in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”によね蔵グループ 有限会社島/株式会社いかの墨 代表取締役 中島敬二氏登場。
美容師になりたい息子と、調理師になって欲しい母親と。
細長いかたちをしている新潟県のほぼ中央に位置しているのが燕市。洋食器の生産で世界的なシェアをもっている。今回、ご登場いただいた中島敬二社長は1965年に、この燕市に生まれている。
お父様は洋食器の会社を経営されていたそうだが、業績が低迷。中島社長が中学1年の時に、それがもとになって両親は離婚されている。
「父と離婚してから母はスナックを経営して、それが現在の会社に生まれかわっていきます」。中島社長は、2人兄妹。妹さんは今、事業パートナーの1人。
「もともとスナックだったんですが、1989年、私が23歳のときに割烹をはじめます」と中島社長。ホームページの沿革には<1998年1月 有限会社 島 設立 【日本料理 島】 オープン>と書かれている。
「私の少年期ですか? ごくふつうかな。中学からともだちに誘われて柔道をはじめました。進学した高校に柔道部がなかったので、ラグビーに転向。最初は同好会だったんですが、すぐに部に昇格し、試合にもでていました。高校を卒業して調理の専門学校に進みます」。
<忙しいお母さんに代わって料理などはされていましたか?>そう質問すると「いえいえ」と苦笑する。
「当時は母をサポートしないといけないっていう感覚がなかったですね」。
それでも、調理の道に進んだのは母の願いを聞き入れてのこと。
「じつは小さな頃から美容師になりたかったんです。当時は人気でね。かっこいい仕事だったんです」。
<でも、あきらめた?>
「母親がスナックをやっていたでしょ。でも、夜の仕事。私らも大きくなったし、業績もかなりよくって。資金はけっきょく銀行から借り入れたんだけど。とにかく、スナックをやめて割烹をしたいっていいだしたんです」。
母は、息子をみる。
「割烹をするんだったら、もちろん料理人がいるでしょ。だから、私に料理人になって欲しいっていうんです。そりゃ、苦労もかけてきたしね。『美容師になりたい』なんて言ったら、『だったら、そうしなさい』っていうに決まっているから、そこは黙ってね」。
今でも「美容師がよかった」というような口調で、そう語る。
8時間のシフト勤務。楽すぎて退職?
「専門学校を卒業して最初にはたらいたのは『美濃吉』さんです。3年くらいお世話になりました」。
配属は東京。ただし、東京といっても仕事漬け。観光する時間もないまま時が流れていく。
「最初の2年間は朝7時に出勤して、夜の10時過ぎまで。ハードワークですが、当時はそういう時代でしたし、私らもそれがふつうだって思っていました。ただ、3年目になって、たぶん上場したからだと思うんですが、空気がガラっとかわってね」。
長時間労働が改められて、8時間のシフト勤務になったそうだ。その一方でとかく効率が重視されるようになる。
「修業中の私からすれば、効率だけじゃ物足りない。最初を知っているから余計です。今じゃ、あの時、効率化のプロセスを勉強しておいたらよかったかなと思いますが、料理をマスターするために就職した当時の私からすれば、やっぱり効率じゃなったんですよね」。
<それで、退職?>
「そう、それで、退職させてもらって新潟に帰ります。今度も、学校から紹介してもらった割烹で勤めるんですが、ここは半年くらいしかいなかったですね」。
「ちょっと暇すぎた」と笑う。
「日本料理 島」オープン。ただし、視界不良。
3社目は結婚式場。
「ただね。入社する時に、母親に改めて『お店やりたいから一緒にやろう』と言われたんです」。
お母様にすれば、念願の店をつくるという思いと、息子に残してやろうという思いがあったんだろう。
「私は小さな割烹をイメージしていたんだけどね(笑)」。
お母様は大胆にも融資を受け、営んでおられたスナックの斜め前に土地を買い、3階建ての立派な店をつくられた。「100席以上あった」というからたしかにスケールがでかい。
「でね。その結婚式場ではたらいていた時の先輩にも相談して、調理人を紹介してもらって」。
<お店は無事オープンしたんですか?>
「そう。昔、母親がいっていたように、私が高校を卒業して5年後にね」。
1989年、親子の思いを乗せて、「日本料理 島」が華々しくオープンする。
母と息子と、そして、調理人1人。
「最初の、1、2ヵ月は繁盛しました。ただ、そう上手くいきません(笑)。だってね。母親に商才はあったけど、スナックの経営とはさすがにスケールがちがう。100席以上だもの」。
「たいへんだった」と中島社長。「母親とも言い争いがたえなかった」と苦笑する。
「母親のやりたかったのは宴会場もあるようなスケールの大きな割烹料理店です。でも、私はもう、そういう時代じゃないんだと」。最初からボタンのかけちがいがあったそう。
宴会シーズンは、それなりだったが、シーズン以外は客が思ったように入らない。親子にとって、険悪な日々がつづく。
「保険として残しておいたスナックがあったのでなんとか食いつないだ」と、中島社長は、もう一度苦笑いした。
視界、不良。
「5年くらい経って、もうだめかなと思った時に、あるお誘いがあったんです」。
息子のチャレンジ。
「ある時にね。スナックの常連さんに上場企業の役員がいらしたんだけど。その人からゴルフ場のレストランのテナントのお話をいただいたんです。若かったしね。店もうまくいってなかったでしょ。だから、二つ返事でやらしてくださいって」。
ゴルフ場のレストラン。ランチはカツカレーやラーメンセット、おつまみはホルモン焼。割烹とはちがう。だが、意に介さない。
「お店のほうは流行ってないから、料理人も1人で十分。最初に誘った料理人にお願いして、私はゴルフ場のレストランで、調理師をもう1人採用して」。
<そちらが繁盛したんですね?>
「いやぁ、それがね」。
「新潟のゴルフ場は12月から2月まではだいたいクローズするんです」。スタッフは冬期解雇となり、その間はほかでアルバイトなどをするそうだ。
「でも、そのゴルフ場は日本海側にあったから、雪が降っても積もらない。だから、フルシーズンオープンしているんです。ただ、オープンしているといったって、すごく晴れた日にしかお客さんは来ません(笑)」。
クローズしないから冬期解雇もできない。スタッフを抱えたまま。
「だから、たいへんだった。でもね。そのゴルフ場の支配人に、勉強させてもらうんです。原価を意識するようになったのも初めてでした」。
経営を意識して、そのノウハウを叩き込んでいただいた。
「あの人のおかげ。今があるのは」と、中島社長は感謝の言葉を忘れない。
<オフシーズンの人件費はどう捻出されたんですか?>
「そう、なんとかしないといけないでしょ。お客さんがいなくてもスタッフはいるから人件費だけかさむ」。
立派なキッチンも、無用の長物。1人で悶々とした日々だったにちがいない。また、うまくいかないんじゃないか、と。
「そう、でも、もう失敗はできない」。頭がぐるぐる回転する。「ある日、キッチンをみて、そうだ、ここで料理をつくって、と。セントラルキッチンだよね。そういうふうに利用させてもらおうとひらめいて。もともとあった自宅を改装して居酒屋をオープン。料理は、セントラルキッチンから送ります」。
<それが沿革にある「よね蔵 吉田店」ですか?>
「そうです。1999年です。これが思った以上に繁盛するんです。最初はゴルフ場のキッチンを活用するためくらいに考えていたんですが、思った以上になって。ゴルフのキッチンだけじゃ、回らなくなって。それで、じゃぁ、こっちを本業にしようと、思い切って舵を切ったんです」。
中島社長が「思った以上」というように、連日連夜、歓声が上がる。
中島社長が大きな手応えをつかんだのは、この時が初めてだったかもしれない。2年後に「よね蔵 燕三条店」をオープン。繁盛店と、それを仕切る息子をみて、お母様はさぞ喜ばれたことだろう。この時、東京ではたらいていた、娘。つまり、中島社長の妹を呼び戻しておられる。
その後も好調をキープ。2003年にはJR新潟駅の南口に「葱ぼうず」をオープン。この時、地場の食材をつかった和のテイストに舵を切り、さらに知名度を上げていく。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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