今、飲食業界の社長様との接点多いが、大きなテーマの一つに経費削減がある。
名刺にクローズアップしお客様に提案しているが、すこぶる評判がいい。
その節は是非とも。
50社中47社は、ほぼ導入される予定である。
営業力もそうだが、いい商材ならだれでも売れる。
その積み重ねが、営業レベルを上げる。
おかけさまで、キイストンの営業は少しずつだが確実に力がついてきた。
今、飲食業界の社長様との接点多いが、大きなテーマの一つに経費削減がある。
名刺にクローズアップしお客様に提案しているが、すこぶる評判がいい。
その節は是非とも。
50社中47社は、ほぼ導入される予定である。
営業力もそうだが、いい商材ならだれでも売れる。
その積み重ねが、営業レベルを上げる。
おかけさまで、キイストンの営業は少しずつだが確実に力がついてきた。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にティー・ワイ・エクスプレス株式会社 代表取締役社長 寺田心平氏登場。
本文より~
寺田の父は祖父の代から、倉庫業を営んでいる。寺田が生まれたのは、1972年。日本経済が右肩上がりで成長を始めた頃だ。マクドナルドやケンタッキーが生まれた頃でもある。兄と妹の3人兄弟。どちからといえば目立たず、控えめな性格だったという。とはいえ、小学校時代には、学級委員長を務めるなどクラスの人気者だった。中高は、体育会系のクラブに所属し、高校ではグランドホッケーに明け暮れた。
高校卒業後、慶應義塾大学に進学。同大学総合政策学部を卒後、アメリカのUniversity Of California, San Diegoの大学院に入学し、アジア太平洋地域における国際ビジネスを学んだ。大学院在学中、1年間休学して北京に留学し、中国語を修得する。大学院卒業後、は、台北に行き、台湾の財閥企業で社会人の一歩を踏み出し始めた。そのときに、「T.Y.HARBOR BREWERY」の苦境を知るのである。・・・。
ティー・ワイ・エクスプレス株式会社 代表取締役社長 寺田心平氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
新聞見たら、えっ、もう選抜高校野球開会式?って感じだ。
早いものだ。
京都はどこが出るのか見たら立命館宇治高校であり、なんと監督は卯滝監督になっていた。※自分と同じ高校の野球部OBである。
卯滝監督は北嵯峨、鳥羽で春夏計8度も甲子園の土を踏まれた名将である。
勝ち進んでほしい。
余談たが自分も高校時代は、3年間自分も甲子園を目指していた1人の高校球児だった。
ちょうど4年前の今、東京から京都に向かっていた。
母親が倒れたので、実家の京都の病院に直行していた時間だ。
病院に着くと人工呼吸器を着けられ横たわっていた。
それから数時間後の19日の午前3時に亡くなった。
早いものだ。
あれからもう4年。
天国で幸せなのか、今までで2回だけしか夢に出てこない。
また、前職の会社のOB会より訃報のメールが入っていた。
40代である。最近多くなった。
昔はまったく考えていなかったが、最近つくずく健康あってこそ元気発信できる。
少しでも多く歩く。
食べる量を控える。
ストレスを溜めにくくする。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にトライゴン有限会社 代表取締役、株式会社デイネット 最高顧問 橋田佳明氏登場。
在学の途中でアメリカの大学に転校。大学卒業後、帰国した橋田は、ツアーコンダクターの仕事で生計を立て、26歳でトライドという会社を設立した。この時、舞い込んできたのが鉄工所の再生の話だ。「甲子園球場の近くにある60坪ぐらいの工場だったんですが、仕事が行き詰っていて、どうにかできないか、と。じゃぁ、やりましょうと、事務所を畳んで、その会社で仕事を始めたんです」。そこで、ユニークなアイデアを思いつく。「『中古のコンテナ』をお店に改造するというアイデアです」と橋田。これが「カラオケBOX」の先駆者的な実績となり、話題を集める。大手カラオケメーカーなどの専用工場をつくるまでになった。60坪だった工場が2年足らずで1200坪の工場に化けたのである。しかし、橋田の仕事はこれで終わり。「一つのブランドをつくることに成功しました。だから、次の仕事を始めたくなったのです」。
その後、再び、会社を設立。これが「イマジン」である。イマジンはインテリアデザインなどを手がける会社なのだが、橋田は、人の育成に注力した。道下浩樹、森田恭道という著名なデザイナーたちは、イマジンで育っている。・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社フーズ 代表取締役社長 周永泉(しゅう えいせん)氏登場。
周のアメリカ生活は、士官学校から数えて25年に亘り、大学中退し16年間は飲食事業に関わってきたことになる。好景気の時もあれば、不況の時もあった。メキシコ料理店を出店して手痛い失敗を経験したこともあったそうだ。その時の損失額は、当時のレートで日本円にして3億円にも達したという。しかし、大半の店が成功を収めたため苦労したものの何とか立て直すことができたという。
周が、帰国したのは、1998年。日本でも飲食事業を開始することになる。
人気の焼肉店「遊牧」銀座店が誕生したのは、この2003年の11月である。「遊牧」は山形牛を一頭買いすることでも有名。自社の職人が、現地で肉の成熟を管理し、解体するといった力の入れようである。「『遊牧』では肉の旨みが最高潮に達したときに、お客様に提供しています」と周。肉のグレードはもちろんだが、料理に一切妥協しない職人たちの姿勢が、多くのユーザーを魅了してやまない理由なのだろう。株式会社フーズは、山形牛のセリの番号を手に入れている。セリの番号はそう簡単に手に入るものではない。人との出会いや繋がりを大切にする周の人となりや、豊かな人間性が垣間見られるエピソードでもある。・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社モミアンドトイ・エンターテイメント 代表取締役社長 川上統一氏 登場。
幼稚園の頃から川上の自転車はカスタマイズされていた。改造したのは父。小学校に入ると高価なBMXを購入してもらう。それほど川上は自転車好きな少年だった。夢は競輪選手。中学生になると、クラブに入りロードレースにも参加するようになる。レースに参加すれば、負け知らずだった。この頃にはもう、泣き虫だった少年はどこにもいなくなった。高校に上がった川上は、「高校自転車連盟」に登録する。より本格的なレースに出場するためだ。だが、初めての大会で屈辱を味わうことになる。「お前が川上か」と言われるぐらい高校生にも知られていたが、予選すら通過できなかったのである。これが川上に火をつけた。大会が終わって帰宅したその夜から、本気になって練習に取り組みだす。「クレージーだった」と振り返るように、1日に通学も含め150キロのロードワークを自らに課すのだ。一方で、当時、まだ確立されていなかった練習メニューをヨーロッパのビデオなどを参考にし、思いついた練習方法を積極的に採り入れていく。やがてトップレーサーたちとも合同練習をするまでになり、いつかオリンピックやツール・ド・フランスに出場することを夢見るようになる。ジュニアオリンピックの選考ライダーに選ばれたのもこの頃。大学に行かず、実業団に入り、さらに一歩、夢に向かって踏み出した。・・・。
株式会社モミアンドトイ・エンターテイメント 代表取締役社長 川上統一氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゴールデンマジック 代表取締役社長 山本勇太氏登場。
高校3年の夏になって、進学という言葉がリアルに聞こえ出す。予備校に通い、遅れを取り戻すようにがんばったが、7校受験し、すべて落ちてしまった。一浪後、「中央大学 経済学部」に入学する。サッカーはいつの間にか趣味になっていた。サークルに入り、サッカーがある時だけ参加した。アルバイトを始めたのも大学になってから。カラオケ店で、人生初の自分のお金を手にした。「十数万円でしたが、お小遣いしかもらったことがなかったので、嬉しくてしかたなかった」という。失礼な言い方だが、ここまでは、どこにでもいる青年といっていいような気がする。一つの転機はある女性との交際だった。「彼女は年上で、すでに社会人だったものですから、食事に行くにもいいところに連れて行ってくれるんです。社会人になるってすごいことだな、と。はじめて、自分が社会に出た時のことを考えるようになったんです」。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社麦企画 代表取締役 田原旬時氏登場。
中学卒業後すぐに、田原は、夫婦で経営する小さな蕎麦屋で働くことになる。仕事は朝8時には始まり、夜遅くまで働き、夜中になって眠りにつく生活が続いた。初任給は3万円。このうち、1万円は仕送り、1万円は自分で使い、残る1万円を店主夫婦に頼んで貯金してもらっていた。
そんなある時、母が急病で入院、手術をすることになり、田原は、いままで店主夫婦に預けていた貯金を下して欲しいと頼んだが、毎月店主に預けていたと思っていた貯金は、貯められることなく使い込まれていたことを知る。少年であった田原にとって、母や弟達を思う気持ちが詰まっている大切なお金であり、店主夫婦に対する信頼も込められているものであった。この裏切りに田原は激怒し、すぐさま仕事を辞める。当時の田原にとって、それが精一杯の抗議だったのだろう。
その後、母が働いていた製造会社に転職し勤めている。田原が働いても、家族の暮らしに余裕ができたわけではないが、弟たちは高校に行かせることができた。『母を思う気持ちは兄弟一緒』と田原は言うが、その方法は違った。弟たちはしっかりと勉強し、良い会社に入ることで母を楽にさせることができるが、田原にはもうその道を歩むことはできない。弟たちの学費のこともあったのだろう。だから、『ヤクザになってでも家族を幸せにしたい』と考えたのだ。 ・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社はせ川 代表取締役 古塚建一氏登場。
「いっしょにやらへんか」。島田紳助氏からそう誘われたのは、古塚建一が、ちょうど二店舗目の出店を考えていたときだった。二つ返事で了解する。島田氏との付き合いは、1年程度に過ぎなかったが、雑誌の取材を通して知り合った二人は最初から意気投合した。何度か会ううちに、古塚はますます島田に傾倒していく。だから、二つ返事で「やらせてください」と答えたのも当然のことだった。古塚と島田氏。二人の考えが一つの明確なコンセプトとなり、共同出資で人気店「はせ川」が誕生した。今回は、この「はせ川」の産みの親の一人、古塚建一に登場いただこう。・・・。