなんて、それこそ(気持ちが)重い、重い。こっちが良かれと思ってやっても、あっちは『迷惑かけたな』って辛いだけなんやって。あれが僕の経営の中の根幹にある感じ。あ、人を活かすってこれやなって」。

・・・続き

有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏

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株式会社Visca 代表取締役 由利拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Visca 代表取締役 由利拓也氏登場。

本文より~

料理人の気持ちがわかるオーナーに。

由利氏の故郷は“天女の羽衣伝説”で知られる京都市北部の小さな町。丹後ちりめん発祥の地といえば、その歴史と伝統の重みが感じられよう。しかし近くに大学はなく、地元の子供たちは高校卒業と同時に他府県の大学へと進学していく。
3人兄弟の末っ子だった由利氏は、大学生になった兄たちの姿を見て「大学で学ぶものなんて何もない」と進学を拒否。「お前はおじいちゃん子だから、福祉の道がいいのでは?」という両親のアドバイスに従い、大阪にある福祉関係の専門学校に入学した。しかし他者を介護する仕事は荷が重いと感じ、結局その道に進むことはなかった。
専門学校を卒業した後も、地元には戻らず京都市内のしゃぶしゃぶ店でアルバイトを始める。
「そこの店長というか、ほぼ社長みたいな人がすごく頭のいい方で。終業後はみんなでカードゲームや麻雀をしたり、スノーボードにも行きました。とにかくバイトが楽しくて、月30日くらい入ってた。飲食に進んだきっかけと言えば、このバイトですね」。
アルバイトは楽しかったが、その一方で「このまま京都にいてはダメになる。今の環境を変えたい」という想いもあった。フリーター生活が1年になろうかという2月、渋る両親を説得して今度は東京の調理師専門学校に進んだ。当初は経営を学ぶつもりだったが、講師に「経営は30歳からでも学べるから、とりあえず10年間は料理を学びなさい。料理人の気持ちがわかるオーナーになったほうが、後々絶対君のためになるから」と言われ、デザートもあるフレンチを選択。そこで料理の面白さに魅了されていった。

スペインで本場の味を学ぶ。

一つの料理を極めるより、世界の料理を広く学びたいと常々思っていた由利氏は、専門学校卒業後に3年間務めたフランス料理店を辞め、スペインを目指すことにした。必要部分を書き換えたスペイン語の履歴書を片手に単身渡西したものの、観光ビザで雇ってくれる店などなく、ビザが有効な3か月間を食べ歩きに充てることにした。ひと月ほど経ったところで「だいたいつかめた」と感じた由利氏は、出国前に紹介されていた日本料理店に連絡を取り、そこで残りの2か月間を過ごす。冗談を言い合うような同僚もでき、社長からは「就労ビザを出してやろうか」という言葉も貰ったが、由利氏はその申し出を断った。
「僕はこの店が好きだけど、やりたいのはスペイン料理だからここで働くのは違うと思うし、ビザだけもらってすぐ辞めるような、裏切るようなことはしたくない」。
そう答えた由利氏に、社長は「ちゃんとスペイン料理を学びなさい」と気持ちよく背中を押してくれた。その社長とは、今もいい関係が続いている。
日本に戻り学生ビザを取得した由利氏は、帰国からわずか3か月でスペインに戻り、バルセロナの語学学校に通うかたわら、ミシュラン一つ星の「ラサルテ」や「アルキミア」で研鑽を積んだ。人種差別でブチ切れることもあったが、ただ我慢するのではなく、がんがん言い返していたという。差別といってもその大半は悪気からではなく、無知や勘違いからくるものが多かったし、説明すればわかってもらえた。明るく大らかで屈託のないスペイン人や、彼らを育んだスペインという国が好きになっていった。
二度目のスペインで3年が過ぎたころだった。「あと1年だけ、自分が働きたい店で働こう」と思い立った由利氏は、ミシュランの三つ星に輝く「エルス・カサルス」の門を叩く。
「『給料はいらないから働かせてくれ』と言ったら、『いいよ』って。じゃあここを最後にして帰ろうと思いました」。

日本一周から独立へ。

日本への帰国を果たした由利氏に、前職のフランス料理店オーナーから「スペイン料理の店を出すからやらないか」と声がかかった。この社長とはあまりいい思い出がなく一度は断ったものの、店側の熱心なアプローチに加え、自分を表現する場が欲しかったこともあり、調理場からホールまですべて任せてもらうことを条件にオファーを受け入れることにした。
― すぐに独立しようとは思わなかったんですか? ―
「当時は独立願望ってそんなになかったんです。それにみんな簡単に独立って言うけど、やっぱり恐怖はありますよ。その一歩をなかなか踏み出せないってことはあると思います。彼のもとで一生働くわけじゃないし、なら今ここで働いてもいいかって」。
シェフ兼店長として采配を振るいつつ、「国際パエリアコンクール」日本大会に出場し2年連続で準優勝に輝いた。池尻大橋駅から徒歩10分、23席というこじんまりしたスペイン料理店はいつも予約でいっぱいだった。
「でもやっぱり社長とは合わなくてね。約束だった保険にも入れてくれないし、喧嘩別れしました」。
店を辞めた由利氏は、パエリア鍋と特注コンロ持参で日本一周の旅に出た。地方の民泊やカフェの庭先で、地元の食材を使ったパエリアをサーブして回る旅だ。地域活性化や地元発信に熱心なオーナーたちが、由利氏に快く場所を提供してくれた。店側が集客を受け持ってくれる点も都合がよかった。
「海外の人って、自分の国や故郷のことをよく知ってて、ちゃんと答えられるんですよ。でも僕は生まれ育った町の人口すら言えない。だから日本に帰ったら、あちこち行ってみようって思ってたんです。でも青森に行った後に和歌山とかって大変だし、だったら北から順番に回ればいいかなって。アポ取りは大変だったけど、やってよかったです」。
初めて口にするパエリアを、「美味しい、美味しい」と食べてくれる人々の姿を見るのは嬉しかった。1日1か所、料理を作ったらすぐ次の町へと移動する。そんな“ボヘミアン”スタイルを続け、最終的には57日間で52か所を回った。

・・・続き

株式会社Visca 代表取締役 由利拓也氏

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2025年2月18日火曜日

「飲食の戦士たち 」再現ショートドラマ “第8話とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部 淳編“がアップしました。

 

「飲食の戦士たち 」再現ショートドラマ “第8話とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部 淳編“がアップしました。
実はこの第8話は、11月20日とんQつくば本店に再現ショートドラマの出演者、それに出演協力頂いたとんきゅうのスタッフの皆さんと一緒に撮影しましたが、1〜7話までずっと脚本、企画、撮影、編集やってくれてた20年来の友人の市川大作氏が12月10日にくも膜下出血で急死し、その後まだ編集前だったのでバラバラの素材を私たちの仲間のYUUKI YOKOYAが作り上げてくれました。
なので思い入れがハンパありません。
しかもとんきゅうの矢田部淳社長はアップが大幅に遅れたにも関わらず、何も文句もなく快く待っていただきました。
この「飲食の戦士たち 」再現ショートドラマseason1(第1~8話・市川大作シリーズ)は終了しますが、コラムの「飲食の戦士たち 」通じて約1,000社以上の社長のドラマが生まれ続ける限りseason2もスタートさせます。
「飲食の戦士たち 」再現チームもさらに力付けますのでよろしくお願いします。

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オフィス しょくの達人/おせっかい食堂 阪田浩子氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”オフィス しょくの達人/おせっかい食堂 阪田浩子氏登場。

本文より~

新橋のガード下と、葉山に生まれた「おせっかい食堂」と。

10数年前に、一度この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。
「たしか東武デパートに新店をオープンした時ですね」。
<あの頃は、メディアに何度も取り上げられていましたね?>
「そうですね。ワイドショーの密着取材をうけて、特集を組んでいただいたりして。私の絶頂期の一つ。じつは、早稲田大学でも講演させていただいているんです」。
当時、バリバリの経営者といったイメージでインタビューに臨んだが、テンポのいいお話と、素敵な笑い声を聴くうちにイメージが反転した。あれから十数年。あの時よりも深みがまし、笑顔が素敵になられた阪田さんに改めて、お話を聞くことができた。
現在、阪田さんは葉山の森戸海岸近くに「カラダが喜ぶごはん。ココロに優しい食堂」をコンセプトにした「おせっかい食堂~KAINA 海菜~」を運営。前回とはちがう切り口で、マスコミにも再登場されている。
メインメニューは「究極の鯵フライ」「海鮮丼」「地魚お刺身」といった定番中の定番。定番だが、葉山の新鮮な食材とこだわって選んだ調味料をもちいた、特別な定食である。
定食には手作り惣菜の2つの小鉢と、阪田さんがイチオシの「龍の瞳®提供の玄米つやみがき」と「具だくさん味噌汁」が付く。
アクセスはJR「逗子駅」、京急「逗子・葉山駅」からバス約10分。「森戸海岸」or「森戸神社」から徒歩1分。都会にはない、風光明媚な抜群のロケーション。
かつての新橋のガード下とは、まるで正反対のロケーションにいま彼女は立っている。
「オープンは2019年6月です。以前の会社をたたみ、今はこちらが拠点です」。
<娘さんがいらっしゃいましたよね?>
「娘ですか? あの時、小学6年生だった娘はもう成人して、先日、ついに彼氏をつれてきました」。
嬉しげな声が響く。

大阪で知った人のねたみと、フードビジネスプロデューサーへの道と。

阪田さんは1963年、東京の深川に生まれている。実家は水道工事業を営んでいた。本人いわく「チャキチャキの江戸っ子」。高校時代はハンドボール部で活躍。大学2年の時、友人と輸入会社を設立。大学そっちのけで始めた仕事だったが、阪田さんはアルバイトで始めたホテルのコンパニオンに魅了されて、その道を進みはじめることになる。
「当時は、政治家や芸能人のパーティー、新商品の発表もみんなホテルでしたから、まるで日本の縮図、時代の動きを見ているようでした」と阪田さん。
この仕事を通して、接客・サービスのスキルを手にした阪田さんは、28歳で、大阪のラグジュアリーなホテルに移り、レストランのマネージャーに就任。
「初めて実家を離れ、初めて人との軋轢を知った」と笑う。
「気に食わなかったんでしょうね。私は、江戸っ子でしょ。みなさんは関西弁。水と油(笑)」。
<想像もしていなかった?>
「ええ、なんなら歓迎されるくらいに思っていましたから(笑)」。
激務と、周りとの軋轢。
「1か月で6キロ痩せた。」と、阪田さんは笑っていたが、じつは、「従業員食堂に足を踏み入れることさえできなかった」らしい。
むろん、それで終わる阪田さんではない。のちにだれよりも信頼が厚いマネージャーになり、1995年、外食企業に転職。マネージャー、スーパーバイザー、また店舗開発、商品開発、人財能力開発など様々な職務・業務を経験する。
現在、阪田さんはメディアで「フードビジネスプロデューサーとして200店以上の店舗に関わってきた」と紹介されているが、その数は、阪田さんの波乱万丈な人生を語っているようにも映る。1995年には、阪神・淡路大震災も体験し、人間の本質を見た阪田さんはさらに企業戦士として、キャリアを積んだ。
「これ以上できない!というくらい、とことん働きました。それこそ1年366日」。 そして2001年「都に錦を飾ろう」と東京へ戻った。

たった7円からの再スタートと、20代の女性からの叱責と。

前職で知り合った男性と結婚し、女の子を授かる。東京に戻り、新生活を始めた阪田さんだったが、莫大な借金を抱えることになる。
「私がプロデューサー的な仕事をしたかったのをご存知だった方が、チェーン店の立て直しを依頼してくださったんです」。
<うまくいかなかったんですか?>
「V字回復とはいかなかったですね。でもね。たった3ヵ月じゃなにもできない」。
<たった3ヵ月ですか?>
「そうなの。わずか3ヵ月。魔法使いじゃないんだから、できっこない(笑)。着任した時には、すでに赤字が重なっていた。それを3ヵ月で契約を打ち切って、『赤字を補填しろ』って」。
額を聞いて驚いた。900万円。
「『君のキャリアを応援したい』って、いっていた人なのに」。
「契約書には、最後に、何かあれば相談しあいましょう。と書いてあった。
だから、信じてたんですけど、甘かったんですね~。」と、今は笑う。
財布だけじゃない、心までカラッポになる。
「あてにしていた仕事がなくなり、借金だけになって、とても家族3人で生活ができる状態じゃなかった。それが引き金になって、夫は大阪に返して、私は娘と二人で、東京で暮らします」。
娘さん、2歳の時。阪田家は「一文無し」になる。正確にいうと、財布のなかに1円玉が7枚だけあった。
夫と別れ、闘病中だった大好きな父親が、このタイミングで亡くなり、まさに「どん底でした。歩いていても、勝手に涙が落ちてくる」。
でも「子どもを食べさせなきゃいけないから」日雇いのアルバイトを始める。スーパーでのデモンストレーション。「20代の主任に『笑顔が足りない』と注意された」と苦笑する。
有名ホテルのレストランのマネージャーとしてTVの取材を何度も受けたキャリアウーマンに、笑顔が足りないといった20代の女性もすごいが、黙って頷いた彼女もすごい。
「くすんでいた」と彼女はそう表現する。
その頃の話。
「日雇いでは生活ができないから、ちゃんとした仕事に就こうと決意します。それで、とある会社の面接に行ったんです。その時に、衝撃的な一言を言われたんです」。
気になって、<その一言って?>と聞くと、「昔の私をご存知だったんでしょうね。『たしかに、昔の君は、ぴかぴかだったね』って」。
阪田さんは、まっすぐにその社長を見つめ、歯を食いしばった。そして精一杯の返事をしたそうだ。
「いつかぴかぴかになってもう一度、帰ってきます」。
その言葉とともに阪田さんのなかにある、なにかが起動した。もう、遠慮するものは、なにもない。頼るものも、ない。ただ、今のままじゃ自分を許せない。

4歳の娘から言われた一言と、起業と。

「それでね。銀座にある、ふぐ屋さんに面接に伺います」。なんでも、銀座のふぐの店に来る人たちにあやかろうとしたそうだ。
「ついている人についていけ!って言葉があるじゃないですか」と笑う。
戦略家の阪田さんらしい。
「大阪で有名な会社が銀座にオープンした革命的なお店だったんです。その店に飛び込んで雇ってくださいって。ありがたいことに、私のキャリアやスキルを評価いただいて採用していただいたばかりか、1週間で、おかみに抜擢いただいたんです」。
ただ、店での華やかな立ち振舞の裏っかわで途方に暮れることになる。「この仕事について2年経った頃かな。4歳になった娘から衝撃的な一言を言われるんです」。
<どんな一言?>
「『ママは私が好きじゃないの?』って」。
大好きな娘の一言。
娘のことが大好きだから、この一言は、たまらなくショックだった。
「でもね。娘にすれば、自然な一言です。保育園に預けていたんですが、彼女1人、朝から深夜まで、365日、預けられていたんです。どうして、私だけ? 4歳になってわかるようになったんでしょうね。どうして、私だけ、いつも保育園にいるんだろうかって」。
娘さんに、そう言われた彼女は、必死で弁明する。
「そうじゃないの、そうじゃない。あなたと一緒にいたいから、一緒に生きていくために、ママ、頑張って働いていたの」。
「ママが頑張ってくれてるのに、ごめんね。と娘も言ってくれて…一晩中、親子で泣きつづけて…」話しながら、その時を思い出したんだろう、阪田さんは目頭をぬぐった。
ひょっとすれば、もっと上手な付き合い方があったかもしれない。仕事にも、娘さんにも。阪田さんは、あまりにまっすぐだ。だから、この娘さんの一言にもまっすぐ向き合った。
「どうすれば、娘を1人にすることなく、生活を続けていけていけるだろうか。もう、起業しかないって」。
阪田さんは、もう一度、自身の帆を張る。これが、のちにTVでも紹介された「新橋ガード下の串かつ屋がデパレスへ進出するまで」につながる。
一言で片付けてはいけないと思うが、いい言葉が浮かばない。母はつよし。同時に、阪田さん、つよし、である。

串カツ店で大逆転。だが、ふたたび。

阪田さんは、知人に投資してもらって、新橋に4.5坪の立ち飲みをオープンする。メインは串カツ。「大阪時代に親しくなった大将から、串カツを少しだけ教えてもらっていた時があるんです。そして『串カツは儲かるぞ』って。それを思い出して(笑)」。
4.5坪、じつは、離婚した元ご主人を東京に呼び、2人して店に立った。阪田さんいわく、「仕事では頼れるパートナー」なんだそう。
「大阪の串カツって、二度漬け禁止で有名ですよね。ドンとソースの缶がおいてあって。二度漬け禁止で配慮しているんでしょうけど、それでも女性からみたら、ほら、ソースのなかにつばがとんでるかもしれないでしょ。言葉を選ばずにいうとすごくきたない(笑)」。
「だからね、」と阪田さん。
「私は、大阪の串カツ文化を取り入れながら、大阪とはちがうアプローチをします。東京という都市にアップデートした串カツです」。
「簡単にいうとね。ヘルシーな串カツです。ソースもお一人ずつ。キャベツも、シャキッとしたものを席におつきになってから、その人専用でおだしする」。
新橋のガード下。小さな立ち飲み屋に入ると、きれいな女店主が現れる。油ギトギトというイメージもない。おまけにヘルシー。
「当時、串カツも東京では珍しかったし、女性が一人で入れる立ち飲み屋なんてなかったんです。でも、社長の私が女だし、女性が立ち寄る店にしたかった」。
<ニュース性もバリバリありますね>
「そう、それで、マスコミも殺到して。」あれよあれよという間に、業績がアップしていく。「2011年、震災の時に、事業譲渡するんですが、合計8店舗まで出店しました」。
<ここから先が新たにお聞きするお話です>
「そうですね。私は、そのあとフードビジネスプロデューサーとして独立します」。「フードビジネスプロデューサー」という響きは、格好いいが、阪田さんは「事業をぜんぶ、譲渡して、みたび無一文になった」という。
<山と谷の人生ですね?>
「そう、ジェットコースター人生!(笑)でもね。おなじ無一文といっても、このときはきつかったなぁ。もともとリーマン・ショックで体力が弱っているところに、東日本大震災が起こったでしょ。当時、月商はだいたい3000万円くらい。うち人件費が1000万円、食材費が1000万円。光熱費と家賃と引くと、残るのは、返済ギリギリの利益が実情」。
阪田さんいわく、日商100万円が経営を継続するうえで、ギリギリのラインだった。
「でも、夜の新橋から人はいなくなったでしょ。川口店は計画停電でオープンもできない、東武デパートは18時で閉店。余震が続く毎日。いつになったら、日常に戻るかわからない。1ヵ月つづけば2000万円の赤字です」。
<それはきついですね?>
「体力があればちがっていたんでしょうけど。借り入れが少なくなかったから。3月15日には、弁護士と相談して、事業を譲渡することにしました。もと旦那も、スタッフも、行き先を決めて…生き残れる店と、スタッフは救命ボートに載せて、本体を沈めることにしたんです。だから、『タイタニック倒産』って、名付けてます(笑)。そして私はまた娘と2人」。
<ふたたび、無一文?>
「正確には、3度目ね」と、阪田さんは指を3本立てて笑う。起き上がるたびに強くなる。それが阪田さん。果たして今度は。先を急ごう。

・・・続き

オフィス しょくの達人/おせっかい食堂 阪田浩子氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)    

株式会社ALL GRACE 代表取締役 羽染陽一朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ALL GRACE 代表取締役 羽染陽一朗氏登場。

本文より~

新宿生まれ・新宿育ちの野球少年。

東京都新宿区新宿5丁目は、新宿の総鎮守「花園神社」が鎮座する落ち着いた雰囲気の住宅街。羽染氏はその街で三代続く酒屋の長男として誕生した。
「母の実家は公務員で転勤が多かったようですが、父はずっと新宿ですね。ひいおじいちゃんの代に新宿で酒屋を始めて、今は父がやってます。僕は家業を継いでませんが、うちの実家(酒屋)に発注したり、仕入れで知り合った酒蔵さんに取次したりしています」。
日本最大規模の繁華街・歌舞伎町やゲイタウンが目と鼻の先に広がる猥雑な夜の世界。そんな環境とは対照的に、子供時代の羽染氏は清々しい丸刈り頭の野球少年だった。小学校時代はピッチャー兼ファーストを務め、中学進学と同時に神奈川県の某クラブチームに入団。しかし隣県のレベルがあまりに高く、早々に挫折感を味わった。
「もう試合を見ただけで、レベルの違いは一目瞭然でした。同級生でもプロ野球の一軍に入った人もいるくらいですしね。でも、たとえプロは無理でも甲子園くらいは出たいと思って、辞めずに頑張りました」。
自分でトレーニングメニューを考え、自宅から東京ドームまで毎日走り込むなど黙々と練習に励んだ。肩の痛みには悩まされたが、日々の努力が認められ中学卒業時には神奈川県4強に入る神奈川隼人高校からのオファーもあった。しかし実家を離れての寮生活が嫌で、いくつかの候補から専修大付属高校を選択。野球部では1年の夏にレギュラー入りしたものの、再び肩を痛めて2年の夏の試合を欠場した。「このまま無理をしたら、3年の春には出られなくなる」と考え大事を取っていた矢先、足の腫瘍が見つかり入院することになる。
「悔しかったですね。で、もう野球ができないのがつまらなくて、『病院へ行く』と嘘ついて学校にも行かなくなりました。授業も出てないし、テスト問題もまったくわからなくて、もういいやとふてくされて。追試もしてくれたのに、それも零点みたいな感じでした」。

悔しさと大切な人の死から学んだこと。

出席日数不足や成績不振がたたり内部進学こそ逃したものの、指定校推薦でなんとか大学に進んだ羽染氏。入学してもさしてやりたい事はなく、車の免許取得やアルバイトなどプライベート重視の学生生活を送っていた。そんなある日、彼のもとに訃報が届く。
「小学校の同級生のお父さんが野球チームの総監督で、その人に礼儀とか挨拶とか仲間が大事だとか、そんなことを教えてもらいました。でも僕が大学生の時に、病気で亡くなったんです。よく『人生には限りがある』なんていうけど、経験しなきゃわからないですよね。僕はその時に体験しました。だから『(本当にやりたい事があるなら)今すぐ行動しなければ』って。野球はダメだったけど、このまま悔しいだけの人生は嫌でした。高校時代に夢は破れた。でもそれが今につながってるって思うんです」。
野球が満足にできなかった悔しさ。人生に大切なことを教えてくれた人の死。そうした経験が羽染氏の独立心をかき立てていった。

新卒で不動産業、そして飲食の世界へ。

― そもそも飲食業を始めようと思ったきっかけは? ―
「実家の酒屋を継ごうと考えた時、これから個人の酒屋が生き残るにはどうしたらいいかって考えたんです」。
スーパーやコンビニに安価な酒が並ぶ今の時代、個人の酒屋は価格の面で負けてしまう。なら自分が日本酒メインの居酒屋を展開して、実家に発注すればどうだろう。実家には三代続く老舗店としての豊富な知識と経験がある。居酒屋なら新規顧客も開拓もできるし、若い人の嗜好もつかみやすい。それならどちらもWin-Winになるのではないか……と。
大学卒業後は大手不動産管理企業に入社し、独立のための貯蓄に着手。もともと「1つのことを2~3年やったら、また違うことを1~2年やる。その間に貯金して独立する」と考えていた羽染氏は、3年後に350万円を貯め予定通り退職し、海鮮と日本酒がメインの居酒屋を経営する高校・大学時代の先輩の会社に転職した。その会社はちょうど3店舗目をオープンしたばかりで、店舗に置く日本酒銘柄の選定を始め、新しいことにもどんどんチャレンジさせてくれたという。羽染氏は1年後を独立の目標に定め、仕入れから原価管理や採用など必要な知識をどんどん吸収していった。
「実はその会社に独立を持ちかけられて物件の契約までしたんですが、建物自体が消防法にひっかかってしまって。投資資金は全部返してもらったけど、結局自分で考えなきゃダメだなって思いましたね。でも独立については入社時に伝えてあったので、円満退職でした」。

開業1年半で売り上げ1.3億円!

2016年4月、新宿歌舞伎町2丁目に「夢酒 新宿本店」をオープン。全国47都道府県の日本酒がすべて勢ぞろいし、約100種類もの日本酒を安価で提供、グラスの種類も60ml、120ml、180mlと3種類あるので様々な銘柄を気軽に飲み比べしてもらおうというコンセプトの和食居酒屋だ。30坪50席(現在は56席)でテナントビルの2階。新宿駅からは少し離れた場所にあり、夜になるとホテルのネオンが通りを艶っぽく染める。知る人ぞ知るこの店は、開業からわずか1年半で1.3億円の売り上げを達成した。
― 日本酒に特化したのはなぜですか? ―
「前の会社で、『日本酒を飲みたいっていう層がいるんだな』って思ったんです。自分のこれまでの経験では『日本酒を飲みに行こうぜ』っていうのはあまりなかったんだけど、一定数いるんだって。あと競合もいなかったですしね」。
― 「夢酒」の勝因は? ―
「当時、『新宿×日本酒』でヒットする良い店がなかったこともあって、それでいつの間にか『新宿×日本酒=夢酒』がオススメとしてウェブに上がるようになって。あとうちはリピーター作りにこだわっているんで、それをコツコツと積み上げてきた結果って感じですね」。
チラシ配りやグルメサイトへの広告はもとより、友人・知人による紹介にも力を入れた。オープン当初の月商500万円のうち100~150万円は彼らの来店によるもので、地元新宿における羽染氏の交友関係が奏功したといえよう。また路面店ではなく、ビルの2階(しかも2年間借り手がいなかった物件)を居抜きで安く借りるなど、初期投資や固定費を抑えたことも大きい。後にコロナで休業要請があった時も、これらの節約により「たとえ売り上げゼロが2年続いても生き延びられることがわかった」ため、落ち着いて次の手を打てたそうだ。
2018年1月に株式会社ALL GRACEを設立、その2か月後に「夢酒 新宿三丁目店」を出店した。「夢酒」で培ったデータと経験をもとに、満を持してオープンさせた「富士喜商店 代々木店」は、60種以上の日本酒が60分539円(税込み)で飲み放題の店だ。お通し代や料理2品オーダーなどいくつかのしばりはあるが、飲み放題なので普段は手が出ない高級銘柄も気兼ねなく楽しめる。日本酒ファンならワクワクが止まらないこのシステム、すぐにSNSで話題を呼び一気にブレイクした。
「『夢酒』で一人当たり何杯飲むかというデータを取っていたので、原価率は想定できていました。でも日本酒飲み放題にちょっといいお酒を入れてあげても、お客様にはなかなかお得感が伝わらない。ならもっとわかりやすい形にしようと、お通しをセルフにしたんです。『あそこで好きなだけ入れてください』ってすれば、お客様の満足感も高いし、スタッフの手間も削減できるので」。

・・・続き

株式会社ALL GRACE 代表取締役 羽染陽一朗氏

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2025年2月13日木曜日

「飲食の戦士たち」再現ショートドラマシーズン1が8話で終了します。が・・・。

 コラム「飲食の戦士たち」はおかげさまで3月末までには1,100連載到達する勢いですが、

「飲食の戦士たち」再現ショートドラマはシーズン1が8話で終了します。

このシーズン1は故市川大作氏あっての作品でした。

その最後の“第8話 とんきゅう矢田部淳社長編”がいよいよアップされます。

11月下旬に撮影し、アップを12月下旬で予定してましたが、くも膜下出血により天国に行ってしまった監督の市川大作さんの制作を再現ショートドラマの準レギュラーでもある横谷氏がしっかり作り上げてくれました。

今回は少し尺を長くしてあります。

内容が良いのと、市川大作さんが撮ってくれた素材をできる限り使いたかったのもあります。

市川大作さん、本当にインパクトを与えて頂いた「飲食の戦士たち」再現ショートドラマの制作、ありがとうございました!!

この「飲食の戦士たち」再現ショートドラマはテイストを変更してでもシーズン2も続けます!

なにせキイストン再現プロジェクトチームがいる限り、市川イズムを引き継ぎチャレンジしていきます。

戦略型総合人材採用会社キイストン

2025年2月10日月曜日

株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏登場。

本文より~

いい話のつづき。

同級生3人を誘って、創業。これが磯貝さんの始まり。設立は2015年。目標は100億円企業。まだまだ先の話だと思って聞いていたが、もうすでに20億円。加速すれば、あと数年でゴールテープを切るかもしれない。わくわくしながら、お話を聞かせていただいた。
磯貝さんが生まれたのは1994年。お父様は建築系の仕事をされている。
「姉が1人います。母は今も仕事をしていますが、人に好かれるタイプで、じつは母の知り合いが、今うちで働いてくださっています」。
母似だという磯貝さんも、周りの人に好かれるタイプ。同級生4人で創業して、10年近く経った今も全員一緒に仕事をしているのも、磯貝さんの人柄の表れに違いない。20億円企業の社長だが、謙虚で、話していて楽しい。
さて、その磯貝さんは小学生からサッカーを始め、中3まで続けている。区の選抜にも選ばれていて、強豪校のトライアルを受ける予定だったが、怪我をしてスポーツ推薦を諦めている。進んだのは、進学校。
「それから私は、建築設計を勉強するために中央工学校に進学します。彼女はアパレルのお店で就職。でも、半年で退職しました」。
<磯貝さんが?>
「いえ、彼女です。19歳の時に子どもを授かったんです」。
その時のお子さんは今、10歳。2人は結婚することになる。
「大きな反対はされなかったです」。
それ以来、いい話の続きを、2人でつむいでいくことになる。

起業と、プレッシャーと。

19歳、専門学校生。定職があるわけでもない。
<結婚生活は?>
気になって聞いてみた。
「最初はお金がないので、うちの実家で両親と同居です」。
<磯貝さんのご両親と一緒に?>
「ええ、だから、彼女は大変だったと思います。しかも、起業してからは、なかなか家にも帰れなかったもんですから」。
話を聞くと「なかなか」どころか、まったく帰れなかったらしい。
あらかじめ磯貝さんからいただいた自身のプロフィールによると、「中央工学校へ進学し建築設計を学びながら同級生を引き連れ居酒屋にアルバイトとして勤める。学生の傍ら前記の店舗にてバイトリーダーを経て、店長を任される中で同級生と起業を志し、中退を決断。株式会社J-Connectを設立する」とある。
思い切った選択だ。
「捨て身の覚悟です。仲間の1人は、親に勘当までされています。私が誘ったわけですから、もちろん、プレッシャーはハンパないです。それに、私には妻も、子もいましたから」。
「退路などなかった」と磯貝さんは笑う。
<1号店は運営を受託されたんですよね?>
「そうです。屋号はそのままでオペレーションを任せていただきました」。
経験といえば、バイトと、創業当初に手伝ってくれた料理人から教わっただけ。
「実質、経験者は1人もいなかった」と笑う。
ただし、そこから手探りの快進撃がスタートする。
家では、両親と妻と子どもが待つ。だが、帰れない。パパ以上にママが頑張ってくれた。奥様の応援がなければ、もちろん、今の磯貝さんも今の会社もない。当時の話をもう少し。
「とにかく、食べさせていかないといけない。でも、食べられればいいってわけじゃない。じつは、3人のうち2人は、私と一緒に大学まで辞めていますから」。
プレッシャーは、今だけの話ではない。家族はもちろん、彼らの将来に対しても重圧がのしかかる。
「でも、性格的にそういうプレッシャーを楽しむタイプなので。それに、みんな腹を決めていましたから」。
「結束」。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「業務委託でスタートしたのは、40席程度の海鮮居酒屋です。ランチからスタートし、24時まで。利益は少し。とにかく、創業メンバーが4人ですから、それだけで人件費がかかる」。
同級生は20万円程度、磯貝さんは5万円だけ。
みんなで店に泊まり込んだ。どんな会話がなされていたんだろうか?
語っていたのは、野心か、望みか。その一方、5万円という現実はきつい。「嫁さんからのプレッシャーもきつかったですね(笑)」。
それは、そうだろう。
「でも、もうスタートしてしまいましたから」。
どうなっていくんだろう。

東京→千葉→静岡→埼玉、つぎは。

「創業時のメンバーをとにかく食べさせていかないといけません」。そのためには早く出店しないといけない。だから、磯貝さんは自身の報酬を5万円のみにした。ほかのメンバーに給与を支給し、残った分は貯蓄する。そして、10ヵ月後に新店をオープンしている。
「当時は店舗開発の知識もないし、経験もない。お金もありませんから、とにかく、初期投資が少なくて済む居抜きの物件をネットで探し回って」。
<ちょうどいい物件があったんですね?>。
「ええ、我孫子だったんですが」。
<我孫子と聞いて、あの我孫子?>と反芻した。「ええ」といって、笑う。
「創業店は大塚ですから、距離があります。行き来するとしたら大変です。ただ、うちには創業メンバーがいたので人手はあるし、当時は泊まり込みでしたから、二手に別れれば問題がありませんでした」と磯貝さんはこともなげにいう。
我孫子の店舗のスケールは40坪で80席。空中階。「当時は宴会需要を狙っていました。業態は総合居酒屋で客単価3500円。ただ、好調というわけではなく苦戦はしています。それでも、初期投資が安く、家賃も20万円程度だったので、創業の店と合わせて100万円くらいはキャッシュが残りました」。
ふんだんに資金があったわけではない。でも、未来へのプレッシャーか出店を急いだ。「3号店は、その2ヵ月後です」。東京、千葉、そして、3号店はなんと静岡。
「地方がいいぞって、そういう噂を鵜呑みにして(笑)」。距離はあったが、創業メンバーの誰かが行けばいい。
「静岡っていうとみんな驚かれるかもしれませんが、うちの戦略にはマッチしています。とにかく、初期投資が少なく、家賃も安いのでランニングコストも少なくて済む。それに実際、静岡に行ってみてびっくりするんです。さすが、新幹線が止まる駅があるだけあって、我孫子より人が多い!って」。
こちらは20坪、家賃20万円、450万円程度を売り上げた。さらに、春日部へ。わずか1年と少しで、4都道府県を制覇している。その後も、年間4~5店舗のペースでオープンを続ける。しかも、10店舗まで自己資金のみというから、それにも驚かされてしまった。

・・・続き

株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏

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よね蔵グループ 有限会社島/株式会社いかの墨 代表取締役 中島敬二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”よね蔵グループ 有限会社島/株式会社いかの墨 代表取締役 中島敬二氏登場。

本文より~

美容師になりたい息子と、調理師になって欲しい母親と。

細長いかたちをしている新潟県のほぼ中央に位置しているのが燕市。洋食器の生産で世界的なシェアをもっている。今回、ご登場いただいた中島敬二社長は1965年に、この燕市に生まれている。
お父様は洋食器の会社を経営されていたそうだが、業績が低迷。中島社長が中学1年の時に、それがもとになって両親は離婚されている。
「父と離婚してから母はスナックを経営して、それが現在の会社に生まれかわっていきます」。中島社長は、2人兄妹。妹さんは今、事業パートナーの1人。
「もともとスナックだったんですが、1989年、私が23歳のときに割烹をはじめます」と中島社長。ホームページの沿革には<1998年1月 有限会社 島 設立 【日本料理 島】 オープン>と書かれている。
「私の少年期ですか? ごくふつうかな。中学からともだちに誘われて柔道をはじめました。進学した高校に柔道部がなかったので、ラグビーに転向。最初は同好会だったんですが、すぐに部に昇格し、試合にもでていました。高校を卒業して調理の専門学校に進みます」。
<忙しいお母さんに代わって料理などはされていましたか?>そう質問すると「いえいえ」と苦笑する。
「当時は母をサポートしないといけないっていう感覚がなかったですね」。
それでも、調理の道に進んだのは母の願いを聞き入れてのこと。
「じつは小さな頃から美容師になりたかったんです。当時は人気でね。かっこいい仕事だったんです」。
<でも、あきらめた?>
「母親がスナックをやっていたでしょ。でも、夜の仕事。私らも大きくなったし、業績もかなりよくって。資金はけっきょく銀行から借り入れたんだけど。とにかく、スナックをやめて割烹をしたいっていいだしたんです」。
母は、息子をみる。
「割烹をするんだったら、もちろん料理人がいるでしょ。だから、私に料理人になって欲しいっていうんです。そりゃ、苦労もかけてきたしね。『美容師になりたい』なんて言ったら、『だったら、そうしなさい』っていうに決まっているから、そこは黙ってね」。
今でも「美容師がよかった」というような口調で、そう語る。

8時間のシフト勤務。楽すぎて退職?

「専門学校を卒業して最初にはたらいたのは『美濃吉』さんです。3年くらいお世話になりました」。
配属は東京。ただし、東京といっても仕事漬け。観光する時間もないまま時が流れていく。
「最初の2年間は朝7時に出勤して、夜の10時過ぎまで。ハードワークですが、当時はそういう時代でしたし、私らもそれがふつうだって思っていました。ただ、3年目になって、たぶん上場したからだと思うんですが、空気がガラっとかわってね」。
長時間労働が改められて、8時間のシフト勤務になったそうだ。その一方でとかく効率が重視されるようになる。
「修業中の私からすれば、効率だけじゃ物足りない。最初を知っているから余計です。今じゃ、あの時、効率化のプロセスを勉強しておいたらよかったかなと思いますが、料理をマスターするために就職した当時の私からすれば、やっぱり効率じゃなったんですよね」。
<それで、退職?>
「そう、それで、退職させてもらって新潟に帰ります。今度も、学校から紹介してもらった割烹で勤めるんですが、ここは半年くらいしかいなかったですね」。
「ちょっと暇すぎた」と笑う。

「日本料理 島」オープン。ただし、視界不良。

3社目は結婚式場。
「ただね。入社する時に、母親に改めて『お店やりたいから一緒にやろう』と言われたんです」。
お母様にすれば、念願の店をつくるという思いと、息子に残してやろうという思いがあったんだろう。
「私は小さな割烹をイメージしていたんだけどね(笑)」。
お母様は大胆にも融資を受け、営んでおられたスナックの斜め前に土地を買い、3階建ての立派な店をつくられた。「100席以上あった」というからたしかにスケールがでかい。
「でね。その結婚式場ではたらいていた時の先輩にも相談して、調理人を紹介してもらって」。
<お店は無事オープンしたんですか?>
「そう。昔、母親がいっていたように、私が高校を卒業して5年後にね」。
1989年、親子の思いを乗せて、「日本料理 島」が華々しくオープンする。
母と息子と、そして、調理人1人。
「最初の、1、2ヵ月は繁盛しました。ただ、そう上手くいきません(笑)。だってね。母親に商才はあったけど、スナックの経営とはさすがにスケールがちがう。100席以上だもの」。
「たいへんだった」と中島社長。「母親とも言い争いがたえなかった」と苦笑する。
「母親のやりたかったのは宴会場もあるようなスケールの大きな割烹料理店です。でも、私はもう、そういう時代じゃないんだと」。最初からボタンのかけちがいがあったそう。
宴会シーズンは、それなりだったが、シーズン以外は客が思ったように入らない。親子にとって、険悪な日々がつづく。
「保険として残しておいたスナックがあったのでなんとか食いつないだ」と、中島社長は、もう一度苦笑いした。
視界、不良。
「5年くらい経って、もうだめかなと思った時に、あるお誘いがあったんです」。

息子のチャレンジ。

「ある時にね。スナックの常連さんに上場企業の役員がいらしたんだけど。その人からゴルフ場のレストランのテナントのお話をいただいたんです。若かったしね。店もうまくいってなかったでしょ。だから、二つ返事でやらしてくださいって」。
ゴルフ場のレストラン。ランチはカツカレーやラーメンセット、おつまみはホルモン焼。割烹とはちがう。だが、意に介さない。
「お店のほうは流行ってないから、料理人も1人で十分。最初に誘った料理人にお願いして、私はゴルフ場のレストランで、調理師をもう1人採用して」。
<そちらが繁盛したんですね?>
「いやぁ、それがね」。
「新潟のゴルフ場は12月から2月まではだいたいクローズするんです」。スタッフは冬期解雇となり、その間はほかでアルバイトなどをするそうだ。
「でも、そのゴルフ場は日本海側にあったから、雪が降っても積もらない。だから、フルシーズンオープンしているんです。ただ、オープンしているといったって、すごく晴れた日にしかお客さんは来ません(笑)」。
クローズしないから冬期解雇もできない。スタッフを抱えたまま。
「だから、たいへんだった。でもね。そのゴルフ場の支配人に、勉強させてもらうんです。原価を意識するようになったのも初めてでした」。
経営を意識して、そのノウハウを叩き込んでいただいた。
「あの人のおかげ。今があるのは」と、中島社長は感謝の言葉を忘れない。
<オフシーズンの人件費はどう捻出されたんですか?>
「そう、なんとかしないといけないでしょ。お客さんがいなくてもスタッフはいるから人件費だけかさむ」。
立派なキッチンも、無用の長物。1人で悶々とした日々だったにちがいない。また、うまくいかないんじゃないか、と。
「そう、でも、もう失敗はできない」。頭がぐるぐる回転する。「ある日、キッチンをみて、そうだ、ここで料理をつくって、と。セントラルキッチンだよね。そういうふうに利用させてもらおうとひらめいて。もともとあった自宅を改装して居酒屋をオープン。料理は、セントラルキッチンから送ります」。
<それが沿革にある「よね蔵 吉田店」ですか?>
「そうです。1999年です。これが思った以上に繁盛するんです。最初はゴルフ場のキッチンを活用するためくらいに考えていたんですが、思った以上になって。ゴルフのキッチンだけじゃ、回らなくなって。それで、じゃぁ、こっちを本業にしようと、思い切って舵を切ったんです」。
中島社長が「思った以上」というように、連日連夜、歓声が上がる。
中島社長が大きな手応えをつかんだのは、この時が初めてだったかもしれない。2年後に「よね蔵 燕三条店」をオープン。繁盛店と、それを仕切る息子をみて、お母様はさぞ喜ばれたことだろう。この時、東京ではたらいていた、娘。つまり、中島社長の妹を呼び戻しておられる。
その後も好調をキープ。2003年にはJR新潟駅の南口に「葱ぼうず」をオープン。この時、地場の食材をつかった和のテイストに舵を切り、さらに知名度を上げていく。

・・・続き

よね蔵グループ 有限会社島/株式会社いかの墨 代表取締役 中島敬二氏

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株式会社ダイニングエッジ 代表取締役 及川裕樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイニングエッジ 代表取締役 及川裕樹氏登場。

本文より~

奄美大島と、攻玉社と。

奄美大島といっても、12月は、さすがに寒いらしい。それでも、観光案内を観ると、シュノーケリングなどのアクティビティは楽しめるそうで、冬になっても青い空に、青い海は、健在だった。
今回ご登場いただいた株式会社ダイニングエッジ、代表取締役の及川裕樹さんは、小学5年生まで、年2回、この奄美大島に渡っている。お母様が奄美大島出身。
「奄美大島で祖父母は大きなショップを経営していました。奄美大島の子どもたちの制服は、すべて、そのショップに置いてありました。正月になると、私も店頭に立って初売りを手伝いました。それが、今の私の原点かもしれません」。
ちなみに、東京から奄美大島に行くには、飛行機で約2時間31分かかるそうだ。「当時は、パイロットもおおらかで、子どもはコックピットで空の旅をたのしめたんです」。
上空から観る、果てしない大海原。少年には、どう映っていたんだろうか。
子どもの頃の及川さんの話をもう一つ挙げると、勉強ができたこと。
「中学受験前の模試で、100位以内に入ります。腕試しのつもりが、それで自信をつけてしまって中学を受験して、攻玉社中学校に進みます」。
攻玉社中学校で検索すると、創立160周年と出てくる。偏差値は高く70前後。「マジメな子が多かったですね。帰国子女も多く、私が入ったバスケットボール部では、半数以上が帰国子女でした。株式会社カオカオカオの新井勇佑社長は、先輩です(笑)」。
新井さんは、中学時代、医師をめざしておられたはずだ。そういう生徒もいる。ちなみに、新井さんもこの飲食の戦士たちにもご登場いただいている
中・高とその攻玉社ですごし、早稲田に進学。ちなみに、とある人気女優とご近所で同い年。一緒にご飯を食べ、お風呂にも入ったそう。それが縁でテレビにも招かれている。

日本最大の学園祭と、実行するメンバーたちと。

「早稲田祭をやりたくて、早稲田に進学します。高校の時から文化祭の実行委員会をやっていて、楽しかったから。慶応も受かったんですが、早稲田祭のために早稲田を選択します」。高校の文化祭と比較すると、大学の学園祭は、スケールがまったくちがう。なかでも早稲田祭は、2日間で20万人ちかい人が訪れる日本最大級の学園祭だ。むろん、大人の事情もからんで来る。
「開催するコストも莫大ですからね。私は早稲田祭でいちばん大きなイベントを企画する広告研究会サークルに入ります。このサークル自体、大所帯で、1つ下では、400人がサークルに入ります。入会金と年間8000円。年会費だけで320万円」。
協賛企業もつく。協賛企業への営業活動は、サークルメンバーの大事な仕事。及川さんは早稲田祭の運営スタッフにも所属することになるのだが、「2つでたぶん、3000万円以上は集金している」と笑う。さすがに早稲田ともなれば、スポンサーがだす金額も桁がちがう。
「リクルートさんとのお付き合いもありました。リクルートさんも大事なスポンサーの1社です。その縁で、リクルート出身の経営者の方に縁ができ、刺激をいただきました。いずれにしても、私の人生のなかで貴重な4年間でした。もっとも、大学には行っていても、授業にでた記憶はあまりない(笑)」。

不夜城は、今日も眠らない。

「就職は大手証券とベンチャーリンク2択でした。もちろん、両親はベンチャー・リンクは猛反対です。なんだ、その会社は?って感じです(笑)」。
<及川さんはベンチャー・リンクをご存知だったんですか?>
「いえ、私もまったく(笑)。ただ、ご縁をいただいた経営者から勧めていただいて。もちろん、その時は外食っていう頭はまったくありません。ただ、ベンチャー・リンクに入社して、外食事業本部を希望し、気づいたら外食にどっぷりハマっていたって感じです」。
2007年4月、及川さんは両親の反対を押し切り、ベンチャー・リンクに入社する。
<ベンチャー・リンクさんはいかがでしたか?>
「激務という言い方がいいのかどうかわかりませんが、当時は事務所に段ボールを敷いて泊まっていました。名称は不夜城です。そこからだいたいイメージいただけると思います(笑)」。
入社直後には、九州にも飛ばされている。

とまらない。あきらめない。行動、あるのみ。

「当時、ベンチャー・リンクは経営的に厳しい状況に追い込まれていました。なかでも、まいどおおきに食堂が、シミュレーション通りに立ち上がらないということで、フランチャイズ加盟店からご批判をいただいていました。私は、ある日、辞令を受け、福岡のまいどおおきに食堂の立て直しに向かいます」。
辞令を受けた翌朝、いちばんの便で、九州に入る。
「当初のシミュレーションでは月商800万円だったんですが、そのお店は400万円。上司から言われたミッションは月商100万円アップです」。
<できるもんですか?>
「時間もかけられませんから、弁当の販売をスタートさせます。させると言っても、店長も、オーナーも半信半疑です。だから、私が朝6時から店に入って、ご飯を炊いて、弁当をつくって。スタッフは11時出勤ですから、たった1人です。むちゃくちゃさみしいし、たいへんでした。ただ、『50万円アップしたら、みなさんもお願いします』とそういう約束でスタートしていますので、たいへんでも目指せ50万円です(笑)」。
1食500円×1000食。1人ではむろんたいへん。ただ、これは次の長崎でも同じだが、少しずつ周りの目もかわる。「3ヵ月はかかりましたが、50万円はもちろん100万円アップし、ミッションコンプリートです」。
長崎では、アルバイトを採用し、朝6時から店の前で旗を振らせた。「大型の工場もあったので、そちらにも弁当の営業に行きました。長崎でも、なんとかミッションをコンプリートさせて、それで、今度は、人事に異動します」。
ベンチャー・リンクとともに、及川さんも、まだまだ波乱の渦に巻き込まれていく。むろん、大学の4年間のように恵まれてはいない。それでも、逃げることなく、たたかいつづけることで、及川さんのちからは確実に育まれていく。
あきらめないからこそ、「どうすればいいか」が生まれる。行動は、何よりも重要。机上で学んだ経営者じゃない。だから、つよい、つよい。

・・・続き

株式会社ダイニングエッジ 代表取締役 及川裕樹氏

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